第3話 弱さの理由
「行ってきます」
次の日の朝、咲音は何事もなかったかのように家を出た。咲音の経験上、両親に余計な心配はかけないほうがいい。特に父親には。
ガーベラの咲いた庭を通り、小洒落た門をくぐり抜ける。
あれから一晩中考えたが、やはりいつも通り学校に登校する以外の選択肢は思いつかなかった。
とにかく今は耐えるしかない。これまでもずっと耐えてきた。少しくらい風当たりが強くなったところで、されることは今までとそれほど変わらないだろう。必死にそう言い聞かせる。
教室のドアを開けると、中にいたクラスメートたちが一斉に咲音を見た。何やら咲音の机を囲んでいたようだった。咲音に気付いた者たちはさっとその場を離れる。
誰とも目を合わせないように自分の席に向かい鞄を机に置こうとした時、それが目に入った。
「…………」
──ネクラ、ウザい、死ね。
黒いインクでデカデカと書かれたその単語を見た瞬間、思考が停止する。咲音は表情も変えずにただただ硬直した。
「うっわーひさーん」
見下した笑みを向けて近づいてきたのは那津希だ。
「ねぇそんなの先生に見られたらさあ、クラスにいじめがあるかもとか疑われんじゃん。早く拭いてきてよ」
那津希の後ろにいた取り巻きたちがクスクスと笑う。咲音は土人形のように那津希を見たまま動けない。
「早く」
拭けって……何? ここで、みんなの前で、雑巾で拭けって言うの?
今までと変わらない……そんなはずはなかった。これがイジメなんだ。
なるべく何も考えないように咲音は無表情で静かに教室を出る。雑巾を絞って机を拭いている間、クラスメートたちの侮蔑の笑みが注がれ続けた。
そんな最悪の空気の教室に、登校してきた咲夜が現れた。
何か良くないことが起きていることは明白だ。咲夜は迷うことなく咲音の席へ歩き出す。彼女を見た那津希がニヤリと笑ったことに、咲音は気付かなかった。
「………誰がやったんだよ」
咲夜の低く静かな声に、一心不乱に机を拭いていた咲音はようやく顔を上げる。
彼女の問いには誰も答えない。
「お前たちがやったのか?」
咲夜が目を向けたのは那津希たちだった。真っ先に疑われた那津希はしかし不敵な笑みを見せ、
「ハァ? 何適当なこと言ってんのよ。いきなり犯人扱いとか酷くない?」
「…………」
咲夜は那津希を睨みつけると、無言で教室を出て行った。さらに居心地の悪くなった咲音はひたすら机を拭き続ける。
だが、しばらくすると咲夜が濡れた雑巾を手にして戻ってきた。
「もっと力入れて拭かないと消えないよ」
そう言って咲夜は一緒に机を拭き始める。
「え……」
突然の咲夜の行動に、嬉しさよりも戸惑いの方が先立つ咲音。
かばってくれた……のかな?
それにしては、同情とか哀れみといったものは咲夜からは一切感じられない。と咲音は思う。
昨日も咲夜は「助けようとしたわけじゃない」と言っていたし、咲音には咲夜の行動の真意が全く分からなかった。
だが、
『君の味方は居ないと思った方がいい』
あの男──天馬戒の宣告を受けた咲音にとっては、絶望の底に差す一筋の光のように思えた。
***
「アリスちゃん」
昼休み。お手洗いに行こうと咲音が席を立った時、那津希とその取り巻きたちが堂々と目の前に立ちはだかった。
「……なん……ですか?」
「わかってんでしょ? パシリの時間」
「…………」
「ほら、さっさと注文聞きなさいよ」
「…………なに、買ってくればいいかな……」
那津希の威圧的な態度につい従ってしまう咲音。
彼女は満足そうに笑みを浮かべると、取り巻きたちに注文をつけさせた。
「じゃ、あたしはロールケーキで。行ってらっしゃ〜い」
那津希はわざとらしく手を振って見せる。
今まで散々押し付けてきていた言葉にはしない無言の圧力とか、逆らえない空気とか、そんなものはもうどうでもよくなったみたいだ。
まるでいじめられていることをクラスメートたちに見せつけられているような……。どうしてこんなに惨めな思いをしなきゃならないんだろう。
どうして……。
「ねぇ、あんた」
廊下を進んでいくと、背後から声がした。そこに立っていたのは、咲夜。
「神名さん………」
「なんであいつらの言うこと聞いてんだよ?」
咲夜は一歩近付いてくる。
「そうやって何も言い返さないからつけ上がってくるんだろ。このままずっとあいつらの財布になるつもりか?」
「それは………でも、無理だよ……」
咲夜はまだ転校してきたばかりだ。級長のことなど知るはずもない。でも今はそれでよかったかもしれない。
「私には神名さんみたいに言い返す勇気なんてないから……。きっと、徳森さんたちもそのうち飽きてくるんじゃないかな」
咲音は虚勢だけの笑顔を見せる。……あぁ、私は本当にどうしようもない人間かもしれない。
「……………」
「さっきは机拭くの手伝ってくれてありがとう。昨日も、本当はすごく嬉しかった……。徳森さんに目を付けられて、私の味方はもう誰も居ないと思ってたから」
昨日は身代わりにしようとしていたのに、こんな風に縋り付くなんて。どこまでもずるくて、嫌になる。
「私、有栖川咲音。良かったら仲良くし──」
私は、よわい人間だから。
「勘違いするな」
「え………」
それは、拒絶。そのたった一言で、世界から全ての光が消えたようだった。
咲夜の目は暗く沈み、咲音を映そうとはしない。
「助けようとした訳じゃない。あいつらのすることがただ胸くそ悪かっただけだ。これからも目に付けば止めるだろうな。でも、そうやって自分守るような奴と慣れ合うつもりはない」
「……………」
「そんなに自分が弱い人間だと思いたいならそうすれば」
咲夜はそう言って去ってしまう。
私が……弱い人間でいたいと思ってる?
……………そうだ。
咲夜は全てお見通しだった。
私は弱さで自分を守っていたんだ。
「っ…………」
零れそうになる涙を必死にこらえ、咲音は購買まで走った。
***
その頃、一人の男子生徒がテラスを占領していた。
故意に占領していたわけではないだろうが、その人物がいるだけで他の生徒たちは足を踏み入れることを躊躇うのだ。
その男子生徒の名は天馬戒。
テラスに設置された椅子にだらしなく腰かけ机に足を乗せて、彼は誰かと電話をしていた。
「ふーん、なるほどね。じゃああの噂はガチだったわけ?」
わずかな笑みをこぼしながら電話の向こうの相手に問い掛ける。
「………いや、むしろ楽しみだよ。今の状況で、あの子がどう動くのかね……」
彼は遠くを見つめるように不敵な笑みを見せた。
***
放課後、咲音は箒を手に教室の床を掃いていた。今日は掃除当番だ。
あれから数日が経っていた。那津希たちのパシリやいじめ行為は続いていたが、咲音は未だに何も抵抗できずにいる。
咲夜は積極的に咲音を助けようというわけでもないらしく、最近は咲音が那津希に何か言われても黙って見ていることが多くなった。彼女の言っていたことは本当なのだろう。
結局のところ、状況は何も変わっていない。
ふぅ、と溜め息をついた時、身体に何かが投げつけられた。
「⁉」
「アリスちゃん掃除当番なんだ~」
たっぷりの嫌な笑みを浮かべて近付いてきたのは、取り巻きを引き連れた那津希。その手にはプリントやお菓子の袋などよくわからないゴミが握られている。
「掃除なんかできんの? あんたお嬢様なんでしょ」
「私、ゴミなんか触れな~い、みたいな?」
那津希に続いて茜が茶化してくる。
「ほら、もっとゴミと仲良くなった方がいいんじゃない?」
言いながら次々とゴミを投げつけてくる那津希たち。
「っ、やめ……」
「おい」
そこに投げ入れられた声に、那津希たちの動きが止まる。
「……何、神名さん?」
現れた咲夜を嫌味っぽく睨み付ける那津希。教室にしばしの緊張が走る。
「私も手伝う」
「えっ」
咲夜はそう言って咲音が持っていた箒を奪い取った。
「へぇ~、神名さんってそんなに掃除好きだったんだぁ。いがーい──」
那津希が茶化すように言うと、咲夜は箒の毛の方を那津希に向けた。
「お前らゴミの、掃除だよ」
一瞬、時間が止まったかのように思えた。
「は? ゴミ?」
真っ先に食い付いたのはカナだった。顔を歪ませ、見下したように咲夜を見る。
「茜ゴミとか言われたの初めてなんですけど〜。キレちゃいそう〜」
口先は軽めながらも顔を引きつらせている茜。
「……へぇ、結構言うね神名さん」
取り巻きたちに続き、ようやく那津希も口を開く。その表情はすでに笑みを取り戻していた。
「じゃあこれも全部お願ーい」
那津希はさらに持っていたゴミを床に投げ捨てると、取巻きたちを連れて教室から出て行った。
咲音は声をかけるべきか迷うが、やがておずおずと口を開く。
「………神名さん、あの、ありがとう……」
「私はあいつらに何言われようがどうってことない」
咲夜は唐突にそう言った。
「あいつらに従う気もない。だから言い返すんだ」
「……………」
咲夜も続いて教室を出て行く。咲音は一人取り残された。
………神名さんは、強いなぁ。
どうしたら神名さんみたいになれるんだろう。
私はどうして強くなれないんだろう。
そんな考えが浮かんでくる。でもわかってる。
一番自分が傷付かずに済む方法を、いつだって探してるんだ……。
***
「あいつほんとなんなの⁉ 超ウザいんだけど」
昇降口から出た那津希たちは咲夜への怒りを露わにしていた。一番憤慨しているのはカナだ。
「いいコぶって内申アップ〜。狙ってるとか?」
茜がタッと一歩前に出ると、くるっと回ってそう言った。
「……ねぇ那津希」
そこで口を開いたのは、派手なメイクやアクセサリーが印象的な、白に近い金髪ウェーブヘアの園原実姫。実姫以外の4人は一斉にそちらを見る。
「神名さんの前であの子いじめるのやめたら? 面倒なことになる気しかしないけど」
実姫の提案は那津希の「はぁ?」という言葉で一蹴される。
「何言ってんのよ実姫。別に神名さんが反抗してこようがどうでもいいし。てゆーかみんなもムカつくでしょ? あいつ」
「超ムカつく〜」
「つーかアリスちゃんよりウザいかも」
「でしょ? あいつほんっと邪魔だよね」
「邪魔邪魔〜」
茜やカナは那津希に賛同しているようだが、もう一人の女子、梓は何も言わなかった。
「………そう。まぁ別にいいけど」
実姫もそれ以上は進言しなかった。
***
夜。咲音は自室のベッドに倒れ込んだ。
今はゴールデンウイーク。しばらくは那津希たちに会わずに済む。
ただ、休みが明ければまたすぐにあの空間に戻らなければならなくなる。
──『私はあいつらに何言われようがどうってことない。あいつらに従う気もない。だから言い返すんだ』
先日の咲夜の言葉を思い出す。
私があの人たちに何も言いせない理由はよく分かった。でもだからってすぐに自分を変えるなんてできない。だけどこのままではいたくない。
「……………」
どうしたら現状を変えることができるだろう。
何か……一つでも、きっかけがあれば……。
──『まぁなんで那津希チャンがいきなりあんな手に出たのか、分からなくもないけどねェ』
その時、咲音の脳裏にあの時の天馬戒の言葉が蘇った。
いきなりあんな手に……それは、急に私をいじめ始めたということ……? 何か理由があったってこと?
きっかけがあったというなら、あの日……神名さんが転校してきた日。あの時に何かがあった?
いや……もしかして神名さんが転校してきたこと自体が?
咲音は目を開いてじっと自分の部屋の天井を見つめた。
………聞かなきゃ。それしかない。