第5話 報い
それから教室の雰囲気が変わるのにそう時間はかからなかった。
那津希は突然咲音への興味を失くしたように、一切ちょっかいを出してこなくなった。
その代わり那津希の標的は咲夜に変わっていた。咲夜の持ち物を捨てるなどの執拗な嫌がらせに加えて椅子をぶつける、いきなり蹴るなど咲音の時と比べて暴力的ないじめも目立つ。
咲夜は全く動じていない様子だったが、言い返すと言っていた割には特に歯向かうということもしない。ただただ那津希たちのいじめを受け流しているようだった。
「いやー荒れてるね徳森さん。どっちが暴力女だよって感じ」
化学実験室での授業中、同じ班の女子たちがそんな会話を始めた。
「有栖川さんも大変だったよねー。あんなのに目付けられちゃってさ」
「えっ……」
ごく自然に話しかけられ困惑する咲音。
「だよねー。あ、別にうちら有栖川さんのこと嫌いだったわけじゃないよ? 徳森さんに目付けられてたから話しかけられなかっただけで」
「そうそう。有栖川さん全然言い返さないし、されるがままって感じでほんと可哀想だったもん」
「やっぱ弱い者いじめとか見てると良心痛むよねー。まぁうちらにはどうにもできないんだけどさ」
「今は神名さんがいじめられてるからよかったよねー。あの人も相当ヤバイっぽいし、弱い者いじめって感じでもないからそっちで勝手にやってーって感じ」
「ほんとそれ。もはやどうでもいいよね」
きゃははっと笑い合う女子たち。咲音はついて行けずにただ呆然とする。誰も咲夜を哀れみもしない。
あの時那津希が言っていた咲夜の噂や咲音を階段から突き落としたと咲夜が認めたこともあり、クラスメートの咲夜に対する態度は急激に冷めていた。
弱い者いじめ……。
咲音は改めて思い知ってしまった。弱い者は同情され守られる可能性がある。だけど強い者に手が差し伸べられることはない。
あれから咲夜とは話していない。自分の身代わりにしてしまったという後ろめたさで話しかけることはできなかった。だけどどうして咲夜は自分からあんなことを言ったんだろう。
そして、なぜ那津希は急にターゲットを自分から咲夜に変えたんだろう。咲夜に対する那津希たちの怒りのボルテージが高まっていたのはなんとなく感じていた。だけどあそこまでする必要があったのだろうか……。
まるで、最初からそれが目的だったかのような……。
***
「おい戒、聞いたか?」
昼休み。テラスには天馬戒ともう一人の男子生徒の姿があった。
頭の左側にだけ剃り込みを入れたアシンメトリーの赤髪、左耳にピアスというなんともチャラい見た目の男が、いつものようにだらしなく仰け反っている天馬に歩み寄る。
「何を」
「那津希ちゃんだよ。今度はあの転校生をターゲットにしたんだってさ」
「へェ……なかなかやるね」
「お、天下のA組級長様もついに認めたか?」
「いや、見所はこれからだよ」
「ふっ、まぁそうだよな。俺らの出番もそろそろか? このB組級長、志賀崎映時様のな」
***
「はぁ〜あ。マジでウザいなアイツ」
放課後、他の生徒たちのいなくなった教室に那津希たち5人はいた。
カナが机に座ると真っ先に悪態をつく。
「なんか全然効いてないって感じ〜? 何言っても無視だし〜」
机に頬杖をつく茜。
「那津希。なんかさ、もっとこう……ガツンと! やんなきゃダメなんじゃないの?」
「そうね……あいつが絶対にあたしに逆らえないようにしないと……」
「………」
狂気に満ちたボスの顔を実姫は静かに見つめた。
それからしばらく後、話を終えた女子たちは教室を後にした。
「那津希」
カナ、茜、梓が出て行った後、実姫が那津希を呼び止める。
「ん?」
「……なんでそんなに神名さんにこだわるの?」
実姫がその言葉を放った瞬間、那津希の目が変わった。
「あんな厄介な子いじめてもあんまり意味ないと思うんだけど」
「どうしたのよ実姫。神名さんに同情でもした?」
「違う。あたしはあたしたちにとって何が都合がいいか考えて言ってるだけ」
「……………」
実姫の真っ直ぐな目に那津希は少しうろたえていた。
「別にいじめをやめろとは言わないよ。ただターゲットが神名さんっていうのはどうなのって話」
「どうなのって……あいつ散々あたしらに好き勝手言ってきてたじゃん。カナも茜もムカついてるし。いじめるには十分でしょ」
「そうかもね。でも……あたしには那津希がそう仕向けてるように見えた」
「あ、あぁ……有栖川さんを突き落としたって言ったやつ? でもあれはほんとだから。みんなに神名さんは危ない奴って思わせたかったのよ」
「違う、それより前………那津希が急に有栖川さんをいじめ始めた時から」
那津希は絶句したのち、恐ろしく顔を歪ませた。
「………何が言いたいの、実姫?」
「……別に」
「那津希ー、実姫ー、何やってんのー? 早く帰ろうよー!」
廊下からカナの声がし、2人は歩き出した。
「まぁだからって別にどうこうしようってわけじゃないけど。那津希がそうするって言うんならあたしは止めない」
「…………」
***
その翌日の放課後。咲夜はいつものようにさっさと教室を出て昇降口へ向かった。下駄箱へ目をやると、そこにあるはずの靴が消えていた。代わりにあったのは一枚の紙切れ。
『神名さんの靴は視聴覚室にあります☆ 来ないと捨てちゃうヨ(^-^)』
「………………」
そのふざけたメッセージの差出人は那津希たちの中の誰かだろうと容易に察しがついた。昼休み、特に絡んでくることもなく妙にニヤニヤしながらこちらを見ていると思ったら、そういうことか。
無視したいのは山々だが、靴がなければ帰ることもできない。
咲夜は仕方なく視聴覚室へ向かうことにした。
クラスの教室が並ぶ東棟から、渡り廊下を渡った西棟の2階に視聴覚室はある。
咲夜は視聴覚室までたどり着くと、迷うことなくその扉を開けた。
「いらっしゃ~い、神名さん」
中には予想通り那津希たちがいた。固定された長机の列の一番前や教壇の上にそれぞれ座っている。
教室の真後ろの入り口から入ってきた咲夜は、長机の間を通って那津希たちの前へと歩を進めた。その隙に入り口の近くにいた茜が扉に駆け寄り首尾よく鍵を閉める。
咲夜の靴は教壇の上に座る那津希の足下にあった。咲夜はそれを見付けると無言でそれに手を伸ばす。
「ちょっと待ちなさいよ」
那津希が靴の前にひょいと飛び下りてきた。
「そんな簡単に返すと思う? 何のためにわざわざあんたを呼び出したと思ってんのよ」
「じゃあ何が狙いだ」
咲夜はめんどくさそうに顔を歪ませる。那津希はわざとらしくスマートフォンを取り出すと、口角をつり上げて咲夜に見せつけた。
「ここであたしに土下座して。あんたの写真撮って、クラスのメッセージに貼り付けてあげるから。そしたら靴返してあげる」
「……………」
咲夜は見定めるように那津希を見る。どうやら本気らしい。
「私がお前らに謝るようなことをした覚えはないけど」
「したわよ。あたしらを罵倒して、イラつかせて、ムカつかせた。当然の報いでしょ?」
「……………」
「それにこれは謝罪の意味だけじゃない。……忠誠の証よ。二度とあたしに逆らいませんってね。そうすればあんたのことは許してあげる」
どこまでも上から目線で傲慢な態度だ。咲夜は怒りを通り越して呆れすら覚える。
とにかく靴さえ取り戻せばこんな戯れ言に付き合ってやる必要はない。咲夜は冷静に状況を観察した。
前には那津希たち4人、左右には長机の列、後ろには茜。出口は教室の真後ろにしかない。
「まぁ自分から土下座するのは難しいよねぇ。カナ、茜、手伝ってあげたら?」
スマートフォンのカメラを構えた那津希が言った。
「りょーかいっ」
「は~い」
前後からカナと茜が近付き、咲夜の体を押さえつけ始める。
「ほらさっさと土下座しろよっ!」
「……っ…」
………仕方ない、か……。
***
咲夜が視聴覚室へ向かったすぐ後のこと。昇降口に来た咲音はある人物の姿を目にした。
「やぁ、いじめられっ子チャン。いや、元か」
その人物──天馬戒はなぜかにこやかに咲音に声を掛けてきた。
「なんですか」
本能的に危険を感じて後ずさる。
「よかったじゃん。あの転入生を身代わりにしていじめられっ子から脱却するなんて、見かけによらず腹黒いねェ」
「!」
「まぁ俺はそういうの嫌いじゃないけどね」
何も言い返せなかった。言い訳のしようもない事実だ。
「……で、君はやっぱり見捨てるワケ? 君を助けてくれたコを」
「え……?」
「これあげるよ」
天馬が唐突に差し出してきたのは、咲夜の下駄箱に入っていたメモだった。咲夜はメモを下駄箱の中にそのまま残していた。
「これ……って、徳森さんたちが……?」
「さっきたまたま見つけたんだよねェ。俺も詳しいことは知らないけど」
天馬は相変わらず何を企んでいるのか分からない不気味な笑みを見せている。
「……………」
何かに取り憑かれるかように、咲音は朧気に歩き出した。
天馬は満足そうな表情でその後ろ姿を見送る。
「どういうつもりだよ戒?」
そこへあの赤髪チャラ男の志賀崎映時がやってきた。
「あんな大人しそうな子けしかけてどうするんだ?」
「別に? ………面白そうだからだよ」
***
咲音の足は自然と視聴覚室へ向かっていた。あの状況では行けと言われているようなものだ。
那津希たちは何をしようとしているのか。咲夜は今何をされているのか。自分に何ができるのか。天馬は何を企んでいるのか。それらの疑問について冷静に考えている暇などなかった。
『君はやっぱり見捨てるワケ? 君を助けてくれたコを』
あんなことを言われて、そのまま引き下がることはできなかった。そんな卑怯者にはなりたくなかった。いや、そう思われたくなかった。
できるだけゆっくり歩いていたが、とうとう視聴覚室の扉の前までたどり着いてしまう。そこは恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
もう誰もいないのか……? そう思いながら扉のドアノブに手を掛ける。しかし、返ってきたのはガチャンという鈍い感触。
鍵が閉まってる……?
ドアノブをガチャガチャと回してみるが、感触は変わらない。
「……あ、あの、誰かいるんですか……?」
返事はなかったが、代わりにガチャリと鍵の外れる音がした。
扉が開く。中から出てきたのは咲夜だった。その手には靴が握られている。
咲夜は咲音に見向きもせずに歩いていった。咲音はただ呆然とその姿を見送る。
そして何の気なしに視聴覚室の中を覗き込んでみた。
「っ…………」
その瞬間、全身が総毛立った。咲音の目に飛び込んできたのは、呻きながら机や床に倒れ込んでいる3人の少女たちの姿だった。教壇に背をもたれて床に座り込んでいる那津希は、全ての憎しみを込めたような目で咲夜の出て行った入り口を睨みつけていた。
「………あ……」
言い知れぬ恐怖を感じ、逃げるようにそこから立ち去る。廊下を歩いて行く咲夜を早足で追いかけた。
「か……神名さん、何があったの?」
「お前には関係ない」
「ちょっと待って、私にもその、責任があるかもしれないから……」
ずんずんと歩いていた咲夜がいきなり振り返る。
「お前が責任を感じる必要はない。さっきの見たんならもう私には関わりたくないだろ。ついて来るな」
「で、でもやっぱり私のせいだよ! 私が神名さんを……」
「しつこいな。だから全部私の目論見通りなんだよ!」
「えっ?」
二人はC組の教室まで戻ってきていた。
咲夜はカバンと靴を下ろすとおもむろに話し始める。
「……あいつらに喧嘩売るようなこと言ったのは、全部わざとだ」
「え……どうして……?」
「あいつらの怒りを私に向けるためだ」
「なんでっ……!」
「色々……考えた。どうしたらあいつらのいじめを止められるか。……でも、普通に止めても何の解決にもならないことは分かってたから」
咲夜は何かを思い起こすようにふっと目を伏せる。
「だから、ターゲットを私にすればいいと思った。私ならあいつらに何をされようがどうってことない。そうすれば誰も傷つかずに済むから」
「………そ……そんなの、おかしいよ……それだって何の解決にも……」
「でもお前はいじめられなくなっただろ。私は問題ないからいいんだよ」
いくらなんでも、それは人が良すぎる。そのために自分を階段から突き落とした罪を被るなんて信じられない。私にはそんなこと絶対にできない。
「どうして……そんなことができるの……?」
「?……」
それは、羨望にも似た思いだった。
そんな自己犠牲で助けられて。私は自分がターゲットではなくなったことに安心して、見て見ぬフリをして……。
これ以上、私を卑怯者にしないで……。
「……なんでお前が泣くんだよ?」
これもまた、自分のことばっかりだ。
「ごめん…………」
溢れてきた涙をなんとか押し込める。
「……ねぇ、なんとかして徳森さんにいじめをやめてもらえないかな?」
「無理だよ。あいつらはそういう人種なんだ。病気みたいなもんだ」
「でも、私はやっぱり何か理由があると思う……」
咲音は天馬の名にうろたえていた那津希を思い出す。
「………それでもどうにもできないこともある」
「そうかもしれないけど………」
「……まぁ、そうしたいならそうすれば。私も協力できることなら協力する」
俯く咲音を見て、咲夜は少し言いづらそうに目を背けながらそう言った。
「ほんとに⁉ ……ありがとう」
「というか、お前はアレ見て私のことなんとも思わないのか?」
「え? あぁー……」
蘇る先ほどの光景。あの状況を作り出したのはもちろん咲夜なのだろう。
「私、あんなの見るの初めてだから……神名さんが徳森さんたちにされてたことを思うと、どう思っていいのか分かんなくなっちゃって……」
咲音は困ったように笑うと、両手の拳を握り締めた。
「……私も、本当に弱くてダメなやつで、神名さんにも迷惑かけて……だから、ほんとは顔向けなんてできないくらいだと思う……」
──『そんなに自分が弱い人間だと思いたいならそうすれば』
咲夜の言葉が浮かぶ。今でもまだその言葉は心が痛む。
「でも、私も強くなりたい……神名さんみたいに、自分が傷つくことを恐れないで行動できるようになりたい……」
自分を守って、守られてばかりはもう嫌だから。
「あの、それでも、いいかな………」
「なんで私が許可与えなくちゃいけないんだよ」
咲夜は冗談ぽくくすりと笑った。それは初めて見る咲夜の笑った顔だった。
「……………」
「帰るか」
呆けたように咲夜の顔を見つめていると、さっさと立ち上がる。
「あ、うん」
二人は並んで校門からの道を歩く。
「ねぇ、咲夜ちゃんって呼んでもいいかな?」
「別にいいけどあんまり馴れ馴れしくするなよ」
「え、なんで?」
「なんででもだ」
咲音は構わずにこにこしながら咲夜を見つめる。
「……言っとくけど、いじめを止めようとしたのは本当にお前のためじゃないからな」
「え、でも」
「自分のためだよ」
単なる照れ隠しだと思った。
しかし咲夜の表情を見た瞬間、咲音の笑顔は消えた。
きっと嘘じゃないんだ。
でも、その理由を聞くことは何故かできなかった。
階段から突き落とした犯人の騒ぎで忘れていたが、咲夜は喧嘩をして回るような不良少女だったという噂もある。何も知らない自分がそう簡単に踏み込んではいけないのかもしれない。
そんなことを考えながらも、この時の咲音は、咲夜と協力すればきっと那津希のいじめをすぐにでも止めることができる……そう思っていた。
***
異変が起きたのはその日の夜のことだった。
クラスの全員が閲覧することができるスマートフォンアプリのメッセージに、一つの文章が送信された。
受信したクラスメートたちは例外なくその匿名で投稿された文章を目にした。
『有栖川咲音ヲ階段カラ突キ落トシタノハ神名咲夜デハナイ。彼女ハ罪ヲ被ッテイルダケダ。本当ノ犯人ハ……徳森那津希』