第1話 きっかけ
きっと、私は思い上がっていたんだと思う。
幼い頃から気は強いほうだったし、喧嘩なら男子にも負けなかった。
人見知りで孤立していた生徒に積極的に話し掛けてクラスに溶け込ませたこともあるし、不登校だった不良少年の家を何度も訪ねて学校に復帰させたこともある。通知表には「いつもクラスのみんなのために頑張ってくれてありがとう」と書かれるのがお決まりだった。友達もたくさんいたし、クラスの人気者だという自覚があった。
だから、あの時も今までと同じように解決できると思っていた。
私ならできる。いや、私にしかできないことだと。そう考えるようになったのは必然だったのかもしれない。
でも、それは間違いだった。
私は今まで、問題を全て一人で解決してきたのではなかった。知っていたはずなのに、自分一人の力だと思い込んでいたのだ。
あの時──……。
私は初めて、自分の無力さを思い知った。
『あーあ。お前が余計なことするから』
『大人しくしてればよかったんだよ』
『お前のせいだ』
──………………。
気付くとカーテンの隙間から柔らかな光が差していた。いつの間に眠りについたのか、思い出せない。ただ嫌な記憶だけが頭の中にどっぷりと染み付き、朝の目覚めを最悪な気分にしていた。
同じ夢を見るのは何回目だろう。どうしても消えない、消えてくれない記憶。
「私の………せい、だ………」
少女は虚ろな目でそう声を漏らし、壁にかけられた制服を見つめる。
真新しいココア色のカーディガンに、真紅のプリーツスカート。
「………………」
少女はベッドから起き上がると、荒々しくそれらの服を掴み取った。
***
2年目の高校生活がスタートしてから2週間。有栖川咲音の通う紅城高校は、新しい転入生の噂で持ちきりだった。
諸手続きのため一度学校に来ていた姿を見た生徒たちは、「ちょっと怖そう」だの、「割りと美人っぽい」だの、好き勝手に囁き合っていた。
高2のこの時期に転入してくるということは、何か特別な理由があるのかもしれない。家の都合なのか、はたまた前の学校で何かあったのか。想像を膨らませる生徒たちによって、彼女は転入する前からすでにミステリアスな存在となっていた。
そんな転入生が一体どのクラスにくるのかと誰もが注目する中、咲音にとってそれはどうでもいい話題だった。
どうでもいいというより、そんなことを気にしている余裕がなかった。
「はぁ、はぁ、お待たせ……」
「アリスちゃん遅いー! 昼休みあと5分しかないじゃん」
「ごめんね、購買混んでて……」
必死に息切れを抑えながら教室に飛び込むと、クラスのボス、徳森那津希に威圧的な声を浴びせられた。オレンジに近い金髪のショートカット、派手な化粧にピアス。クラスの誰も逆らえない、絶対的な権力の持ち主。
アリスというのは、咲音の苗字から取ったあだ名だ。特に親しくもないのに、最初に目を付けられた時から那津希たちはずっとそう呼んでくる。この人の中では一応友達ということになっているらしい。咲音の中で友達という言葉はとっくにゲシュタルト崩壊してしまった。昼休みにお菓子を買いに行かせ、放課後に遊ぶ金をむしるのは、友達というんだったっけ。
買ってきたお菓子を袋から取り出して5人の女子たちに配る。クリームパンにアロエヨーグルト、ゼリーにジュースにカスタードプリン……。それぞれのお菓子を渡し間違えないよう慎重に、かつ迅速に。
「あー! 那津希のプリン美味しそ~」
お礼も言わずに咲音からクリームパンをもぎ取るなり、茶髪ポニーテールで長身の女子、坂蔵カナが、那津希のプリンに目を付けた。その言葉を聞きつつも、お菓子を渡し終えた咲音は即座に窓側前から2列目の自分の席に座り、お弁当を再開する。すぐ後ろから女子たちの話し声が聞こえてくるが、無関心を徹底する。
「ほんとだ〜。茜にも一口ちょうだいよー」
金髪おさげの女子、寺本茜がカナに便乗する。
この二人は、新学期になって真っ先に力のある那津希に取り入った。それからはもう完全に那津希の子分。常に那津希の機嫌を伺い、那津希の言うことやすることに同調する。那津希に連動して動く操り人形みたいな感じだ。
「絶対あげなーい」
「えーいいじゃん一口くらい!」
「やーだ。欲しかったら自分の買ってきな」
カナが食い下がるも、那津希は一切譲らない。
「えーっ? アリスちゃんあたしもコレがいい~」
カナがいきなり咲音を名指ししてきた。突然のことで動けなかったのと、聞こえていないことにしたかったのとで、結果的に咲音は一度その言葉をスルーした。
「ねえ~アリスちゃん」
カナが身を乗り出してくる。「無視」なんてことを、この人たちがそう簡単に許すはずもなかった。
「あ……今度、買ってくるね……」
小さく振り返り、ぎこちない笑みを浮かべる。これでも精一杯空気を読んだつもりだ。
昼休みが終わるまであと2分。現実的に考えて、今からまた買いに行かせるとは思えない。冗談なら軽く笑って流せばいいはずだ。
「え、今度?」
明らかに冗談とは質の違う笑いを含んだカナの返答。途端に心臓が波打ち始める。また間違ってしまったのかもしれない。
「もうすぐ授業始まるぞ~ほら食ってないで席につけ」
間延びした教師の声がした。那津希は下等生物を見るような目でそれを一瞥したが、席を立つと他の女子たちもそれぞれの席へ戻っていった。
助かった……。
咲音はこっそりと安堵の溜め息をつく。多くの生徒たちにとって退屈な授業でも、咲音にとっては学校生活の中で最も落ち着ける時間だ。
お弁当を最後まで食べることはできなかったが、それは大した問題じゃない。
それにしても、さっきのは本気でプリンを買いに行かせるつもりだったんだろうか。
咲音は空気を読むのが苦手だ。必死に空気を読んでみても、間違えることがある。間違えると、さらに自信がなくなっていく。
ウェーブがかった栗色の髪をした咲音は外見からしても大人しくて控えめな人間に見えるだろうが、いつも誰かに正解を伺っているような態度をしているから、周りの人たちも「あぁこの子は気が弱いんだなぁ」と思っていることだろう。
そんな気の弱さを一瞬で見抜かれたのか、始業式の日の放課後、那津希に声を掛けられた。「悪いんだけどお金貸してくれない?」と。本当に申し訳なさそうな態度だった。だから咲音は空気を読んでお金を貸してあげた。
それからも咲音は空気を読み続けた。何気なく購買で買ってきたお菓子を食べていたら、「それ美味しそう、食べたいなぁ。でもお金ないんだよね」と言われたから、お菓子を買ってあげた。それが他の女子たちにも広まり、いつの間にか定着した。気付かないうちに断れない空気を作り出されてしまっていたのだ。
きっと、自分にもっと勇気と気の強さがあれば断ることもできるんだろう。できるならとっくにそうしている。だけどそんな危険を冒すことはできない。空気を読まずに自分の地位を確立できる人なんてほんの一握りしかいないはずだ。
あの女子たちだって、多分咲音と同じくらい必死なんだろう。
さっきからメイクに夢中になっている園原実姫とひたすらスマートフォンをいじっていた並木梓はどうか分からないが、カナと茜は那津希の作る空気に一生懸命合わせているのが分かる。そのくらい彼女はクラスで力を持つ存在なのだ。1年の頃は紅城高校一の不良と付き合っていたという噂もあり、彼と別れた後もその影響力は絶大だった。
そんな2年C組の実質的支配層である5人の女子たちに目を付けられてしまっては、どうすることもできない。今の状況を悪化させないように努めるのが精一杯だった。
「先生ーっ! 転入生って何組にくるんすか?」
授業が始まると、一人の活気溢れる男子生徒が手を上げて教師に訊ねた。
「だからそれは明日まで秘密だって」
教師はその質問をさらりとかわす。教室にはブーイングが起こったが、教師は強引に授業を進めた。
転入生か……。
咲音はその時初めて転入生という話題に思考を巡らせた。
転入生といえば、どんな人物であれ最初は目立つものだ。もしもうちのクラスに来ればあの人たちの目が向くかもしれない。そのまま私のことはどうでもよくなってくれれば……。
今度は自虐の溜め息が溢れた。危険を冒さない生き方を続けてきた咲音は、何か問題が起きてもその解決策を他人に求める癖がついてしまっていた。
それがよくないことなのはなんとなく分かっている。でも、身に付いてしまったことを変えるのはそう簡単なことではないのだ。
***
「あ……有栖川さん。あのさ、先生が職員室まで来てって」
その日の放課後、クラスメートの女子に声を掛けられた。彼女はそれだけ言うと返事も聞かずにさっさと行ってしまった。クラスで立場の弱い咲音と関わりたくないのだろうが、あまりにもあからさますぎる。
それから彼女は別の女子たち数人のところへ直行すると、咲音の耳にも入る声量で話し始めた。
「も~やだぁ先生用事あるなら自分で呼べって感じなんだけど。有栖川さんに話し掛けて仲良いとか思われたら絶対目付けられるよね」
「ありえるー。そしたらあんたも消されるかもね」
「あぁ、アレ? 徳森さん、うちのクラスの級長って言われてるんだっけ」
「え、やっぱそれマジなの?」
「絶対そうでしょ! だってさー、あのヤバい不良も級長って噂らしいよ、A組の。徳森さんの元カレじゃん」
「あー! やっぱりそうなんだ」
「どっかのクラスでもう不登校になった人いるとか聞いたし」
「ヤバッ! 級長に逆らってってこと?」
「そうそう。級長に反発して目つけられたらしいよ」
ドキッとした。
“級長”とは、紅城高校で密かに囁かれている噂だ。あまり人と話すことがなかったので忘れかけていたが、咲音もその噂は聞いた覚えがある。
確か級長というのは、2年の各クラスに一人ずつ存在する、絶対に逆らってはいけない人物のことだ。その人物に逆らえば今後の学校生活を続けられる保証はなく、毎年2年生の一人か二人は紅城を去っているらしい。
その原因も明らかではないのだが、謎の多い級長という存在はしばしば生徒たちの話題に上っているようだ。
もしも那津希が本当に級長なのだとしたら、勇気がどうのこうのという問題ではなくなる。やっぱり、最初から逆らうことなんてできるわけなかったんだ。
「失礼します……」
担任の教師がいる職員室の扉をそっと開く。
「あぁ、有栖川か」
2年C組担任の米久先生。体育会系の教師で、大抵のことは適当に流す。そんな教師が一体自分に何の用なんだろうか。
「えー……まぁ、なんだ。最近、クラスで変わったことはないか?」
米久先生は言いにくそうに頭をかきながら話す。
「……………」
咲音の様子を見て何かに気付いたんだろうか。それとも誰かが告発したんだろうか。
「変わったこと、ですか……?」
面倒事を起こしたくない。それはこの教師も、咲音も同じだった。
「いえ、特には」
「そ、そうか。ならいいんだが……」
曖昧に笑う米久先生。
ふと机の上にあったある書類が目に留まった。
「それは……」
「あぁ、これが明日来る転入生だよ。他の生徒には秘密だが、うちのクラスに来ることになったんだ」
米久先生はこっそりと耳打ちする。
書類に小さく貼られた少女の写真に咲音は自然と惹き付けられた。
何もかもを見透かすような目。
この子はきっと、私にはない強さを持ってる。
私とは、違う……。
「ま、転入生が入ってきたらまたクラスの雰囲気も変わるだろうな」
励ましのつもりなのか、米久先生はそう言って明るく笑った。
***
♪♪~
真っ暗な部屋でスマートフォンのメッセージを知らせる音が鳴る。徳森那津希はそれを開いた。
何一つ感情のこもっていない目で画面に映し出された文字を見つめる。
『転入生』
『お前より強い』
『どちらが相応しいか』
『様子を見る』
『追って判断する』
「……………」
その文章を断片的に確認した那津希は、スマートフォンをベッドに投げつけた。