第2話 逃げ道のない場所
「神名咲夜です……よろしく」
次の日、かくして例の転入生はC組にやってきた。
少女が言葉を発すると教室に小さく歓声が響く。
藍色の毛先が跳ねた肩までの髪に、鋭く美しい眼光。近寄りがたい雰囲気はあるが、その姿に見とれる生徒もいた。
「じゃあ、席はそこの後ろの席で」
教師に促され咲夜は歩き始める。それを目で追っていると、那津希が鋭い目付きで咲夜を睨みつけていることに咲音は気付いた。
「……?」
***
「神名さん。あたし徳森那津希。仲良くしてね」
先ほどの鋭い目付きがなんだったのか分からないが、休憩時間に那津希は友好的に話し掛けていた。咲音に声を掛けてきた時もそうだったので、本心かどうかは疑わしいが。咲夜と知り合いなのかと思ったが、そういうわけでもないようだ。
那津希に続いて4人の女子たちがわらわらと咲夜を囲む。咲音は少しはらはらしながら様子を見守った。と同時にある思いが頭をよぎる。もしもこのまま、徳森さんたちの目があの子に向いてくれたら……。
「……あぁ」
少し間を置いて咲夜はそう答えた。
「ねぇ、なんでこんな時期にうちに転入してきたの? 親の都合?」
いきなり核心をつく質問をする那津希。
「……そんなところだ」
咲夜は暗にはぐらかす。
「ふーん。ま、これからよろしくね。次教室移動だから案内したげるよ」
那津希はつまらなさそうに言ったが、特に気にもせずに咲夜と他の女子たちを引き連れて行った。
***
そしていつもの昼休み──咲音にとって最も早く終わってほしい時間がやってくる。
「ねぇ神名さん、昼一緒に食べようよ」
那津希はまた真っ先に咲夜に声を掛けた。咲夜は今日ずっと那津希たちと一緒にいるので、他のクラスメートが話し掛けられるタイミングは全くなかった。
いつものように女子たちは咲音の席のすぐ近くに陣取り、咲音も無関心を装いつつ自分の席でお弁当を食べ始める。
20分が過ぎた。女子たちは相変わらず下品に食っちゃべっているが、咲夜はほとんど口を開いていないようだ。無口なタイプなんだろうか。
彼女たちはおしゃべりに夢中で咲音に何か言ってくる様子はない。今日はこのまま何事もなく終わるのかもしれない。毎日、そんな期待を抱いている。
それから5分が過ぎた時、唐突にカナが咲音を振り返った。
「アリスちゃん! そういえば昨日言ってたプリン食べたいんだけど!」
「………」
聞こえないフリ……は、もうできない。
「あ、あたしも〜」
茜も加わり、咲音に乗し掛かる圧力が増していく。
「ついでに神名さんも買ってもらいなよ。こいつ何でも買ってくれるからさ。いい友達だよ」
那津希は思ってもいないことをさらりと言う。
「ねぇアリスちゃん。友達なら買ってくれるよね?」
この空気。いつもこの人たちは、咲音が自分から行動するように仕向けてくるのだ。
「……あ、うん、買ってくるからちょっと待っててね」
ガタンと音を立てながら席を立つ。笑顔は絶やさない。昼休みが終わるまで、あと15分。
普通のお菓子より少しお高いプリンを6個も……。お金、足りるかな。
「待てよ」
その時教室に一つの声が響いた。咲夜は俯いたままだったので、まさか彼女が発した声だとは思わなかった。咲夜はつまんでいたパンを机に下ろす。
「私の分はいらない。そいつらのも買ってくる必要ない。お前らも、食べたいなら自分で買ってくればいいだろ」
教室の空気が凍りついた気がした。那津希の取り巻きたちは困惑しながらボスの顔色を窺う。今までこんな風に那津希に物申した者など誰一人いなかったのだろう。
「ちょっと待ってよ。なんで神名さんが決めるの? あたしが買ってこいって言ってるんだからいいのよ」
「お前が言ったことなら従わないといけないのか?」
「だってそいつ何も言ってこないし、あたしに従うから」
さすがの那津希にも焦りの色が浮かんでいる。
「お前らが無理矢理言うこと聞かせてるだけだろ」
「無理矢理なわけないでしょ。友達だから言うこと聞いてくれてるだけよ。ねぇ、アリスちゃん」
「………」
そこで咲夜は咲音を見た。咲音は固まったまま足がすくみそうになる。本当にそうなのかと聞きたいのだろうか。
鼓動が高鳴る。なんて言うのが正解なんだろう。
『──級長に反発して目つけられたらしいよ』
──……………。
もしも……何かが変わるなら………。
咲音はニッコリと笑顔を作った。
「私は大丈夫だよ。プリン買ってくるね」
駆け足で教室を出る。
「……ほらね。無理矢理じゃないでしょ──」
那津希がそう言うのと同時に、咲夜が音を立てて立ち上がった。
「そんな詭弁どうだっていい。もう私には話し掛けるな」
そのまま自分の席に戻ろうとした咲夜だったが、那津希が呼び止める。
「ちょっと、なんなの? 良い人ぶってんのか知らないけどさぁ。いちいち口出してこないでよ。あんたには関係ないでしょ? 迷惑なんだけど」
ついに那津希は本音を露にした。咲夜は那津希を一瞥すると、そのまま教室を出て行った。
「…………」
「……那津希、大丈夫?」
咲夜が去った後を睨み続ける那津希にカナがおそるおそる声をかける。
「あー……もう……」
その声は驚くほど低かった。
「めんどくさくなってきたわ。全部」
***
プリンを買い終えた財布の中身はなんとも寂しいものになっていた。なんとか理由をつけて来月のお小遣いを前借りするしかない。
溜め息をつきつつ教室に戻ろうとすると、廊下に立っている咲夜を見つけた。
「あ……プリン、神名さんの分もあるんだけど……」
「いらない」
「………」
拒否された咲音は何も言えなくなる。
「えっと……助けようとしてくれたのはすごく嬉しいんだけど、私は全然なんともないからさ。もう慣れちゃったし。だから私のことは気にしないでね」
咲音は笑顔を作って言った。
「別に助けようとした訳じゃない」
「あ……ごめん」
「………」
咲夜が何も言わないので、咲音はその場を立ち去った。
私は自分から変わろうとしない、よわい人間。
そして全てを他人に押し付ける、ずるい人間。
ごめんね、神名さん。
だけど私にはこうするしか……。
「お待たせ、プリン買ってきたよ」
「……おせーんだよ」
…………え?
教室のドアを開けた咲音の目に飛び込んできたのは、ついさっきまでとは明らかに違う那津希の刺すような視線だった。
「お待たせ、って何? 友達気分のつもり? 遅くなって申し訳ありませんでした、でしょ?」
那津希はまくし立てるように言うと、咲音から強引にプリンの入った袋をぶん取った。
咲音は声を上げることすらできずに立ち尽くす。心臓がうるさいほどの音を立てていた。
「なんかさぁ、もうめんどくさいんだよね。わざわざ理由つけて買いに行かせたりとかさー。もうそんなのどうでもよくない? あんたもわかってんでしょ、ただのパシリだって」
「……………」
「だからさー、もう友達ぶってる意味ないよね。てことでさっさと消えて? また用があったら呼ぶからさ」
那津希は冷酷な笑みを浮かべたまま咲音に腕を伸ばす。
「よろしくね、パシリちゃん」
ドン……。
肩を強く押され、後ずさった咲音は廊下にまで追いやられる。
那津希やその取り巻きたちの侮蔑の視線が容赦なく降り注がれた。
………どうして?
徳森さんに刃向かったのは神名さん。私は素直に従った……なのに、なんで?
なんで私が…………。
咲音は視界が真っ暗になりそうになりながらもなんとか足を動かす。
とにかくここから離れたい。
歩みは徐々にスピードを増し、やがて廊下を走り出す。
逃げてもどうにかなるわけではないことは分かっていたが、足は止まらなかった。
階段を駆け上がり、屋外休憩施設のテラスへ出る。
「ハァ、ハァ……」
生徒もまばらなテラスで咲音は喘ぐように息をついた。この息切れは走ったからというだけではない。激しい鼓動の音が脳内に鳴り響く。
たったあれだけのことで、今までかろうじて耐えていた足場がすべて崩れ去ったかのようだった。
10分も経たない間に、一体何が起こったというのだろうか。
「どこに逃げるつもり?」
「!……」
その時、咲音の背後に1つの影が立った。男の声だった。
咲音はゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、女子たちが噂をしていたあの不良男だった。
ツンツンに立たせた金髪に切れ長の目。話をしたことは一度もないが、この男の噂は咲音もよく聞いていた。1年の頃から風格を表していた、最強の不良と呼ばれる危険人物にして那津希の元カレ。この男の半径3m以内には誰も近付こうとしないという、まさに関わってはいけない存在だった。現にさっきまでテラスにいた生徒たちがいつの間にか消え去っている。そんな男が今、咲音に向かって声を発していた。
「逃げてどうするの? サボりでもするつもり? あんまり懸命な手段とは思えないけどね」
男は薄笑いを浮かべながらベラベラと喋り出す。
「私に……何か………?」
「別に? 面白そうだからちょっと見に来ただけ。あぁ、そう言えば自己紹介がまだだったね」
そう言って男は歩き出し、テラスを囲んでいる高いフェンスの網目に片足をかけた。
「俺はA組級長……天馬戒」
「……級長…………」
「君は普通の生徒だから知らないだろうけど、級長は実在するよ。俺たち不良の間じゃ有名な話だ。で、お察しの通り那津希チャンがC組の級長」
天馬はさらりと噂を肯定し、ニィと笑う。
「……わ、私、徳森さんに逆らってなんかいません……! 逆らったのは、神名さんの方で……」
咲音はすがり付くように言ったが、天馬はその不気味な笑みを一切崩さず、足を下ろしてフェンスにもたれかかった。
「まぁなんで那津希チャンがいきなりあんな手に出たのか、分からなくもないけどねェ……それと、あの転入生はちょっと例外だよ」
「え……?」
「とにかく、君はこれからどんな目に遭おうとも那津希チャンに逆らうことはできない。逃げることもできない」
天馬はさらに悪どい笑みを浮かべる。
「このままこの学校に居たいなら、いじめに耐えて大人しくしてるしかないってことだ」
「……………」
いじめ……。
咲音はその時初めて自分の置かれた状況を理解した。
私はいじめられているのか。徳森さんたちに。
「君がどうやって過ごしていくのか、俺は楽しみに見させてもらうよ」
級長には逆らえないと言いつつも、まるで逆らうことを期待しているような口振りで天馬は言う。
「あと、残念だけど俺は那津希チャンの味方だから。他の級長もね」
天馬は軽く鼻で笑ってそう言った。
「そもそも那津希チャンに目をつけられた以上、君の味方はどこにも居ないと思った方がいい」
「………」
咲音を絶望の底に突き落とす言葉を天馬は笑顔で言い放った。
「じゃ、そゆことで。精々頑張ってよ。哀れないじめられっ子チャン……」
ククッという笑いを残して、天馬は去っていった。
「…………」
咲音は倒れそうになりながらも校舎の入り口へ向かう。そろそろ昼休みが終わる。行き場なんてあの教室しかない。
教室に入ったらまたあの棘のような視線をぶつけられるんだろうか。
……だけど、自業自得だ。
私は神名さんを自分の身代わりにしようとしたんだ。
こんな自分は……いじめられたってしょうがない。
教室に戻るとクラスメートたちの冷ややかな視線が咲音を襲った。先ほど豹変した那津希の様子をクラスメートたちも見ていたのだ。
遠巻きに眺めてクスクス笑う者や、眉をひそめてひそひそ話す者。こんな短時間の間にこれほど人の態度は変わるものなのか、と咲音は思う。
こんな経験をしたことは今までに一度だってない。いつも誰かの陰に隠れていた自分がたくさんの目に晒されて、その目の全てが自分に対する負の感情を抱いているのだ。それはあまりにも耐え難い現実だった。
咲音は早足で自分の席に向かい、荷物を乱雑にまとめるとそのまま鞄を持って教室を飛び出した。
廊下に出て一心不乱に走っていると、教室に戻ってきていた咲夜とばったり出くわした。
二人は一瞬お互いを見て動きを止める。
しかし咲音はすぐに目を逸らすと昇降口に向かって駆け出した。
「………」
咲夜は面食らったようにしばらく呆然としていたが、駆けていく咲音を静かに見つめた。
***
咲音は足を止めることなくただひたすら歩き続けた。
どうしよう、出てきちゃった。まだ授業あるのに。授業サボったのなんて初めてだよ。親に知られたらどうしよう……いや、そんなことじゃなくて!
駅まで辿り着くと、ようやく咲音は落ち着きを取り戻した。
私……これからどうすればいいの……?
今日はとっさに逃げてきたけど、こんなのその場しのぎでしかない。明日にはまたあの場所に戻らなくちゃいけない。
鳴り響く電車のベルは咲音を絶望の渦に飲み込んでいく。
叫んだって誰にも届かない。
「……………」
咲音はただただホームに立ち尽くしていた。