第9話 ”覚悟”
「えぇと………今日は欠席が多いですね」
6時間目の授業開始時、空席の目立つC組の教室で古文の年配教師が寂しそうに呟いた。
「………………」
もはや誰も理由を述べなかった。
***
驚きも怒りも感じられない、全ての感情を失った表情で那津希は突然化学準備室に現れた実姫を眺めていた。
「やっぱり………最初から神名さんをいじめることが目的だったんだね」
「……………」
「なんで、そこまでして……級長なんて譲っちゃえばいいじゃん。そんなに級長でいることが大事なの?」
実姫はいつものように冷静な口調で話すが、僅かに声が震えていた。
「……当たり前でしょ! ……あたしが、級長じゃなくなったら………なんにも残らないのよ」
勢いをなくした那津希はうなだれる。
咲夜は二人の会話を見守ることにした。
「なんで……? 何も残らないってどういうこと?」
「とぼけないで。あんたたちは、あたしが級長だから取り入っただけでしょ。あたしが級長だからいい顔して……でもほんとはムカついてたんじゃないの。だからあたしに級長辞めてほしいんでしょ」
「……そうね。級長を辞めさせたいのは本当……だからクラスの全員にあのメッセージを送ったの」
「!」
実姫は堂々と自分の裏切りを明かした。
「………そう。あんただったんだ。そんなに、あたしに恨みでもあんの……」
那津希は力なく笑う。
「違う。あたしは………元の那津希に戻ってほしかった」
「………」
「あんたはいじめなんてバカなことするようなやつじゃなかったでしょ。あんたは級長になってからおかしくなった。なんで……人の上に立つとか、どうでもいいじゃん」
唇を噛み締める那津希に実姫は続ける。
「確かにカナや茜はあんたの級長の肩書きを知って近付いてきたのかもしれない……でも、あたしや梓は1年の頃からずっとつるんできたじゃん。上とか下とか、そんなの関係なかった。あんたが級長になるまでは………」
それは、高2の始業式の日だった。
「あたし元Bのカナ! よろしくね那津希ちゃん」
「茜は元Eだよ~。3人とも仲良いの? 茜たちも入れて~」
やっぱりみんな分かるんだな。那津希が級長になったって。
にしてもあからさますぎ。残念だけど那津希はそういう奴嫌いだから……
「よろしくね、二人とも」
え………?
何かが変わり始めている……そう思った。
「梓どう思う? あの二人、那津希が級長だから取り入ってるの見え見えだよね。なんで那津希はあんな子たちとつるむのかな」
「………級長だからじゃない」
「え?」
多分、あたしも分かってた。でも信じたかったんだろうな。
那津希が級長になっても、あたしたちは何も変わらないって。
「放課後カラオケでも行く?」
「あ、ごめんあたしお金ないわ……」
「ないなら誰かから借りればいいじゃない」
「え……」
「あ、そういえばあの有栖川咲音ちゃんって子、高級住宅街に住んでるらしいよ〜。お嬢様っぽいもんね〜」
「……へぇ、そう」
「アリスちゃん、悪いけどお金貸してくれない……?」
「……梓。やっぱり……何か、違うんだね」
「うん。……実姫も分かるでしょ。あたしたちも那津希に従わなきゃいけないんだよ」
「……………」
その日、あたしたちと那津希はただの友達ではなくなった。
そうなってしまったのなら仕方がない。すぐに諦めはついた。
でも、神名さんが転校してきてからの那津希はあまりにも異常だった。
あの時、階段の踊り場で那津希は有栖川さんを突き落とし、その罪を神名さんに被せた。……もう見ていられなかった。
「那津希……もうやめようよ、こんなこと。……あたしはもう見たくないよ」
実姫の本音が零れた。
「だったら見なきゃいいでしょ……もうほっといてよ!」
那津希は折れない。いや、折れるわけにはいかなかった。
「あたしは強くなきゃ……強くなきゃいけないのよ……」
──『お前、足手まといになるから』
今でも思い出すだけで胸が苦しくなる。……アイツの、言葉。
「せっかく級長になれたのに………奪わないでよ……お願いだから………」
項垂れる那津希。咲夜と実姫はどちらからともなくお互いに顔を見合わせる。
そして咲夜は那津希に向き直った。
「お前の事情は……知らない。でも、強いってなんだ」
「は……?」
「誰も逆らえない奴が強いのか。卑怯な手を使って無理やり言うこと聞かせる奴が強いのか?」
「そんなの、知らないわよ」
那津希はまた強気な姿勢に戻る。
「私も正直よく分からなくなった……でも、本当にこんな形でお前の強さは証明できるのか?」
「……………」
咲夜の問いにしばらく黙り込んだのち、
「…………できる」
その返答に、二人はやや面食らった。
「どんな卑怯な手を使っても………証明してやる! これがあたしの強さだって!」
もう後戻りはできないのだ。
他に方法なんてなかった。
「………わかった」
今度は那津希と実姫が驚く。
「従ってやるよ。お前に」
「………………」
「神名さん!? 何言ってるのよ。そんなことしたら那津希が……」
「園原」
全部私に任せろ。咲夜がそう言っているような気がして、実姫は口をつぐんだ。
「……本気なの? 口で言えばいいってわけじゃないのよ。もし逆らったらまたアリスちゃんが──」
「本気だよ」
咲夜の目に迷いは感じられなかった。
「だから咲音を解放しろ」
「……そう………なら、誠意を見せなさいよ」
言いながら那津希はスマートフォンを取り出す。
「分かってるわよね?」
「……………」
視聴覚室で叶わなかったことを、那津希は再び要求しているのだ。
咲夜は表情を変えぬまま沈黙する。
咲音を助ける。そのために覚悟を決めたのだ。
右足をゆっくり下げ、左腕を床に向かって伸ばす。
那津希の顔が醜く歪んだ。
「神名さん………」
那津希のスマートフォンのカメラが咲夜を捉える。咲夜は片膝までついていた。
コイツを従わせれば、あたしはコイツより強い……あたしは、認 め ら れ ………
♪♪~
「‼」
咲夜を写していた画面が、突然着信画面に変わった。3人はしばらく動きを止める。
「…………もしもし」
『那津希チャン。………時間切れだよ』
相手は級長の誰かだろうか。咲夜と実姫は那津希の様子を伺う。
「は………何言ってんの」
『時間切れというか、もう見る価値もないって判断だよ』
「待って、どういうこと!?」
『君の役目は終わりだ。こっからは俺たちが制裁を引き継ぐ。……咲夜ちゃんの最後の試練だよ』
「…………」
蒼白の表情で立ちすくむ那津希に、
「おい、そいつが咲音を捕らえてる奴なのか?」
異様に思った咲夜が問い掛けるが、那津希は時が止まったかのように動かなかった。
「貸せ!」
痺れを切らした咲夜は那津希からスマートフォンを奪い取る。
「おい。咲音はどこだ」
『やぁ、初めまして。君が神名咲夜チャンだね。俺はA組級長の天馬戒』
電話の向こうから聞こえてきたのは間延びした男の声。
「私はもう徳森には逆らわないって言ったんだ。だからさっさと咲音を解放しろ」
そう言った咲夜を、那津希が怒りと悲しみの混ざったような目で見る。
『そんなことはどうでもいいよ。俺たちには関係ないことだ』
「な………」
咲夜は言葉を失う。
『これが最後だ。咲音チャンは体育倉庫にいる。もし君が無事に咲音チャンを助け出せたら、君たちの勝ちだ。俺たちはもう君たちに手を出さない。もちろん那津希チャンにも手は出させないよ』
ただ……と天馬は続ける。
『もし諦めたり降参した場合は、俺たちに従ってもらう』
「……………」
しばらく逡巡した後、咲夜はスマートフォンを那津希に押し付けて準備室を出て行った。
「神名さん!」
実姫も慌てながら那津希を置いて後を追う。
「神名さん、有栖川さんを助けに行くつもり?」
早足で廊下をゆく咲夜になんとか追いつく実姫。
「あぁ」
「もう素直に級長になればいいじゃない。そうすれば……」
「私が級長になったところで咲音が助かる保証もない」
天馬の真意は分からないが、今はどうでもいい。
とにかく今ここで咲音を助ける。咲夜にとってはそれだけが重要な問題だった。
咲音を助けることさえできれば、自分は間違っていなかったと証明できるのだから。
「お前はついて来るなよ。私一人で行く」
「ちょっ……」
咲夜はさっさと駆け出して行ってしまう。
「……………」
何がそこまで咲夜を突き動かすのか、実姫には分からなかった。
***
5時間目が終わったすぐ後、体育倉庫の外から声がした。
「お、戒、交代に来たのか?」
鍵を開けて扉を開いた志賀崎が声を掛ける。
「あぁ。まぁ、もうそろそろかと思って」
天馬は入り口に背をもたれると、隅っこで手を縛られて座っている咲音には目もくれずに言った。
「そろそろ?」
「最後のお楽しみだよ」
「ふーん? じゃあ俺も残ろっかな~」
しばらくすると残りの級長たちも続々と集まり、無情にも6時間目開始のチャイムが鳴った。また授業には出させてもらえないようだ。
「ふぁ〜あ。やることないんなら俺寝るわ……」
相変わらず緊張感のない白髪の男は再び真っ先に平均台で寝にかかる。
「ん? 何か始まるのか?」
「あなたは黙っていてください」
咲音と同じく何が起こるのか分かっていないらしい遠海がぼやくと、伊吹が大きなため息をついた。
最後のお楽しみって……一体何なんだろう。咲音はドキドキしながらただじっとしていることしかできなかった。
そして数分後、スマホを見ていた天馬がふいにどこかに電話をかけ始めた。
その内容に咲音は耳を疑うことになる。
『もし君が無事に咲音チャンを助け出せたら、君たちの勝ちだ』
『諦めたり降参した場合は、俺たちに従ってもらう』
その時初めて気が付いた。自分は人質だったのだ。
心臓がドクンと跳ねる。
この人たちの目的は最初から私じゃなかったんだ。うじうじ泣いてる場合なんかじゃなかった。
咲夜ちゃんが……制裁を受けてしまう。
天馬は入り口を開け放ったままだ。咲夜を待ち構えているのだろう。
逃げなきゃ。
「っ……!」
咲音は懸命に腕の縄を解きにかかるが、
「オイ」
「!」
「何逃げようとしてんだよ。テメェが先にボコられたいか?」
安御坂に睨まれ、その顔が蒼白に染まる。
「ま……待ってください。咲夜ちゃんはただ私を助けてくれただけなんです。全部私のせいなんです。だから……」
「だから?」
震える咲音の声を遮ったのは天馬だった。
口元に笑みを浮かべたまま近付いてくる。
「だったら、君が代わりになる?」
「!………」
寒気がした。全身が恐怖に支配される。逃れる場所がない。
心を覆う壁が全て取り払われて、むき出しにされたような感覚。
「どうせそんな覚悟もないくせに友達は助けてほしいとか甘いこと言ってんの?」
「……………」
「君みたいな弱いヤツは大人しく、誰かを犠牲にして自分を守ってればいいんだよ」
天馬の言葉に身体を貫かれた気がした。
そう。私は弱い。でももうそんな生き方はしたくない。
強くなりたい。咲夜ちゃんみたいに、強くなりたい。
咲夜ちゃんなら…………きっと同じことを言う。
「代わりに……なります」
声が、体が震える。涙が零れそうになる。
「私が……咲夜ちゃんの代わりに制裁を受けます」
「…………」
天馬の表情から笑みが消えたのが分かった。
「………それ、本気で言ってんの?」
「‼」
乱暴に胸ぐらを掴まれ、上半身が浮き上がる。
「………う……」
恐ろしさに声も出せない。
「……………」
天馬がうっすらと目を細めた瞬間、強烈な痛みが腹部を襲った。
「かはっ! ………っ!」
膝を蹴り込まれたらしい。痛みにうずくまると、今度は背中を思い切り踏み付けられる。
「ビビってんだろ………なら認めろよ。自分が卑怯者だって」
「…………っ……‼」
言葉にもならない抵抗を示す咲音。
こりゃ、完全に怒らせたな……。
周りの級長たちが冷静に状況を見守る中、志賀崎は心の中でこっそりとため息をついた。
そして皆が天馬と咲音の二人に集中していたために、猛スピードで飛んでくる拳に気付くのが一瞬遅れた。
それは疾風のごとく駆ける、咲夜。
「! 戒──」
志賀崎の声より早く咲夜は天馬の左頬目掛けて拳を叩き込んだ。
バシィッ──……。
そこにいる全員の視線が一点に集中する。
「………………」
咲夜の拳を受け止めたのは、頬の前にかざされた天馬の左手のひらだった。
「………咲夜ちゃ」
咲音が名前を呼ぶ間もなかった。
バキィッ‼
今度は天馬の右拳が咲夜の左頬に叩き込まれる。
「っ……!」
「咲夜ちゃん‼」
ドサッと床に倒れ込む咲夜。左の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
天馬は顔色一つ変えず咲夜の前に立った。
「見てなよ」
それは咲音に向けられた言葉だったのだろう。
「これが……級長の制裁だ」