問題篇
タイトルを「待つ女」にしようか「交差点の女」にしようか迷いました。タイトル決めるのって悩みますよね。他に妙案あったかなあ。
「かれこれ一週間になります。その女性は、同じ時間帯に同じ交差点で、歩行者信号を待っている――いえ、待っているように見えます」
諸井と名乗ったスーツ姿の男は、斜めに分けた前髪を邪魔くさそうに片手で掻きあげながら、ぼそぼそとした聞き取りづらい声で話を進める。
「僕の仕事場の窓からは、すぐそばにある交差点の様子が、歩行者の動きや信号の移り変わりまでよく見えるのです。問題の女性は、その交差点の一角に立って信号を待っているように見える――見える、と言ったのは、その女性は歩行者信号が青になっても一向に横断歩道を渡ろうとしないからです。彼女は僕の仕事場の方角を向いて立っているので、進行方向はビル側なのでしょう。けれど、進行方向の歩行者信号が青になってもなぜか微動だにせず、同じ場所に立ち尽くしているのです。
それが一度だけであれば、たとえばスマホを見ていて信号が青になったことに気付かなかったとか、そんなふうに考えることもできます。ですがしばらく時間が経ってから、もう一度何気なく窓の外を見たとき、その女性はやはり交差点の、先ほど見たときと同じ位置に立っているではないですか。さすがにおかしいなと首を傾げたくなりました。そんな風景を、もう一週間も連続して見ています」
「それで諸井さんは、なぜその女性が信号が青になっても横断歩道を渡ろうとしないのか、その謎に対して納得できる答えがほしいのだと」
「はい。なにぶん、一度気になってしまうとそのことだけに意識が集中してしまう性分でして。ここ一週間仕事のほうは注意力散漫で上司に怒られっぱなしです」仕事が手に付かないのはその女性のせいだ、と暗に非難するように、諸井は長々と溜息を吐き出した。そんな諸井の隣では、彼の高校時代の同窓生で、最初に勤めた会社で偶然的な再会を果たしたという蒲生が薄ら笑いを浮かべている。
「不思議だよなあ。進行方向の歩行者信号が青になっても横断歩道を渡らない女。しかも明らかに意図をもって渡ろうとしない。奇妙だよなあ」
「不思議だの奇妙だの騒ぎ立てているのは蒲生だけだよ」碓氷は椅子の背もたれに上半身を預け、小さく鼻を鳴らす。蒲生は大学時代に「推理小説研究会」なるサークルに所属していたこともあり、奇妙奇怪な出来事に対して妙にアンテナが鋭く反応する男なのだ。
「何だよ碓氷。『この世には、不思議なことなど何もないのだよ』とでも言うつもりか」この世には、の台詞だけわざとらしく声を低める蒲生。その隣から、諸井が遠慮がちに主張する。
「蒲生だけじゃありません。そもそも、交差点の女性が気になって仕方がなくて、彼に相談したのは僕ですから。だって、不思議としか言いようがないでしょう。横断歩道を渡る以外に、交差点に立つ理由なんてありますか」
「いくらでもあるでしょう。交通量調査のアルバイトとか、ティッシュ配りのアルバイトとか、アンケート調査のアルバイトとか」
「アルバイト縛りかよ」蒲生はつまらなさそうに小さく肩を竦めてみせる。諸井は規則正しい動きで二度、首を横に振った。
「それならば、手に何かしら持っていたはずです。交通量調査であれば数をカウントする器械、ティッシュ配りであればもちろんティッシュケース、アンケート調査ならアンケート用紙とか。でも、彼女はこれといって手に何かを持っていたわけではなかった。手ぶらだったのです」
「では、誰かと待ち合わせをしていたのでは? その女性はきっと気長な性格なのでしょう。三十分や一時間待たされるのも平気な人だったのです」
「ですが一週間、いえ、正確には僕が出勤していた日しか見なかったので五日間ですけれど。その女性は毎日、同じ交差点で誰かと待ち合わせをしていて、三十分や一時間も毎回待ちぼうけを食わされていたというのですか」
諸井の異議に、碓氷は微かに眉根を寄せて黙り込む。そして運ばれてきたばかりでまだ湯気が立ち昇る珈琲入りのカップをじっと睨みつけた。
「アルバイトの話で思いついたんだが。その女、コートを着ていたかあるいはタイツを履いていたか覚えているか」
気まずい沈黙を不意に打ち破ったのは、蒲生の弾んだ声だった。諸井は高校時代の同級生に怪訝な視線を送りながら、
「そりゃあ、この真冬日だしコートやタイツくらい着用しているだろうね」
「肝心なのは、諸井が見たその女が着用していたかどうかだ」
「もちろん、コートは着ていたと思うよ。色とか形とか、具体的な部分はあまり覚えていないけれど。それがどうしたんだい」
「俺の推理はだな。その女は、新作のコートとかタイツの機能性を実験するアルバイトをしていたのさ」
諸井は長い睫に縁取られた両目を見開き、蒲生の自信に満ちた顔を見つめる。
「ほら、よくあるだろ。人間の体温とかあらゆる物質の温度が、色分けで表示される装置」
「サーモグラフィーのことかな。物体が放射する赤外線を検出して、熱分布を調べることができる」
「そう、それ。そのサーモグラフィーを使って、新作のコートとかタイツとかの保温性を調べていたんだ。冬日に外で一定時間を過ごしてもこれだけ温かさを保ってくれますよ、ってことを検証する実験。交差点の女はその被験者だったのさ」
「一週間も実験を続けていたのかい」
「一回分だけのデータじゃ、信憑性にかけるだろ。データは多ければ多いほど信頼性が高くなるからな。実験の世界じゃ常識だ」
「何だか科学者みたいだけれど、たしかにそうだね。うん、それなら不自然でもなんでもない」
「それにだ。交差点みたいに人通りが多い場所であれば、同じ場所に突っ立ったままの女に興味を持つ通行者もいるかもしれない。そうすれば、新作のコートやタイツの保温性を実験しているんですよって宣伝にもなるだろう。実験データを取得し商品の売り込みもできる。一石二鳥ってやつだ」
「なるほど。さすが蒲生、伊達に推理小説研究会なんて団体に籍を置いていたわけじゃないんだね」
色白の顔をぱっと輝かせ、諸井は蒲生に尊敬の眼差しを送る。推理小説研究会の卒業生はというと、「まあ、この程度は朝飯前よ」と頬を緩ませ、まんざらでもない様子で鼻の下を指で掻いてみせた。それから対面に坐り黙って珈琲を堪能している友人に得意げな笑みを投げかける。
「悪かったな碓氷。今回は、お前が安楽椅子探偵の実力を発揮するまでの謎でもなかったのかもしれない」
「別に、僕は安楽椅子探偵を名乗った覚えはない」
「何だよ、不機嫌そうじゃないか。さては先に俺が謎を解き明かしたことが悔しいのか。お前も案外負けず嫌いなところがあるものな」
「そんなんじゃないさ。ただ、もし蒲生の推理したようにコートやタイツの保温性を実験していたのなら、その女性はなぜ手ぶらだったのか気になるだけで」
「どういう意味ですか」諸井が興味深げな声で問い返す。
「実験がてら商品の宣伝もしたいのであれば、たとえば『ただいま、新作コートの保温性を実験中』とか書いたボードか看板を手に立っていたほうが、通行者の目を惹くものです。手ぶらの女性が同じ場所に立っているだけでは、せいぜいナンパや勧誘目的で話しかけられるのが関の山ではないかと思いまして」
「言われてみれば、そうですね」諸井は再び真顔に戻り、乾燥知らずの艶やかな唇を指でなぞる。
「その点については、蒲生はどう考えるかな」
諸井の質疑に、蒲生はソファ椅子に背中を埋めながら声にならない声で唸る。隙ありといわんばかりに、淡々とした、だが幾分足早な調子で碓氷は続ける。
「それにだ。サーモグラフィーを使って女性の体温を計測するなら、周囲の障害物はできるだけ少ないほうがいい。けれど、交差点といえば普通の道に比べて圧倒的に人通りが多いはず。加えて、諸井さんの勤務先はオフィス街の中心部ということでしたね」
「ええ。比較的大きな企業の本社や支社ビルなんかもありますし、飲食店もあちこちに軒を並べています。女性を見るのはだいたい昼時なので、昼食に出かける人たちの往来で交差点は賑やかになります」諸井はこくりと頷いた。
「となると、人の壁がどうしても障害物となって女性の前を横切っていく。実験するには少しばかり環境が悪いとは思いませんか」
「きっと、女の近くにこっそりサーモグラフィーを設置していたのさ」蒲生が躍起な声で反論する。碓氷は友人から諸井へと視線をゆっくり移しながら、
「諸井さんは、勤め先に行くときに女性が立っている交差点を通るそうですね。付近に機械の類を設置できるようなポイントはありますか」
「ちょっとした花壇や街路樹はありますが。別に疚しいことをしているわけでもないに、堂々とサーモグラフィーを設置すればいいのではないでしょうか」
「そう。わざわざ隠し撮りするような撮影方法をとる必要はない」
すっかり形勢逆転の流れとなり、今度は蒲生が口を閉ざす番だった。「でも、蒲生の推理はとても良かったと思うよ。今までの説明の中で最も論理的だったもの」と、諸井は慌てた様子でフォローする。
「諸井さん。その交差点の女性には、他に特記すべき特徴や行動などはありませんでしたか」
「そうですね――そういえば、たまにですけど目が合うのです。その女性と」
「諸井さんが、ですか」碓氷は片方の眉を器用に持ち上げる。
「ええ。空を見上げたかなにかの拍子に、たまたま視線が僕のオフィスに向いただけかもしれませんが。存外に綺麗な容貌なものですから、ついどぎまぎしてしまいました」女性に初心なのか、頬を赤らめながら頭を掻く諸井青年。だんまりを決め込んでいた蒲生が、ここで勢いよく椅子から身を起こした。
「分かったぞ。諸井、その美女の狙いはお前だったんだよ」
「え、どういうことだい」
「交差点の女は、お前目当てに毎日同じ場所へ出向いていたのさ。女がいた位置は、お前のオフィスが入ったビルのちょうど向かいだったんだろ。ビルの窓に映るお前の姿を一目見たくて、女は毎日交差点に立ち尽くしていたのさ。ま、恋愛映画には定番のシーンだな」最後の一言はどこか投げやりな口調だった。だが諸井は、ますます顔の赤らみを濃くして完全に俯いてしまった。
「こんな寒空の下、しかも一定の時間、密かに想いを寄せる男見たさだけに交差点に張り付くものかね」
「恋や愛ってのは、時に人を狂わせ思いも寄らぬ行動に駆り立てるものさ。お前にゃ一生縁がなさそうだがな」軽口を叩く蒲生に、碓氷は盛大に顔をしかめてみせると珈琲の残りをぐいと仰いだ。
「そういや、お前のオフィスの上の階、まだ街金の連中がいんの」
二杯目の珈琲を注文したところで蒲生は唐突に話題を変える。諸井は上品な顔立ちに影を落とすと、
「ああ、まだ居座っているよ。事務所を畳むという話を小耳に挟んだから期待していたけれど、どうやらただの噂だったらしい」
「街金業者、ですか」碓氷に顔を向け、諸井は切々とした声で訴える。
「至極合法の消費者金融、と謳ってはいますが、やっていることはブラックすれすれのグレーラインですよ。僕のオフィスが入っているビルは、床の厚みがあまりないためか上の階にいる人の足音とか、ドアを閉める音とか筒抜けなんです。最近は、真上から怒鳴り声や扉を激しく閉じる音がよく聞こえてくるので、うちの社員も冷や汗ものです」
「それはお気の毒に。諸井さんのオフィスが他に移る選択肢はないのですか」
「上の階のことを抜きにすれば、立地が魅力的ですからね。それに、ここ最近は引っ越す暇なんてないくらいに仕事の量が増えていて。彼らが先に出て行くことを祈るばかりです。僕のオフィスだけじゃない。上の階の住民だって」
「住民?」碓氷は声のトーンを一つ上げて訊き返す。
「ええ。僕のオフィスがビルの三階にあって、四階が街金の事務所。五階と六階はアパートとして貸し出しているのです。ですから、上階の住民もきっと心穏やかではないでしょう」
「ふうん。嫌な連中を挟み撃ちにしたものですね」
どこか他人事のように聞いていた碓氷だったが(実際他人事ではあるのだが)、ふと言葉を切ると暮れかけた窓外の景色をぼんやりと眺めながら思案に耽り始めた。蒲生が諸井に「大学時代、推理小説のネタ探しのために闇金業者を取材した」という武勇伝を揚々と語り出したところで、窓からついと視線を逸らすと「諸井さん」と鋭い声で会話に割って入った。
「諸井さんのビルの五階と六階には、たしかに人が住んでいるのですよね」
「はあ。家族構成の詳細は分かりませんが、主婦らしき女性やホステスのような見た目の女性を、何度か見かけたことがあります」
「もう一つ。その街金の事務所は、やはり交差点の方角に窓があるのでしょうか」
「窓、ですか。ええ、ありますよ。交差点の女性が気になって、ここ数日は朝オフィスに行くときに、女性が立っている場所で信号待ちをしながら周りの景色を眺めることが日課になっているのです。僕の勤め先の上の階にも、横開き式の窓が取りつけてあります」
「何だよ碓氷、妙に真剣な顔をして。もしや昔借りていて金融業者からの借金でも思い出したか」冗談交じりの蒲生の言葉に、碓氷はたしかに深刻そうな顔で、尚且つのろのろとした動きで首を横に動かした。そしてようやっと諸井の色白の顔に焦点を定めると、
「諸井さん。もし、その女性がいつもより長い時間例の交差点に立ち続けている日があれば、念のためその日は注意したほうが良いかもしれません」
意味ありげな言葉をぽつりと漏らし、それ以上は諸井や蒲生がいくら追求しても決して口を開こうとはしなかった。