第六話「初犯の話」
大学に入って一ヶ月ばかりが経過した頃の話だ。
何度か履修する内になんとなく定着した席で頬杖を着きながら講義を受けていると、いつも隣に座っているショートボブの女の子が小声で話し掛けてきた。内容はよく覚えていないけれど、たぶん他愛ない世間話とかだったと思う。あの講師ロリコンらしいよ、とかね。
小動物を連想させるその女の子は人を惹き付ける朗らかな性格をしていて、容姿も決して悪くなく、なにより話を聞くのが突出して上手だったから、初対面でも長年来の友人のように円滑に話すことができた。
「椎名 栞です。よろしく」
「はあ、姫野 日向です。よろしく」
そんなまったく面白味のない自己紹介をしたのを覚えている。それでも、彼女は何がおかしいのか、肩を揺らして笑っていたけれど。
それから俺と彼女の仲は急速に縮まることになる。ああ、って言っても、どっちかがモーションを掛けていたとか、そういうわけじゃないよ。単純に友達として、こう、気が合ったんだろうね。気があったんじゃなくて、気が合った、というわけさ。
具体的に言うと、二日目には携帯の番号を交換するまでに進展し、三日目にはお互いを下の名前で呼ぶまでに発展した。いつからか講義以外でも顔を合わせると、立ち止まって話し込むくらいの仲になっていたし、大学の外でも時折お茶するようになった。普通の友達だったよ、その時は。
ここで一旦の閑話休題。
当時から、俺は文目と結婚を前提に男女交際をしていた。俺と彼女は、まあ、平たく言えば幼馴染というなんとも色気のない関係だったから、そうして付き合い始めてからもそれなりに円満な、清い交際関係を築けていたと思う。とは言え、何を以って順調とするのかは知らないし、彼女の方がどう思っていたかなんてのは知りようもないことだけれど、少なくとも真摯に尽くしてくれる彼女に対して不平不満は何ひとつなかったことを明記しておく。自分には勿体無いくらいの良い女だと半ば本気で思っていたくらいだ。
ここで話は再び元の道に戻るわけさ。
まあ、ぶっちゃけるとだよ。彼女が最高の女だったからと言って、浮気をしないっていうのとはまた別の話なわけでさ。結局、俺は知り合って二週間で椎名 栞と浮気を前提にした肉体関係を持つことになる。彼女も俺に恋人がいることを承知の上でその提案に快諾した。いやあ、あの子もなかなかに強かだよね。
ああ、今になって思い返してみれば、多分それが初犯だったかな。そりゃあ、まあ、最低なんだけどさ、むしろ俺なんかがよく今まで浮気しなかったよなって感じ。
それよりも文目に対する罪悪感とか呵責とか、そういうのがなかったことの方が俺にとっては自分のことながら意外だった。案外、白状なもんだね。自覚もあるから、最低男の汚名も甘んじて受け入れよう。自分の耳か、そいつの口のどちらかは塞がせてもらうけれど。
きっかけ、というよりかは、それを皮切りにして俺の女癖の悪さが頭角を現し始めたわけだけれど、しかし、そういうのに人一倍敏感な筈の文目が何故か容認するような態度を見せたのは意外と言えば意外だった。本当に気付いていないのか、それとも気付いていて気付かないフリをしているのか、どちらかは分からないけれど、どのみち俺には都合が良かった。
果たして、俺が彼女を愛していないのか、彼女が俺を愛していないのか、一体どっちなんだろうね。
まあ、それでも関係が壊れることなく一緒にいて、あまつさえ同棲なんて始めちゃうくらいだから、俺と彼女の間にはそれなりに強い結び付きがあるんだろう。きっと、雁字搦めで解くことも叶わないようなさ。
これからもずっと一緒にいれたらいいなって、そう思うよ。