五章 春・闇夜を抜けて…『敬太』
利知未の懐かしい中学時代の思い出話、第五章です。この作品は、’80年代後半から’90年代初めを時代背景としたフィクションです。(本文上の事件、出来事の下敷きとなっております。)
最愛の兄、裕一を亡くした利知未の心は、暗く沈んでいた。その中で、一つ上の先輩・田崎からの一言で大切な事に気付く。少女としても成長していく利知未の中学編、クライマックスです。
この作品は決して、未成年の喫煙、ヤンチャ行動を推奨するものではございません。ご理解の上、お楽しみ下さい。
五章 春・闇夜を抜けて…『敬太』
一
その年、下宿に新しい住人が一人増えた。仲田 冴史。今年、中学に入学する少女だ。利知未と玲子の後輩となる。利知未との初対面は、少しびっくりな事件となった。
この頃のFOXは、セガワの歌いたい気持ちに応え、練習日を週2日から3日に増やしていた。火曜を月曜に変え、水曜・木曜が練習日だ。ライブ日は変わらず金曜で、毎週、月・水・木・金の夕方は、セガワらしい格好でギターを担いだ利知未を、下宿でも見掛ける事に成る。
三月末の練習日、玄関先で玲子が誰かと押し問答をしていた。
「ですから、ココには高校一年の男なんて、住んでません!」
「そんな筈ないよ?確かな筋からの情報なんだから!!」
「確かな筋って何ですか。興信所?警察?それとも区役所の住民管理課かしら?!」
玲子は頭が良く回る。口喧嘩なら負けない。
「アッタマくんな、このコ!セガワを出してって言ってるだけじゃん!?…もしかして、アンタ、彼の彼女かなんか…?!」
「嘘!セガワ、恋人なんかいないって!」
何処で調べたのか、利知未の住所を知ったセガワファンが、二、三人、玄関先に押しかけて来た。
最近、増えたファンの中に、こんな、とんでもない事をしてくれる様な子も混ざってきていた。
「ココに住んでるのは瀬川 利知未と言う、中学二年の女子ですけど?」
「えー、じゃ、セガワ違いって事?!」
「そんな事…、…ア!セガワだ!!」
その時、利知未は廊下の影で様子を見ていた。だが、これ以上遅くなれば遅刻してしまう。今は歌う時間が少しでも欲しい。
息を吸い、気分を切り替えて、利知未はセガワとして姿を表した。
「やっぱ、いるじゃん!」
ファンの勝ち誇った顔付きにカチンと来て、その怒りを利知未に向ける。玲子は利知未を振り返って、一睨みを効かせた。『なんで今、出てくんのよ?!』と、睨んだ目が伝えている。
利知未は軽く肩を竦め、玄関先に進み出た。
「…迷惑掛けて、ワリーな。」
玲子に呟く様に詫びた。セガワ・テンションである。玲子は一瞬どきりとする。そして半分、呆れた。
『本当の男、見たい…。』
呆れた表情で固まってしまった玲子を、利知未は優しく押し退けた。
「お前等、何処で聞いて来たか知らネーけど、ココは俺が住んでる場所じゃネーぜ?…姉貴が住んでんだよ。」
朝美に協力を頼もうと思った。
「ソーなの?セガワって、お姉さんがいるの!?すっごいスクープ!!ね、どんな人なの?美人?ライブ、見に来てくれた事ある?!」
ここにいるファンの中でも、特に積極的そうな少女が、矢継ぎ早に質問を繰り出す。利知未はそれを手で制した。
「…今度、ライブ見に来て貰うからさ。…こんな玄関先じゃメーワクだ。練習行くから、そこ空けてくれよ?」
ファンが「ご免なさい!」と、素直に利知未に謝って玄関を出た。
玲子は本格的に呆れた。それと同時に、何となく利知未が気の毒な気がして、そう感じた自分に驚いた。利知未は、まだ裕一の死から完全に立ち直ってはいない。
今までの利知未からは余り想像出来ないくらいの静かさで、玲子が生活の中で色々な注意をしても、最近は喧嘩にもならない。そんな精神状態の中で、それでも今のファンに対する態度は、ぶっきらぼうではあるが、優しい感じがした。
小さく溜息を吐いて、玲子は利知未とファンの群れを、横目で見送った。
玄関を出て、三人の派手な雰囲気の少女達に囲まれながら、利知未は男っぽい様子で歩いて行く。歩き方を始め、身のこなしなど、最近は団部の仲間を見て研究をしていた。益々、磨きが掛かっている。
その姿を、母親に連れられた冴史が見た。
道に広がって歩くファンに、ぶつかりそうに成る。冴史の母親は眉を顰めていた。
避けたつもりが、夢中になって話している少女が道へ膨らみ、冴史はぶつかって転んでしまった。
「でさ、セガワ、」
と、ぶつかった本人は全く気が付いていない。利知未が気付いた。
「おい、大丈夫か?」
ファンを退けて冴史に手を差し出した。冴史も驚くが母も驚く。
「済みませんでした。」
利知未は、転んでしまった少女を連れた母親に声を掛けた。親子はびっくりしていた。冴史は差し出された手を掴んで立ち上がった。
「…洋子、気付かなかったか?」
利知未がぶつかった少女を見た。少女は赤くなって俯いた。
「ごめん、気付かなかった…。大丈夫だった…?」
その少女も、その服装や雰囲気の割には優しい声で、冴史に言う。
「大丈夫。」
冴史は小さく返事をした。利知未がほっとした顔をする。
「悪かったな、じゃ。」
言って踵を返して、歩いて行った。少女達が慌てて追い掛ける。洋子と呼ばれていた少女が、仲間の少女から軽く小突かれていた。
「派手な子達だったわね…。この辺りの子かしら…?」
母親が心配そうに呟いた。
少女達は、練習スタジオまで利知未を追い掛けようとした。利知未は、スタジオは関係者以外立ち入り禁止だと伝えた。
「あの家には迷惑を掛けて欲しくない。二度と押し掛けないでくれ。」
そう言って、少女達に二度と、こう言う事をしてくれるなと釘を指す。
しぶしぶ頷いたファンから、来週のチケットを売って欲しいと言われて、それを売り、乗り換え線の改札まで連れて行き、少女達を帰した。
練習スタジオは、十八時から二十一時半まで借りている。通常は、其々の学校が終わってから集まり、スタートは十九時頃になる。
今日もセガワは、ただ夢中で歌を歌い、ギターを弾き続けた。
メンバーはその様子を見て、利知未がまだ、悲しみから立ち直れていない事を感じる。
「今の利知未を、一人で帰すのは心配だから。」
そう言って敬太は、今日も下宿まで送ってくれた。
利知未は、敬太に送られる車の中でだけ、素の自分にいくらか戻る事が出来た。
「なぁ、敬太。」
車窓からボンヤリと夜の街を眺めながら、利知未が言う。
「何?」
ハンドルを握った敬太が、前方の信号を注意深く確認しながら聞く。
「…ちょっと、寄り道してくれないか?」
「…構わないけど、アンマリ遅くなると、心配されるんじゃないか?」
「ちょっとで良いんだ。下宿より、もう少し北西に向かった所に公園があって。…少し土地が高くなってる所で、…星が良く見えるんだ。」
街の明かりが後ろへと流れていく。人工的な光だ。利知未は今、無償に自然の光が恋しい気分だった。…裕一は、自然を愛していた。
「分かったよ、少しだけね。」
敬太が軽く微笑んで、ハンドルを切った。
利知未の道案内で、下宿やアダムの在る街より、やや北側、小高い丘の上の公園に車を止めた。ライトを消すと、足元に街明かりが見えた。
利知未が車を降りた。敬太もエンジンを切って車を降り、後を追った。
少し先のベンチへ座った利知未が、夜空を仰ぐ。敬太はゆっくりと近付いて、その隣に立った。三月下旬の、暖かくなり始めた空気が風となって、さらりと吹き抜けた。公園の植え込みも優しく揺れる。
「…気持ち良いな…。」
その風を頬に受けて、利知未が小さく呟いた。
「…そうだね。随分、暖かくなってきたよ。」
利知未が少し敬太を振り向いて、声をかける。
「隣、座ンないか?」
「そうだな…。」
二人でベンチへ並んで座り、空を仰いだ。ふいに利知未が言い出した。
「…裕兄さ、自然が好きだったんだ。…山頂から見える景色とか、でっかいヤツ。…星も、好きだったな…。山の上で見える星って凄く綺麗なんだって、良く言ってたよ。」
「空気が平地よりも、綺麗だからかも知れないな。」
「後、周りが暗いからだってさ。土地も高いモンなって俺…、…あたしが、言ったら…、…笑われた。」
少し驚いて、利知未を見た。空を仰いだまま、照れた顔をしている。
「…裕兄に、いつも言われてたンだ。まだ、俺って言ってるのか?って。一昨年の夏に会った時も言われた。…今更、遅いかもしれないけど…。」
泣きそうな顔になる。しかし、必至で堪えていた。
泣き顔は見られたくなかった。それでも滲んで来てしまった涙を、袖で拭う。止まってくれなくて、斜め後ろを見た。
必至で泣き顔を隠そうとしている利知未の背中を見て、敬太はそっと、その肩を抱いた。無理に覗き込んだりはせずに、そのまま空を仰いだ。
利知未は敬太の手の暖かさに、少しずつ気持ちが落着いていく。
徐々に涙が止まって行った。そして、敬太を想う気持ちがなんなのか。改めて、言葉として理解した。
『あたしは、敬太が、好きなんだ…。』
敬太の前では、少女としての自分に戻りたいと思う。
FOXのセガワは作られた少年だ。だが、歌う事はまだ止められない。
「…ごめん。もう平気だ。…行こう。」
涙が止まった顔を笑顔に変えて、敬太を見た。敬太が頷いて立ち上がる。
悲しみを乗り越え様と頑張る、華奢な背中が愛しかった。
敬太は益々、少女としての利知未を愛して行く。
『…けど、もう少し時間が必要だ。』
自分の想いを、今の利知未に押し付ける事は、出来ないと思った。
下宿まで送り届け、笑顔を見せた利知未に軽く手を上げて車を出した。
一人、運転をしながら思う。
『利知未を、支えてやりたい…。』
FOXのセガワではなく、素のままの利知未を。その華奢な心を、自分が守りたいと思った。
利知未が玄関へ入ったのは、十一時過ぎだった。
練習日に利知未の帰宅が、十時半を過ぎるのは滅多に無い事だ。里沙は心配して待っていた。利知未が静かに、玄関のドアを開けて入って来た音を聞き、リビングから慌てて出て行った。
「…遅かったのね。」
それでも無事な姿を確認して、少しホッとして迎える。
「心配掛けて、ごめん。」
利知未は短く詫びた。その雰囲気に、里沙は何か微妙な変化を感じる。
「まぁ、良いわ。無事に帰って来たんだもの。…けど、これから十時半を過ぎるような時には、必ず連絡をちょうだい。何処かで事故にでも巻込まれたかと思って、心配してしまうわ。」
「分かったよ。」
呟いて答え、自室へ向かった。
「お夕飯、食べるわよね?温め直しておくわ。」
階段を登りかける利知未の後姿へ、声を掛ける。小さく返事が聞こえた。
翌朝八時ごろ、利知未は朝美の部屋に顔を出した。
朝美は今年、簿記の専門学校へ通う事にした。一年間の職業訓練校だ。その専門学校を出るまで、この下宿で暮す事に成っている。
「利知未にしては、珍しく早いじゃない。」
部屋に迎え入れ、テレビを見ながら話す。
「バイト、行くんだろ?」
「十時からね。で、どうしたの?」
朝美は、裕一の死後、落ち込んでいた利知未に対して、以前と変わらない様子で接してくれていた。利知未は、その態度に少し救われた。妙に心配顔で気遣われるよりも、気が楽だと感じている。
「来週の金曜日、何か用事あるか?」
「来週?学校はまだ始まらないし、バイトだけだよ?」
少しホッとした顔で、利知未が切り出した。
「ライブ、見に来てくれないか?…セガワの姉貴の振りして。チケット代はいらないから。」
朝美は驚いた顔をして、利知未を見た。直ぐにニコリと笑顔を見せる。
「イーけど、…昨日のファンの子達が原因?」
夕食の席で、玲子が話していた事を思い出す。
昨夜は新しい住人・冴史も、その席に着いていた。
朝美が同席していない、もう一人の住人、利知未の事を話してあげていたタイミングだった。玲子が夕方、玄関先での押し問答を話し出した。
「私、本当に呆れちゃった。元々、男か女か判らないのに益々、男見たいになって。それに、あの集団はいったい何なのよ?」
かなり苛ついている様子だった。事実、玲子は苛ついていた。
『何かバカみたい…。人の事、構っていられるような状態じゃないクセに。あんな人達にまで気を使って…。』
喧嘩相手の利知未が、傍迷惑な少女達相手に、優しい態度を取って見せていた事に、何故か苛ついている。
利知未は玲子と対等に、口喧嘩でも勉強でも渡り合う良いライバルだった。利知未はアレで頭も切れるタイプだ。
「…もしかして私が、そこの道で擦れ違った人達かな…?」
冴史が小声で言った。
「派手な女の子を三人も引き連れた、見た目だけは良い顔のギター背負った男を見たのなら、多分、その集団よ。」
玲子が言葉を吐き捨てる。朝美は玲子のその様子に軽く吹き出す。
「…すっかり、地が出て来たネ?玲子。」
クスクス笑う。冴史は首を傾げる。玲子は照れ隠しに少し膨れている。
「二年近くも利知未を相手にしてたら、すっかり真面目に話してるのがバカバカしくなったんです。」
食事を口にする。そのまま少し膨れた様子で、黙々と食べ進めた。
「その、瀬川利知未さんって、玲子さんと同じ学年の、お姉さんなんですよね?…あの時のヒトは、高校生くらいの男の人に見えました。」
転んだ自分に手を差し出した、あの姿を思い出す。確かに、綺麗な顔をしたお兄さんの様に見えていた。変わった人…。
「そう言う事にして、アマチュアバンドに参加してるの。学校には知られていないみたいだから、取り敢えずそっとしといてあげてね。」
朝美は利知未の事を良く見ている。今、そのスタイルでバンドに参加している事が、利知未の心にとって、どれほど大切な時間なのかも薄々、感じていた。
「私が四月から通う城西中学の、三年生なんですね。」
何か思っている様子の冴史に、今度は朝美が首を傾げたのだった。
部屋の中まで進んだ利知未が、朝美の勉強机の椅子にドサッと座る。
カーペットの上で、足を投げ出してテレビを見ていた朝美が、テレビを消して利知未の方へと向き直った。
利知未は、俺、と言い掛けて言い直す。責めてセガワでない時ぐらいは気を付け様と、昨夜、心に決めたばかりだ。
「…あたし…、一応、今年で高校二年になるって、誤魔化してるだろ?」
一人称が改まった利知未に、朝美が眉を上げる。
『どーした風の吹き回しやら…。…やっぱり、お兄さんの事かな…?』
思うが、突っ込むのは止めた。利知未は女なんだから、それが普通だ。
「昨日、あの子達に、ここに二度と来ない様に言っておいたンだけど…。あたしがココから出て行った事の理由に、姉貴が住んでるって事にしたんだ。」
利知未が軽く溜息を付く。何となく少女らしい雰囲気に磨きが掛かって来た様で、朝美の眉がまた上がった。
『…お兄さんの事だけじゃ、ナイのかも…。』
ニマリと、口元が緩んでしまう。それを目にした利知未が変な顔をした。
「…なんだよ?あたしって言うの、可笑しいか?」
本当は凄く照れ臭い。それでも裕一と敬太の事を思い出して、利知未は頑張ろうとしている。
「んーン、別に。…それが普通じゃん?」
朝美は、そっぽを向いて誤魔化した。もしも本当に、利知未に色恋沙汰が絡んできているのなら、その相手は十中八九、バンドの中にいるだろうと推理した。…これは面白そうかもしれない。
「で、来週ね?イーよ。楽しそうだし。…ね、何て呼べば良いの?」
「何が?」
「姉貴って事になってるなら、セガワって呼ぶのも変だし。だからって、利知未って呼んだら駄目でしょ?」
朝美に聞かれて、それもそうだと思う。暫らく二人で考えて、朝美が思い付く。
「…じゃ、智紀の名前借りちゃおう。あたしも、その方が間違わなくて済みそうだし。」
朝美の義弟の名前を、そのまま流用しようと言う事だ。
「ソーすると、瀬川 智紀って事になるのか…。なんか、あたしが混乱しそうだ…。」
朝美の机に片頬杖を突いて呟いた。
「ゴロは悪くないんじゃない?」
朝美がニコリと言った。それを横目で見て、利知未が軽く頷いて見せた。
「…ソーだな。…チョイ、騒がれちまうかもしれネーけど、ヘーキか?」
「まっかせなさい!」
朝美は胸を叩いて、快く引き受けてくれた。
二
四月頭の金曜日。FOXのライブに、約速通り朝美が現れた。
利知未は前日の練習日に、ファンの一部が下宿に押しかけてきた事、誤魔化す為に朝美を姉貴としてライブに呼んだ事。朝美が自分の名前を呼ぶ時には、朝美の義弟の名前を借り、智紀と呼ばれる事などを説明しておいた。
「オレが睨んだ通りだな。」
リーダーが控えめにニヤリと笑った。利知未が聞く。
「何が?」
「セガワを見つけた、自分の才能が恐ろしいよ。」
裕一の死後、利知未に気を使って、余り軽い様子を見せない様にしていたリーダーが、久し振りに軽い笑いを見せた。
「気楽な事、言わないでくれよ。結構、参ったんだ。…何であんな事、出来るんだろうな…?」
押し掛けてきた、ファンの顔を思い出した。
その日のライブも、客は大入り満員だった。
FOXはニューイヤーライブ以降、ステージ時間を一時間、貰うようになっていた。それまでよりも十五分、長くなったのだ。それに伴い、人気のある曲を必ず三曲、演奏メニューの中に組み込む様になっていた。その曲の中には、利知未が初めてココで歌った曲も入っていた。セガワの歌も変わっていた。
深い悲しみを知り、自分の想いを歌に乗せるようになった。人を好きになる気持ちに気付き始めた頃からは、客席のファンに確りと視線を向け、心に呼び掛ける様にして歌うようになった。
一月間でのセガワの変化は、ファンの心を益々、魅了して行った。
由美はカウンター席からライブを見ている。以前ならステージ前まで進み出て、セガワを間近で見ていた。大人しくカウンター席から遠目で見るようになったのは、ニューイヤーライブ以降だった。三月の頭以来、帰宅時までセガワを追いかける事も無くなっていた。
今日はライブが始まって直ぐ、見なれないサラリーマン風の男がやって来て、由美と話しをしていた。
客席の様子は、ステージから意外と良く見える。利知未は歌いながら由美の様子を見て、少々、不安を感じていた。
三曲目に、あの歌を歌い終わった時、由美が男の腕に自分の腕を絡ませ、店を出て行った…。
その姿を目に入れ、利知未の心が微かにざわめいた。悪い予感が襲った。利知未の微妙な心の変化に、敬太だけが気付いていた。
ライブが終わり、客席で取り巻きの相手をしている利知未の傍に、朝美がやっとの思いで近付いてきた。
朝美は軽く深呼吸をして、声を出す。
「智紀!」
その名前で利知未を呼んで、少し変な気分になって小さく笑った。
「朝美、ワリー…。」
姉さんとか、姉貴と呼ぶのは、呼び慣れていないので止めておいた。弟が姉を呼び捨てにするくらいは、普通にある事だ。
「すっごい人気じゃん?始めて見たよ、ライブなんて。」
ニコリと笑顔を見せる朝美に、利知未はセガワとして、男っぽい笑顔を返した。朝美は、ちょっとびっくりした。
『玲子が言っていた通りだわ…。呆れちゃうくらい男っぽい…。』
言葉使いや態度が男っぽいのなら、この二年間の利知未を見続けてきたのだ。今更、驚く事もない。だが、笑顔の作り方まで変えている利知未の器用さに、感心してしまった。
「ね、誰?この人。」
ファンの一人、押しかけてきたメンバーでは無い少女が首を傾げる。
「俺の姉貴だよ。」
「えー!?セガワにお姉さんがいたの!?ウッソー!ホントに?!」
目を丸くして朝美を見た。朝美は中々、良い度胸をしている。そのファンに堂々とした笑顔を返す。
「じゃ、この人がソーなの?!…アンマリ、似てないみたい。」
洋子が『既に他のファンよりも先にこのスクープを知っていた』という、自慢げな態度で口を出した。
「血は繋がってないもの。智紀が、お義母さんに連れられて来たの、まだ二歳の頃だもんね?」
家庭の事情もそのまま流用だ。その方が何かと都合が良い。
「エ?ソーなの!?」
洋子と一緒に、押し掛けてきていた少女の一人が、目を丸くする。
「ああ。…けど、仲は良いんだ。」
利知未も話しを合わせる。朝美の家庭の事情は、この二年間の内に色々聞いてきている。口裏も合わせ易い。
「…って言うかぁ、セガワって、智紀って言う名前なの?!」
やはり下宿に押し掛けた少女の一人が、新たな発見に少し興奮気味だ。
「そうだよ。」
短く利知未が答えた。
「なんで、名前の方でステージ立たないの?」
突っ込んだ質問が飛んで来た。利知未は素早く頭を働かせる。
「苗字だけの方が、覚えられ易いと思ったんだよ。人に名乗る時、苗字で名乗るヤツの方が多いだろ?」
団部では、そうだった。呼び方も苗字だ。
「ソーかな…?ソーかも…。」
何となく納得してくれた。利知未はココまでだと思い、話しを変える。
「それより、来週のチケット何枚、必要だって?」
「三枚。また新しい友達、連れて来るから。」
「判った。…ワリー、俺のチケットこれで終わりだ。」
「えー!?」
残りのファンが不満の声を上げた。朝美は、そのやり取りを近くで見て、改めて感心してしまう。その雰囲気、正しく少年だ。
利知未はいつも通り、他のメンバーにチケットを譲ってもらった。
朝美はチケットのやり取りが終わったファンに、利知未と共に囲まれてしまった。ファンの質問が矢継ぎ早に飛出す。
「ね、セガワって小さい頃は、どんな感じだったの?」
「やっぱり学校でも人気者なの?」
「どうして別々に住んでいるの?」
等、色々だ。適当に本当の智紀の話しを混ぜて、答えられる事だけ答え、タイミングを見て、利知未と共にFOXメンバーの席へ逃げ出した。
朝美の、あっけらかんとした明るい性格は、リーダーのノリと上手く噛み合った。二人で盛り上がっている様子を横目で見て、利知未は敬太の隣でカクテルを口にした。
「ライブの途中、何か気に成った事でもあった?」
敬太が心配そうに聞いた。
利知未はライブの途中、見慣れない男と腕を組んで店を出た、由美の姿を思い出した。
「…由美が途中で、店を出て行ったんだ。」
「いつもセガワを追い掛けてる、あの子の事よね?」
反対隣でファンの相手をしていたアキが、その話しに反応した。
「見なれない男と腕組んで…。…何となく嫌な予感がしたんだ。」
呟く様に言った利知未の顔を、敬太が心配そうに見た。
「由美って、いつもカウンターで飲んでる、ショートカットの気が強そうな子だよね?」
アキのファンが口を出す。由美は、この店で有名だった。
「…アンマリ、良くない噂を聞いてるよ。」
利知未が、そのファンを見た。目で問い掛けている。
「…何か、さ。…売春してるって、そんな噂。」
少し言い難そうに教えてくれた。利知未は益々、不安感に襲われた。
『…来週、来てたら確認して見よう。』
噂は噂だ。ここで全てを真に受けるのは、嫌な予感を肯定してしまう事に成りそうな気がした。
「噂だろ?本当と決まった訳じゃないよ。」
無理に少し笑顔を作って、アキファンに言った。
「…そうだね。僕も余り言わない様に気を付けるよ。」
少し考えて、そう答えてくれた。彼は最近のセガワに、古くからのFOXファンとして敬意を払っていた。
その日は、朝美も一緒だから大丈夫だと言って、電車で帰った。敬太はいつも遠回りをして送ってくれていた。敬太と二人の時、素の自分でいられる瞬間は心も休まる。だが朝美に、その自分を見せるのは少し照れ臭い気もする。
帰りの電車の中で、朝美がニヤニヤして利知未を眺めていた。
「…なんだよ?」
朝美のニヤケ顔に見られ、落着かなかった。ムッツリと利知未が言う。可笑しな含み笑いをして、朝美が言った。
「…敬太君って、カワイイ感じだね…?」
利知未は少し慌てた様子で顔を赤らめる。
「カワイイって、朝美と同い年じゃネーか。」
そっぽを向く。女の子らしい雰囲気で照れている利知未が、朝美には可愛く見えた。
「りっちゃん、カワイイ!」
「…気味悪い呼び方、すンなよな。」
ニヤニヤしている朝美に、膨れた顔で利知未が言った。そして直ぐに真面目な顔付きになる。
「…それより、気になる事もあるんだ…。」
雰囲気が急に変わった利知未に、朝美も表情を変えた。
「何?」
「…由美って子が、いるんだけどさ…。」
そう言って、由美の事を話し出した。
初めてステージに立った日から、由美は積極的だった。
キスをされた事だけは、話せなかった。
毎週、セガワを追い掛けていた。利知未は何度、戸惑わされて来たか解らない。けれど今年に入ってからの由美は、何となく変わってきた。大事にして上げないといけない相手だとも思い始めていた。
そう感じるようになった頃、突然の裕一の死があり、利知未は自分の事だけで精一杯になってしまった。
「危ないコトしてんだ。その子。」
話しが一通り終わった時、朝美が真面目な顔で呟いた。
「今日、聞いた噂もチョイ気になるし…。まだ決まった訳じゃネーケドな。…でも、」
話しは長かった。既に下宿の最寄り駅まで、後、一駅もない頃だ。
「帰ったら、もう少しゆっくり話そうよ?あたし、お腹空いちゃってマトモな思考回路が働かないよ。」
気分を解す様にニコリと笑顔を見せて、朝美が言った。
週が変わり、新学年。利知未の最上級生としての、学校生活が始まった。
今年も真新しい学生服を着た新入生が、舞い散る桜の花弁を纏って正門を潜る。
「瀬川さん!」
掠れた声を掛けられて利知未が振り向くと、宏治が勧誘活動の為に並べている机の向こうから、団部式礼を寄越した。
「…宏治だったのか。…またエライ声になってンな。」
「声変りみたいで…。何か、自分でも変な感じです。」
利知未は久し振りに、自分の周囲を取り巻く変化を受け止めた。
漸く心が余裕を取り戻し始めた様だった。宏治の成長に笑顔を見せる。宏治は、その表情を見てあきらかにホッとした様子を見せた。
「そーか…。もう、そんな歳なんだ。」
「そんな歳って、瀬川さんと一つしか違いませんよ。」
雰囲気が大分、男らしくなっていた。背もまた少し伸びた様だ。
「怪我もしてないみたいだな。」
「瀬川さんのお蔭です。この間もチョイあったんですが…。取り敢えず、足手纏いにだけはならずに済みました。」
そこに高坂が声を掛けながら、校舎からこちらへ向かって来た。
「うっす!お疲れ様です!!」
宏治が団部式礼を格好良く決めた。利知未は去年、部室で宏治の手当てをしてやったゴールデンウイーク前を思い出し、比べ見て頬が緩む。
『宏治も、団員らしくなってたンだな…。』
その穏やかな様子を目に留めて、高坂がイイ笑顔を見せた。
『瀬川、やっと落着いて来たみたいだ…。』
「おう。新団員、集まりそうか?」
「譲渡式を見て、昔から憧れてたって言う新入生が何人か…。」
「そうか。…そういう時代なのかな…。」
また更に大人びた様な、そんな顔を見せた。
最近は近隣の学校との抗争も、大分減ってきた。それでもまだ少しは、気合の入ったヤツも残っており、偶にどうかすると応援団部員は喧嘩騒ぎに出向いて行く。
「手塚、結構ヤルようになってたぜ。瀬川が仕込んだって?」
「仕込んだって言う程の事はしてないよ。逃げ方、教えただけだ。」
「そーか。ンじゃ、後は手塚の持ち前の根性が成せる技ってコトか。」
宏治にも、先輩らしいイイ笑顔を見せた。宏治は照れて俯く。
「…まだ、まだっス。」
そう言った様子も、中々、男っぽくなって来ていた。
「そー言えば、頭、固めてンな。いつからだ?」
「今日からだよ。大野が勧誘に立つんなら、バシッと見せておいた方が効果適だって言って、さっき手塚の頭、弄ってたぜ。」
高坂が答えた。大野も二年の頃から髪は固めていた。
「可愛がって貰ってんじゃないか。」
利知未がニコリと宏治を見る。宏治はやはり俯き気味だ。
「手塚と、今年、四組になった結城が、今ントコ団部二年中で一番イイ根性持ってるぜ。喧嘩はマダマダだけどな?」
ニヤ、と宏治を見た。少しはヤルようになっているが、やはり力は団員の中でも弱い方で、体格も小さい。しかし根性は二年随一だという。宏治はそんな風に誉められて、落着かなかった。
「あ!」
小さな叫び声を聞いて、利知未は正門側を振り返った。
冴史が保護者代理の里沙と二人、正門を抜けてきた所だった。
「里沙が保護者なのか?」
利知未が二人に声を掛けた。去年、一昨年の団長・副団長に比べればまだ大人しいが、高坂もやや気合の入った髪型で、学ランも気合が入っている。二人は目を丸くして、利知未と、その近くにいる高坂、宏治の三人を見た。
「ええ。…随分、ヤンチャそうなお友達ね。」
里沙は、それでも微かな笑顔を見せた。冴史は好奇心いっぱいの目を向けている。『面白そう…!』心の中では、そう思う。
冴史は、お話しを作るのが大好きな少女だった。夢は作家だ。
利知未とは、下宿で何度か擦れ違っている。
この頃の利知未は、裕一の事、由美の事、敬太の事、バンドの事、様々な思いに捕われ、悩み、以前のような無邪気に騒がしい様子がなりを潜め、すっかり落ち着いてしまっていた。
元々、身長も高く、言動も少年のような利知未だ。余り冴史と親しく言葉を交わす雰囲気ではなかった。
それでも初めて下宿で会った時には、セガワとして、ファンに囲まれて歩いていた時の対面記憶があったので、短い言葉を交わしていた。
三月最終週。月の練習とライブが終わった翌日。土曜夜の事だ。
利知未が部屋を出て、風呂に向かおうとしていた時だった。
「…お前、新しい住人だったんだな。」
隣の部屋へ入ろうと扉に手を掛けた冴史に、呟くように言った。
「…あ、初めまして…?じゃ、ないのか…。」
冴史も驚いた様子で、小さく言った。
「この間は悪かったな。怪我しなかったか?」
「はい。大丈夫でした。」
「そっか…。取り敢えず、よろしくな。」
「よろしくお願いします。」
それだけの会話だ。直ぐに利知未は、階下へと降りて行ってしまった。
擦れ違った時に利知未からした、微かなタバコの匂いが印象に残った。
「応援団部の、団長だよ。」
高坂を指して利知未が言った。高坂は応援団式礼をした。目上に対する礼儀は、一年の頃から叩き込まれている。
「うっす!ご苦労様です!!」
新入生を連れて来た保護者に対して、そう言った。
里沙は微笑を感心した表情に変え、今度はにっこりと微笑んだ。
「利知未が、お世話になっています。今年から入学する仲田 冴史よ。この子の事も、よろしく面倒、見てあげてください。」
「うっす!」
もう一度礼をして、顔を上げた。一瞬、見惚れる。里沙は祖母の血を引いて、金髪碧眼の容姿を持った美人だ。年頃の少年としては当然の反応かもしれない。他の保護者に比べても格段に若い。
その高坂の様子を見て、利知未は昔の様な、楽しげな笑顔を見せた。表情は随分と大人びて、女らしくなっている。
今度は冴史が、その利知未に少しだけ見惚れてしまった。
利知未も中性的ではあるが、元々、綺麗な顔を持っている。
二年の終わり頃から、学校でも少女らしく振舞う様になっていた。敬太に対する想いと、裕一の死から深い悲しみを知った利知未の成長は、少女らしい様子にも磨きを掛けていたのだった。
三
由美は事務所の一部屋に軟禁されていた。腕には、新しい注射針の痕が残っている。
四月に入って直ぐ、由美は以前から関りがあった暴力団事務所の一部屋に、押し込められた。始めは何をされるのかも解らなかった。また客からクレームでも入り、以前の様に、お仕置きを受けるのかと思って構えていた。
あんなのは、二度と嫌だった。
「由美、お前。最近、随分と客取る様になったな。」
売春グループを纏めている、暴力団内で中堅所の位置にいる男が、ニヤニヤして近くに寄って来た。
「…だから何?また客からクレームでも入ったの…?」
そっぽを向いて、由美が吐き捨てた。
「逆だ。近頃お前の指名客が多くてな。金曜の夜に、もう一人客を取ってもらいたいんだ。」
由美がビクリとして男を見る。男は変わらずニヤニヤしている。
「…イヤ。」
セガワに会えなくなる。その思いだけが、由美の心に浮かんできた。
「ワガママ言ってんじゃねーぞ?!随分、目を掛けてやっただろーが?!そろそろ恩返し、してもらわネーとな?おい!」
ドアの外に声を掛けると、下っ端が二人、何かを持って部屋へ入った。
「とは言え、良く稼ぐようになったからな。…褒美をヤルよ。」
何か嫌な予感がして、由美は逃げようとした。だが、その道のプロが三人掛かりでやる事だ。由美ごとき逃げられよう筈は無かった。
由美は、あっという間に抑え込まれた。腕に冷たい針の感触がした。
それから変な気分になり、妙に気分が良くなってきた。フワフワして、身体に力が入らない…。
その状態で由美は、去年と同じ様に男達に組み敷かれてしまった…。
四月十三日。
利知未は優と二人、裕一の四十九日の法要に出席した。
裕一の死から先の法要や行事に付いては、これまで余り面識の無かった親戚が気を使ってくれた。
「裕一君は本当に良い子だった…。息子に、裕一君の爪の垢でも飲ませてやりたかったよ…。」
ホンの三ヶ月間、世話になった親戚の父親が、墓前で呟いた。
困った息子を抱え、随分と苦労をして来たのは確かそうだった。
前日は四月二度目のライブ日だった。利知未はステージの上から、由美の姿を探した。しかし、由美は現れなかった。これまでに無かった事だ。利知未の中で、また不安が膨らんだ。
だが翌日に、裕一の四十九日法要を控えていた。それで由美の事は気になっていたが、何も行動を起こす事が出来ずに、敬太に送られて下宿へ帰った。
帰宅した利知未は、真っ先に朝美の部屋へ向かった。
「由美が、ライブに来なかった…。」
不安を隠し切れない利知未の様子に、朝美は無理に笑って見せた。
「由美って子だって、風邪引いたりする事も有るんじゃないの?心配し過ぎだよ…。明日は四十九日でしょ?今夜は早く休んだ方が良いよ。」
朝美に宥められ、利知未は大人しく、その言葉に従った。
帰りの車の中で、敬太にも同じ様な事を言われていた。
その頃の由美は、薬が切れると幻聴、幻覚が現れる様になっていた。
かなりハイペースで薬を使われていた。そして朦朧とする意識の中で、客を取らされ続けた。事務所の一部屋に軟禁状態が続いている。
隣の部屋から、話し声が聞こえて来た。
「次の取引は二十七日の深夜だ。ブツはいつも通り前日に運び込む。」
薬の効力の狭間で、偶に正気に戻る時があった。この状態が暫く続くと、また禁断症状が表れる。身体の機能にも、影響を及ぼす。
由美は正気が戻っている内に、カレンダーを確認した。よれよれの字で、忘れてしまわないようにメモを取る。
『二十七日、土曜深夜、山下埠頭、倉庫前…。二十六日にブツ…。』
セガワの顔が浮かんでくる。歌が聞こえる様な気がした。
『…セガワ…、会いたいよ……。』
「…あ…、ぅ…、アァ!!」
身体が禁断症状に震え出した。急いでメモを仕舞い込む。由美の足元のカーペットに、独特な匂いを広げながら、いやな染みが出来た。
「なんだ!?もう切れたのか!?」
ガチャリとドアが開き、男が顔を顰めて床に転がる由美を見た。
「また、ヤりやがったな!?」
つかつかと近寄り、由美の髪を引っ張って引き摺る。
「おい!誰かいねーか!?」
怒鳴り声。直ぐに下っ端が駆け付けた。
「お姫様を風呂に入れてやンな!ション便の始末もしておけ!」
由美をドサリと、その下っ端に投げつけた。ソイツは見た目にいやな顔をして、言付けられた事を片付け始めた。
その夜も由美は、客を取らされた。
三週目、火曜。利知未は浮かない顔をして、応援団部室に現れた。
今年の団部内構成は、三年が高坂・大野を入れて七人、二年は宏治と、見所があると言われていた結城 一彦を入れて九人。新一年生は、それなりに気合が入った雰囲気の生徒が三人と、普通に応援団に憧れて入団した生徒が、五人程だ。総勢二十四名の部になっていた。
部室に入り浸っている生徒は、団長・副団から、喧嘩や根性を認められた二年四人と、三年のみだ。
宏治と結城は、その中に含まれていた。喧嘩は他の二年二人の方が強いらしいが、宏治はその根性と性格で、意外と団部内でも認められる存在になっていた。
宏治、結城以外で二年の一人、去年の団旗持ち高坂から、それを託された尾崎忠と言うのが、喧嘩で言えば二年の二番手になるらしい。
利知未は今年、最上級生だ。三年以外は如何な実力の持ち主でも、普通に話しをする事は許されない。団部規律だ。恐らく喧嘩の実力も、今年になって利知未が校内一の使い手だろう。ただし高坂と大野は、二年のお礼参り事件の頃に比べて、格段に強くはなっていた。場数を踏み、力も体力も男らしく成長している。
利知未が部室に現れると、下級生が一斉に挨拶を寄越した。
「…随分、増えたモンだな…。」
去年までは三人程しか、授業中に部室へ入り浸っている奴はいなかった。今年は五人。雁首揃えて、トランプなどやっている。
「宏治は、いないんだな。」
「手塚は、意外と真面目に授業受けてます。」
尾崎が、自分の手札からカードを捨てながら言う。
随分とフレンドリーな雰囲気になった物だと、利知未は思った。
「どうした?最近じゃ珍しいな。」
高坂が言った。利知未は裕一の夢を引き継いで、医者になろうと決心してから、真面目に授業を受けるようになっていた。
「ああ、チョイ、気に成る事があってさ。…授業、頭に入らネーから気晴らしに来た。」
言いながら、空いている席に座った。大野が心配そうな表情になる。
「何かアンなら、力ンなるぜ…?」
集まっている全員が、利知未に注目した。利知未は少し怯む感じになり、直ぐに小さく笑顔を作った。
「…心配かけたか?悪い。…何にもないよ。…あたしもゲームに混ぜてくれよ?」
利知未の一人称が変わっていた事を知っていたのは、クラスメートの高坂だけだった。大野が少しびっくりした顔をする。二年は去年、マトモに話した事が無かった。そのまま、その言葉を受け入れた。
今年の新入団員の中には、随分と女らしい雰囲気になった利知未に、密かに憧れを抱いた生徒もいるらしかった。勿論、利知未は知らない。
その週のライブにも、由美は現れない。利知未の不安はまた募った。帰りの車の中で、敬太に不安を打ち明けた。
「…確かに、ちょっと気に成るな…。…来週、また見掛けなかったら、ちょっと探って見ようか?」
ハンドルを握った敬太が、ミラー越しに頼もしい微笑をして見せた。
「…敬太も、一緒に探ってくれるのか…?」
「利知未一人じゃ、手におえないだろ?」
敬太の言葉でやっと、少しだけ安心する事が出来た。
「…サンキュ、敬太。」
小さな声で利知未が言った。敬太は小さく、けれど確りと頷いた。
翌週。四月最後の金曜日。二十六日。
明後日からゴールデンウイークに突入する、そんな日だった。
由美は今日もライブに現れない。利知未はステージ後、取り巻きの相手をしながら、イライラと落着かない気分を味わった。
ともすれば、自分を取り巻く少女達の中に、由美の最近を知っている子が居るかもしれないと、気持を切り替えて話しを切り出して見た。
「なぁ、最近、由美、見た奴いるか?」
チケットのやり取りをしながら、フイに言い出したセガワに、以前、由美と一悶着起こし掛けた気の強そうな少女が、首を傾げながら答える。
「由美って、あたしが前、喧嘩しかけちゃった怖い感じの子だよね?」
利知未が頷いて見せる。少女は眉を顰めながら続けて言った。
「…なんか、歌舞伎町辺りの怪しげなトコで、見た事があったよ…?あたしさ、新宿で、この間までバイトしてたンだけど…。」
新宿は電車を使う場合の乗換駅だ。利知未は余り街に出て見た事は無かった。…しかし、この情報で如何すれば良いのかは見当が付かない。
「…それって、あの噂の暴力団事務所の、近くなんじゃない…?」
「ああ、由美ってコが関ってるって噂の…?」
ファン同士が話し始めた。利知未は黙って、その話しを聞いた。
しかし、それ以上の情報も無く、利知未はチケットのやり取りを終えると、直ぐに店を出た。敬太も席を立って、利知未の後を追う。
二人で店の外へ出た。利知未は目を細め、思案顔だ。
『ココから、どうやって探って行けば良いンだろう…?』
「あ、あれ…!」
敬太が驚いた声を上げた。利知未も顔を上げ、同じ方向へ視線を向ける。
「…由美!!」
ライブハウスの裏口がある、狭い路地の壁に寄り掛かって、朦朧とした視線をさ迷わせていた。利知未が駆け寄り、由美の肩を揺さ振る。
「由美!どうした?俺が解るか…?」
ギターがずり落ち、邪魔になって敬太に預けた。改めて由美の両肩に手を掛けて支える。由美の顔を覗き込んだ。
「…あ…。セガワ…。良かった、元のセガワに、戻ってる…。」
ぼんやりとした目を、利知未の顔に向けた。敬太は利知未の直ぐ後ろから、その由美の目を凝視した。
「…これ、ヤバイぞ…。」
呟いた敬太の声に、利知未が顔を振り向ける。
「ヤバイって、どう言う…?」
「…薬、やってるヤツの目だ…。」
利知未が目を見開く。言葉の意味を頭で理解出来るまでが長かった。
「前、参加してたバンドのライブの時、その店の便所で薬やってるヤツ等を見た事がある。…間違い無いよ…。」
敬太が呟く様に言い、利知未もやっと理解した。
「…どうして!?」
由美の肩を、もう一度揺さ振った。由美が脱力して利知未の肩に凭れ掛ってきた。意識が遠退きかけている…。
『セガワに…やっと会えた…。もう、イーや…どーなったって…。』
由美は、事務所に運び込まれた品物が、一時、何処に置かれているか知っていた。否。まだ、これ程の薬付けになる前に探り出していた。
『売春、他にも、させられてるコいるんだろうな…。アタシみたいに…。』
十二月の終わりから四月に入って直ぐ、自分にされた事を思い出した。セガワに対する想いとの狭間で悩み、苦しんだ自分を思う。
そして注射をされてからの、自分の扱われ方。
『セガワが言った通りだ…。こんなヤバイこと…、…しちゃ、いけなかった…!…ごめんなさい。言う事、聞かなくて…。』
心の底から後悔した。セガワに会いたくなった。声を聞きたくなった。
それと、自分の様な思いをさせられる少女を、これ以上増やしてはいけないと思った。由美も様々な体験の中で、人の事を思い遣る気持を知った。一番の切っ掛けは、本当に好きだと思える相手に出会えた事。
セガワの辛そうな歌声は、由美に相手を気遣う気持ちを教えていた。
好きな人が苦しんでいる、悲しんでいる。それを何とかしてあげられたら良いのにと、そう思える気持ちが自分にもある事を教えてくれた。
だから、今日。監視の目を抜けて、ソレをバッグとポケットに積め込んだ。今夜は客を取らされる予定だった。その待ち合わせ場所へ行く振りをして、電車を乗り継いでここまで来た。途中で薬が切れかけて自分で注射をした。コレを警察に持って行くまでは、正気でいなければならないと必死だった。
けれど、その前にどうしても、セガワの顔を見たくてココへ来た。
「ごめん、セガワ…言う事、聞かなくて…。でも、自分から手を出したんじゃないよ…。ソレだけは、信じて…。」
小さな震える声で由美が言った。
「前、セガワが言ってたから、コレだけは、絶対ヤルつもり、無かったんだ…。本当だよ…?」
肩に凭れる由美を、そっと抱きしめた。そして小さく頷いた。
「…ああ。分かったよ。…分かったから…、」
『アタシ、もう無理だ…。自分じゃ、コレ持って行けそうも無いや…。』
ポケットから、白い粉が入った小袋を掴み出す。震える手で何かを渡そうとしている由美に、利知未が気付く。しかし手が、もう普通に利かない様子だ。その二袋を地面に落としてしまった。敬太が拾い上げた。
メモも一緒に落ちた。ミミズがのたくっている様な字で、何とか読む事が出来るぐらいの文字だった。
「ソレ…、隠して…。お願い…。そんで、そのメモ…警察に…!」
路地の表通りに車の止まった音がした。由美がビクリと身を震わせた。
「…アイツ等だ…!」
身体を離し、由美はふら着く足で路地を出て行こうとする。手を伸ばし、その腕を掴もうとした利知未の手を力なく払う。
「早く、ソレ、しまって…、…逃げて…!」
何とも言えない迫力に、一瞬、利知未の動きが止まった。だが直ぐに追いかけ様として、敬太に後ろから腕を掴まれた。
「駄目だ!彼女に言われた通りにしよう!」
低いが強い口調で制された。
「でも…!」
「オレ達が出てって何が出来る?!一緒に掴まってお仕舞いだ!そんな事になったら、由美が命がけで持って来たコイツを、無駄にする事になる!…今は、堪えるんだ。…行くぞ。」
いつもの敬太からは、想像できないような迫力だった。
通りから声がして来た。利知未は反射的に耳を覆う。
「コイツ、何処行ってヤがった!?ブツをどうした?!」
バシンと、大きな音が響いた。由美の小さな悲鳴が上がる。
「バッグん中に、いっぱい入ってるぜ、兄貴!」
「コレで全部か?」
掠れた由美の声がした。
「…そーよ…。アタシだって、コレ、無い、と……ぅ、ぁ…、うぁ…!」
変な声がして、男の声が叫ぶ。
「うわ!コイツ、またション便漏らしやがった…!汚ネーな!」
「仕方ない、車に押し込め!」
車のドアが開く音、ドサッと身を投げられた音、ドアが閉まり走り出す車の音…。それらの音が、目を瞑って耳を塞いだ利知未の脳裏に、嫌な映像を流した。壁に頭を預け、動けない…。
「…警察に、行こう…。」
敬太が利知未の両肩に、そっと手を置いて言った。
敬太の車で真っ直ぐに警察署へ向かった。
まだ中学三年の利知未が出て行く事は、返ってややこしい状況になるからと言って、敬太は一人で署内に入って行った。一刻を争う状況だ。遅くなれば、それだけ由美の命が危険に晒される。
敬太は利知未の事だけを伏せ、問題の薬とメモを出し、今、起こったばかりの事柄を通報した。
車の中で一人、利知未は不安と恐怖に震えていた。涙が滲む。
『由美…。…あたし…俺の所為だ…。…自分の事だけでいっぱいで、由美の事を気に掛けてやれなかった…ごめんな…。どうか無事で…。』
パトカーが何台も走り出て行く。それから暫くして、敬太が出てきた。
「明日、改めて出頭する事になった。」
車に乗り込んだ敬太が、疲れを隠し切れない様子で言った。
「…何で、敬太が?」
まだ涙に濡れた瞳で敬太を見た。
「仕方ないよ。麻薬だから…。事情を詳しく説明するだけだよ。オレが問題、起こした訳じゃないんだから、心配しないで。」
利知未の頭をクシャっと撫でた。その手の感触で、利知未は少しだけホッとする事が出来た。
この騒ぎで約三週間、FOXのライブ活動は休止せざるをえなかった。
下宿に戻った利知未は朝美にだけ、今、起ったばかりの事件を話した。
そして二晩を数え…。暗闇の様なゴールデンウイークがやって来た。
四
四月二十八日。日曜。
ゴールデンウイーク初日の朝、八時になったばかりだった。
朝美が利知未の部屋に、ノックをするのももどかしげに、慌てて飛び込んできた。
「ちょっと利知未!!テレビ!!」
二日間、殆ど眠れないでいた。寝不足でボーっとする頭で、朝美の姿を目に入れる。
「何?」
「何でも良いから、あたしの部屋に来て!」
腕を掴み、ベッドから利知未を引っ張っり起こして、自分の部屋へと急いで連れて行く。自室のドアの開け閉てさえもどかしい。
利知未の部屋の隣室で、今の騒ぎを耳にした冴史がそっと扉を出た。
『何だろ…?騒がしいな…。』
廊下に出て、朝美の部屋の扉前へ向かった。ドアは半分、開いていた。
朝美の部屋へ入り、テレビの前に座らされた。利知未は、その映像と音声が伝えている内容を、何がなんだか分からないまま見つめる。
「二十六日・二十三時頃、警察がある若者の通報を受け、この暴力団事務所へ踏み込みました。そこには……、」
レポーターが真面目な、そして沈痛な面持ちで状況を説明している。
「…今回の麻薬取引検挙事件での被害者は、都内に住む東野由美さんと言う、僅か十六才の未来ある少女一人でした……。」
利知未は頭の中で、理解が追い付いて行けない。
画面に映し出された少女の写真を見て、一度に今、報道されている事件の情報が、雪崩の様に押し寄せた。
「…由美さんは、この暴力団事務所の少女売春グループで……、」
「………うそ…だろ………?」
利知未が小さく呟く。朝美はその姿を、辛そうな表情で見つめる。
『…間に合わなかった……。』
利知未の目から涙が溢れ出した。頭をハンマーで撲りつけられたような衝撃と痛みが走る。
冴史は、肩を震わせている利知未の後姿を、廊下から見つめていた。
後悔と、悲しみと、口惜しさが、聞こえて来た泣声に溢れていた。
朝美の部屋でそのまま泣き続けた。朝美は黙って見つめていた。
冴史は利知未の泣声を聞いている内に、何だか自分まで悲しい気持ちになり、静かに自室へ戻って行った。
昼前に電話だと言って、玲子が利知未を呼びに来た。既に涙は消えていたが、その表情の暗さに玲子は驚いた。
『裕一さんの、お葬式の後みたい…。』
漸く最近、立ち直り掛けてきていた利知未を、今度はどんな悲劇が襲ったのか。玲子は想像も出来ないでいた。ただ、その暗い部分に態々、触れる事だけは止めておいた。
電話は敬太からだった。利知未は直ぐに会いに行った。
敬太は未成年だ。この大事件の第一通報者と言う立場で、マスコミに注目される中、警察の保護によって、その姿を晒す事だけは免れていた。
ライブハウスは連日、報道陣のカメラが張っていた。その所為で、FOXのライブは暫く休まざるを得なくなった。練習スタジオも危ない。あの手の連中は何処でどうやって調べ上げてくるのか知らないが、大事件に関る人物と、それを取り巻く環境を、信じられない程に良く利く鼻で嗅ぎ当ててくる。
敬太は下宿の最寄り駅まで、父親の車を借りてきた。
いつものワゴンは、暫く使わない方が良い様な気がしていた。
保護されているとは言え、何処からどんな目が見ているか判らない。東京近辺から、少しでも離れた場所へ車を走らせた。静岡に入り伊豆の方まで向かった。
何処まで行っても、何かに追い掛けられている気がして落着かなかった。
漸く寂れた感じの小さな漁港で車を止めた。まだ初心者マークも取れない敬太には、やや疲れを感じる位の距離だった。利知未は助手席で、じっと俯き身を固くしていた。
「…ごめんな…。」
呟く様に詫びた敬太を、利知未はやっと目に入れる。
「…何で敬太が、謝るんだよ…?」
怯え切っている幼い子供のような利知未の様子に、敬太の胸が痛んだ。
「…オレがあの時、利知未を止めたからかもしれない…。あのコが…。…警察は間に合わなかったんだな…。」
そう言って目を伏せた。利知未は再び浮かんでくる涙を止められない。
「…敬太の所為じゃ無い…。あたしが…、FOXのセガワが由美を追い詰めたんだ…。きっと…。」
泣きながら言葉を搾り出す。敬太の心がまた痛みを増した。
「…利知未。…バンド辞めるか……?」
これ程までに苦しんでいる利知未を、無理矢理セガワとしてステージに立たせていて、良いのか…?
しかし利知未は、首を振った。
「そんな事、今は考えられないけど…。でも、責任を果たさないと駄目なんだ…。由美がセガワをあんなに想っていたのなら、…俺は由美の為に、もっと歌い続けないといけない…。」
涙を無理に押し込めた。利知未はドアを開け、車を降りた。
敬太は利知未を、辛い気持ちで見つめている。
自分も車を降りて、海に向かって歩いて行く利知未を追う。
利知未は海に足をぶらりと投げ出して、港の端に座った。
遠景に網を手入れしている漁師が見える。仲間の漁師と言葉を交わして、豪快に笑い合っていた。
元気なその姿が、肩を縮めて海をボンヤリ見つめている利知未の姿を、その深く沈んでいる様子を対照的に引き立てる。
敬太が、利知未の隣に立った。
「…俺、今までは、自分のために歌っていた…。」
利知未がボソリと呟く。
「…あたしは、それで救われた…。」
利知未の中で、FOXのセガワとしての思いと、自分本来の、少女としての思いが、混ぜこぜになって渦巻いていた。小さな呟きを繰り返す。
「俺は、由美を追い詰めた。」
「あたしは…、由美を追い詰めた…。」
セガワになったり、利知未になったり、くるくると思いが回転する…。
自分の肩を抱いて小さくなった…。震えている…。
後ろから利知未を抱きしめた。利知未の身体がピクリと反応した。我慢の限界だった。
少女の利知未へとスイッチが入る。上半身を敬太に預け、声を出して、泣き出した…。
涙を流しながら、利知未の気持ちが、一つの答えを導いた。
『…コレは、罰かもしれない…。セガワとして色んな人を欺いて、そうまでして自分の心だけを守ろうとしてきた…。その罰だ。…だから…、…逃げちゃ、いけないんだ…。…きっと。』
翌日、利知未はセガワとして、敬太と二人で由美の葬式へ参列した。
FOXのライブを見に来た事がある生徒は、この大事件で取り上げられているライブハウスを知っている。
『少女はあるアマチュアバンドのメンバーに証拠品を託した』と言う部分に注目して、『純粋な恋愛感情が生んだ悲しい結末』等と解説するコメンテーターのお蔭で、その場所は何度もテレビ画面に映し出された。
その麻薬取引検挙事件には、犯罪の低年齢化、騙された少女達、社会の暗部の今後の方向性を占う、と言う様な副題がついて注目度が高く、全国ネットで大きく取り沙汰された。
それでも飽きっぽい視聴者が多い時代だ。二週間もすると、また新しい事件が起こり、マスコミの興味はそちらの方へと向かっていった。
冴史はその頃、この事件の報道を良く見ていた。
入居して、まだやっと一ヶ月経った頃だ。何もかもが新しい環境の中、利知未を初めて見たときの記憶と、後に下宿で擦れ違った時の短いやり取りなどを通して、この同居人への興味は深かった。
その興味深い対象の利知未が、どうやら深く関っていた気配が強い事件だ。年齢的にもたった三、四歳しか違わない少女の死は、かなり心に引っ掛かる物だった。死に方にも凄まじい物を感じる。それで冴史は、利知未の事を良く観察するようになっていた。
冴史から見て、ゴールデンウイークからこの二週間の利知未は、これまで以上に静かで大人しく、益々、暗い影を引き摺る様な雰囲気へと変わっていた。
最近の利知未は、ボーっとして何か考えている様子を良く見せていた。心の中では葛藤が続いている。
この二月。誰よりも信頼し、頼りにしていた長兄・裕一が突然、亡くなり、利知未の中から、幼少の頃の無邪気さが消えた。
それから将来の目標を定め、死にたくなるような気持ちと戦った。
そんな中で、人を好きになると言う感情に気付き、…気付かせてくれたのは、団部の先輩・櫛田と橋田だ。そのお蔭で、自分の中の敬太への想いを認め、受け入れる事が出来た。
敬太の支えがあって、漸く気を取り戻してきたタイミングで、今度は由美と言う少女の死…。
事件を取り巻く環境を思う。そして、由美の事を思い出す。やはり自分に、…セガワに、責任の一端はあると思う。
『もう、セガワとしてステージに立つ事は、止めてしまおうか…?』
そう思う事もある。けれど、それでは自分が追い詰めてしまった由美に対して、余りにも無責任な気がする。
『セガワでいたら、辛い事を思い出すかもしれない…。』
しかし、それは罰なのだとも思う。自分が犯してしまった罪に対する、キツイお仕置きだ。
『それなら、そこから逃げ出したらいけない…。益々、自分で自分を許せなくなる。…きっと。』
だったら、やれる限りやり通すのが、きっとで一番、正しい。
『でも…。』
敬太の事を思う。利知未の中で彼の存在は、この事件を抜けて益々、大きく育っている。
…そして利知未は、自問自答を繰り返す。
学校では利知未の活動を知っている生徒達が、好奇心を隠し切れない。
報道では、どのバンドの誰が警察に通報したかは、取り上げられないでいた。敬太の存在は警察からブロックを掛けられている。
だが、同じライブハウスで活動していた利知未が、何か知っている筈だと推測していた。
高坂と大野は、由美の存在とセガワの関係を知っている。
一度だけ、利知未本人に確認をした。
高坂が、授業が終わり、帰ろうとした利知未を部室へ連れて行った。
「なぁ、瀬川…。あの事件。…彼女、お前の所へ来たんじゃないのか?」
部員達を遠ざけ、大野と三人だけになってから、切り出した。
「詳しく聞こうとはオモワねーよ…。ただ、雑音が煩いからな。…おれ達なりに、お前の力になりたいだけなんだ。」
大野が、優しい声でそう言った。
二人は、小さく頷いた利知未に、それ以上を問おうとはしなかった。
それ以降、好奇心の赴くままに騒ぎ立てる生徒達を厳しく監視して、雑音がなるべく利知未の耳に入らない様に、気を配ってくれた。
利知未は、二人の協力に深く感謝をした。
ライブハウスは無事だった。返って知名度が上がって、客が増えたくらいだった。
FOXのファンが声を上げ、再びステージに立って貰いたいと、店からリーダーの元へ連絡が入った。活動再開に伴って、リーダーは利知未に問い掛けた。
「…利知未、まだ、歌えるか…?」
利知未は小さく、けれど確りと頷いた。
「俺は、これから客のために歌うよ…。客席の、由美の為に…。」
そして、続けた。
「…けど、男の振りを何処までし続けられるかは、正直、判らない。」
自分の心は決まっていた。だが、身体の構造が違う。
四月の始め、宏治が声変りをしていた。つまり、体が男として成長を始めたと言う事だ。中学二年の宏治の変化。更に三歳も年上の少年だと誤魔化している、自分の歳。身体は、確実に男女で成長が違う部分だ。
これからは、身長だけでは誤魔化し切れない差が、早ければ一年待たずに生まれてくるだろう。
それを決定的に感じた時、セガワは、セガワでなくなる。
「…そうか、分かった。」
深い理由は聞かないで、リーダーが改めて話し始めた。
「…オレから、言っておく事が一つある。FOXのロック時代は、その期間を二年〜三年以内と、始めから設定していた。次はハードロックかメタルになる予定だ。当然、そこでまたボーカルも変えるつもりだ。」
微かに笑顔を作り、そして軽く言った。
「これからFOXのロック時代は、セガワと心中するつもりでやるよ。」
つまり、利知未が限界を感じるまで、付き合ってくれ様という事だ。
「…サンキュ。」
小さく礼を言って。利知未はセガワの表情になった。
『そこまで頑張ったら、許されるだろうか…?』
心の中では、そう呟いていた。
五月三十一日。約一ヶ月振りに、ステージに立った。
ファンは待っていてくれた。暗闇の中、新しい曲が空気を震わせた。
以前よりもパンチの効いた音。ハスキーな声が更に迫力を増していた。
「久し振りだな、皆!…待っててくれて、サンキュー。」
始めの曲を終えて、セガワがマイクに向かって話し出す。客席が少しざわめく。
「セガワが、話してる!」
少女の言葉が、ざわめきの理由を明かしている。
「…皆も知っての通り、何時もライブを見に来てくれていた一人の少女が、悲惨な事件の被害者に成ってしまった。…俺は、その事で責任を感じている。」
辛い気持ちを瞳に映し、一言、一言を客席に確りと届け様としている姿に、セガワファンの呟きが漏れた。
「…なんで?なんでセガワが、責任感じるの…?」
その、微かに聞こえる言葉を、利知未は確りと拾った。
「その子と、最後に話したのは俺だ…。…だから…。」
一瞬、言葉を詰まらせる。小さく被りを振って、真っ直ぐ客席を見た。
「もっと早くに、彼女の変化に気付いて上げられれば良かった。…俺は、彼女のサインを見逃してしまったんだ…。自分の事だけに追われてた。」
少し俯いて、顔を上げる。寂しそうな微笑を見せた。
「だから、歌うよ。…これからは、客席の皆の為に…。…これからも、俺達FOXを確りと見ててくれ。…彼女の分も…。」
言葉が切れて、曲が奏でられ始めた。
カウンターに寄り掛かり、高坂と大野がステージ上の利知未を見ていた。二人はこのライブに招待されていた。
「これから、あたしがどんな風になっていくのか、見ていてくれよ。…ステージ上で、少しでも女が見えたら…。その時は必ず教えてくれ。」
そう、言われていた。
固い決心の伺える表情を見て、二人は、利知未と約束を交わした。
まだ幼い顔付きの少年が、ステージ上のセガワを見て、何かを感じた。
『あのヒト…、なんかスゲー、格好良いな…。』
声もリズムも。歌っている時の仕草にも、魅了される。
『俺、もっとハードな方が好きだと思ったンだよな。けど、こんな音も意外とイイかも知れネーな…。』
帰ったら、自分のギターで弾いてみようと思った。
少年は、FOXがステージに立っていなかった、この一ヶ月間で初めてここへ踏み込んだ。
まだ中学二年に進級したばかりだった。背は歳の平均より高い。更に、そのヘア・スタイルが、少年の身長を目立たせている。
「…おれ等とは、違った気合が入った様な頭したのがいるな…。」
曲間のMCになっていた。リーダーが、沈んだ空気を変えていた。大野が気付いた視線の先を、高坂も眺めてみた。
「ゲ、マジかよ?モヒカン?!しかも、真っ赤じゃネーか。」
驚きの声を上げる。客席はざわめいていて、二人の会話は少年には届いていなさそうだった。
「メタルでも、やってんじゃないか?」
「そーかも知れネーな。格好も、そんな感じだ。…けど、新顔だな。」
「そーだな。」
以前、来た時には見掛けた事が無かった。今日のライブ客には新顔が多かった。あの事件の報道騒ぎで、店には新しい客がかなり増えていた。
再び曲が始まった。久し振りのライブだ。新しい客に自分達の音楽を聞いて貰おうと、昔から人気のあった曲のオンパレードになった。
その中には勿論、由美が好きだった、あの曲も組み込まれていた。
利知未は、その曲を歌っている時、カウンターのいつもの席で、微かに笑っている由美の幻を見た気がした。
『…ごめんな、由美…。…俺…お前の事、ずっと忘れないよ…。』
少しだけ溜まった涙が、ライトの光りを受けて、微かに煌いていた。
五
都内でも、下町の雰囲気を残す町角。その一角のある家庭では、近頃、良く父子の激しい喧嘩が繰り広げられている。
「倉真!こんな時間迄、変な騒音させるな!!」
ギターを掻き鳴らす手を止め、父親を睨みつける。
真っ赤なモヒカン、ヤンチャそうな釣り目。父親譲りの頑固さをも伺わせる様な、眉尻がきゅっと上がった、幼さを残した顔。
「煩せーな!テメーの声のがソーオンだぜ!」
「なんだとー!?親捕まえてテメー呼ばわりするヤツがあるか!?」
大きな平手が少年の頬を張った。ギターをベッドの上に投げ置き、少年・倉真は、父親に組み付いて行く。
「ちょっと!お兄ちゃん!お父さんも!!ウルサーッイ!!!」
開け放たれているドアから、同じくハッキリした釣り目の少女が、パジャマ姿でキンキン声を上げた。耳にツーンと響く声に、父と兄の動きが止まった。
父と息子が揃って、耳を塞いで片目をきゅっと瞑る。
階下の台所では、母親が可笑しそうに笑っていた。
『一美が止めるのが、一番早いよ。』
そう思った。鼻歌交じりで、明日の朝飯の米を研ぐ。
館川家では、昔から腕白だった長男・倉真が、中学に入った頃から妙な音楽に獲り付かれて、毎晩遅く迄ギターを掻き鳴らす様子を、やや眉を顰めて見ていた。髪まで訳の分からない形にしている。
そして幼少の頃、下町で同じく、その腕白さで長年ガキ大将として君臨してきた父は、普段は繊細な和菓子を作る職人だ。
息子と娘は、父親が何故この仕事についているのか、偶に解らなくなる。性格を見る限り、漁師や魚屋、或いは寿司屋など、威勢が良く、どちらかと言えば荒々しいイメージの仕事の方が、絶対に合っていると思う。母親だけは家族の中で唯一、父の理解者だ。
「お前が一番、ウルサイ!!」
倉真が、四つ違いの今年十歳になる妹を指差し、膨れてそっぽを向いている頬を突ついた。口に溜まっていた空気が、プッと音を出して漏れる。
「なによ!?お兄ちゃん達が、こんな時間に喧嘩始めるのが煩いんだから!お父さんも直ぐに、お兄ちゃん撲ったりするから、大騒ぎに成るんでしょ!?」
父親は妹に甘かった。一美に怒られるのが、他の誰に怒られるよりもよっぽど効き目がある。
「ごめん、ごめん。一美は、もう寝る時間だな。」
デレデレである。倉真はフン!と横を向き、そのまま部屋を出て行った。
「こんな時間に、何処へ行く気だ!?」
父親が倉真を睨む。
「ホっとけよ!」
倉真は吐き捨て、階下へ降りて玄関に向かう。母親が台所から姿を表した。
「何処へ行くの?もう十時半よ。」
「…コーラ買ってくんだよ。」
さっさと靴を履いて、玄関を出て行った。
その日、同じ頃。
利知未は練習を終え、いつも通り敬太に送られて下宿へ戻った。
一週間前に、利知未は十五歳の誕生日を迎えた。FOXのセガワも十七才の少年になった。幸いと言えるのか、利知未の身長はジリジリと伸び続け、今は166センチにまで成っている。
高校二年の男なら、やや低めの身長と言う事になるだろうか?その点では、バンド活動にも都合が良かった。
顔付きも相変わらず中性的で、着る服一つで少年らしくにも、少女らしくにも見える。セガワの時には徹底的に男っぽさに磨きを掛けているので、今の所は上手く誤魔化し通せている。
悩みは相変わらずだ。最近、益々増えたファンに辟易させられている。
敬太の事は、今は心の奥に秘めている。ライブ中、敬太の刻むリズムを感じる瞬間、利知未としての本音の部分に強い安心感が生まれる。
その感覚を大事にしながら、セガワとしての少年らしさにも、更に磨きを掛けている。
『少しでも長い間、敬太と同じステージに立っていたい。』
その少女らしい思いが逆に、利知未を更に少年らしくしていた。だから心の奥に、大切に仕舞い込む事にした。
そして同時に、もう一つの意思も自分に訴える。
『まだだ…。まだ。まだまだ…!』
まだ罰を受け切ってはいない…。そのセガワとしての思いは、声に益々、迫力を加える。利知未は今、二つの思いの狭間で揺れていた。
夏休みの直前になり、利知未は宏治に始めてチケットを売った。
「オレ達の代理だ。手塚も、セガワを良く見て来てくれ。」
と、団長命令だ。
出来の良い利知未とは違って、高坂はそろそろ、勉強も少しは真面目に始めなければ間に合わない。大野も同じだ。大野はそれ程、勉強が苦手では無いが、得意と不得意の落差が激しい。
二人は元々、高校までは行くつもりがあった。ただし、ランクが高い所を狙う気は更々、無い。親を安心させる為と言うのが一番の理由だ。最終学歴が中卒では、受け入れられ難い社会に変わってきてもいた。
川上中学新入生、渡辺 準一は、一つ年上の兄貴分、萩原 和泉が、丘の上の寺から武道着を担いで出て来るのを待っていた。
「あ、和尚!!」
剃髪でキリリとした顔付きの、体格が良い少年が、参道を降りてくる。
「…なんだ、準一。今日も来てたのか?」
少し呆れた表情で、和尚と呼ばれた少年が返事をした。
「なー!行って見ようよ!面白そうじゃん?!」
「…また、それか。行きたきゃ一人で行って見れば良いじゃないか?」
「だってさ、ライブハウスだろ?オレ、どう見たって中学生以上に見えねーモン。高校生くらいに見える和尚が一緒なら、入れて貰えるかも知れナイじゃん?だからさー。」
スタスタと歩き出す和泉の周りに、チョロチョロしながら纏わりつく。準一の顔つきは、まだまだ幼い。優しげに目じりが下がった、大きめな瞳。髪は悪戯心で脱色して赤茶色。身体もまだまだ細く、ちょっと見では、それこそ小学生に間違われそうだ。小学生時代から、かなり落ち着きが無く、何時も方々で悪戯をして、近所の大人達には「要注意悪ガキ」として有名だった。
その準一が今、纏わりついている和泉は、家庭の事情から歳の割には落着いた少年だった。
病弱で幼い頃から入退院を繰り返している、一つ違いの妹がいる。
両親は一生懸命働いているが、妹の入院費や治療代が嵩み、生活はカツカツだ。そんな中、聞き分け良く自分達を支えてくれる長男が唯一、夢中になっている少林寺修行にだけは、通わせ続けていてくれた。
「とにかく俺は、そんな余裕が無いんだよ。」
小遣いも勿論だが、成るべく毎日、可愛そうな妹の見舞いに出掛ける。
家に帰れば、共働きの両親を助けて、良く手伝いをする生活だ。
「じゃーさ、真澄ちゃんが今度、退院してきたら絶対、行こうよ?!」
準一も和泉の家庭の事情は良く知っている。和泉の妹、真澄も、調子の良い時には、三人で良く遊んでいた。
「そうだな。そうしたら付合ってやるよ。」
「絶対だよ?!」
頷いて見せた和泉にくっついて、そのまま真澄の入院している病院へ、お見舞いに出掛けて行った。
夏休みに入ったばかりの金曜日。宏治は初めて、セガワのステージを見た。
宏治も相変わらず背が低い。この夏に漸く155センチまでは伸びていた。だが見た目は歳相応の中学生だ。店にはセガワの格好をした利知未が、自ら連れて入った。
「お前は、酒は無理だな。ジュースでも飲んでてくれよ?」
行きの電車の中で、セガワとして少年らしく振舞っている利知未に、そう言われて来た。宏治は黙って頷いた。飲め無い訳では無いが、自分の容姿は自分でも良く判っている。迷惑はかけられない。
それよりも、セガワの時の利知未を見て、内心、舌を巻く思いがしていた。
『なんか、おれよか全然、男っぽく見える…。』
最近の、学校での利知未を見ている分、その印象は更に驚きを伴う。
「…どーした?何か俺の顔についてるか?」
少し首を傾げて、つり革に掴まっている腕の向こうから利知未が聞いた。
「…いえ。なにも。」
宏治は少しだけ笑顔を作って、そう答えた。
この日。ライブの終了間際に、騒ぎが起こった。
人混みを掻き分ける様にして入って来た少年が、客席に紛れ込む。直ぐに、まともな格好をした男女の二人連れが、少年を追う様にして店に入って来た。
男女はキョロキョロと周りを見回す。頷き合い、二手に分かれた。
カウンターで、入って来たばかりの女性に声を掛けられ、宏治は一瞬、何がなんだか判らなかった。
「君、中学生よね?…こんな所で何をしているの?」
宏治のグラスを取り上げ、匂いを嗅ぐ。
「お酒は飲んではいないのね。…でも、ココは貴方のような子がいて良い所じゃないわ。一緒に来てもらえるかしら?」
騒ぎを起こせば、利知未に迷惑が掛かる。宏治は素直に従った。
後ろから両肩を押さえられ、準一は観念した。入った途端、聞こえて来たバンドの音と、ボーカルの歌声に聞き惚れてしまい、つい後ろへの注意を忘れていた。
男に連れられて擦れ違って行く少年に、いきなり腕を掴まれた。
「テメ、何しやがンだよ?!」
倉真は、睨みを効かせた。少年を連れた男が、倉真を見た。
「…君は…、君も、どうやら中学生だな。一緒に来なさい。」
倉真はピンと来た。前にも夜の街で、そんな風に声を掛けられた事があった。…冗談じゃネー!
男に掴まれた腕を振り解いて、逃げに掛かった。
「コラ!!待ちなさい!!!」
客席から始まった騒ぎが、ステージ上の利知未にも良く見えた。
『なんだ?ヤバそうじゃネーか?』
歌いながら一瞬、そう感じた。宏治を探す。宏治の隣には見慣れない女性がいた。
追いかけっこが始まった客席が、更にざわめき出した。
ラストの曲が終わった。利知未がマイクに向かって短くしめる。
「今日もサンキュ!また来週ココで!!」
いつもはリーダーが言っていた。どうやら急いでいる利知未に合わせ、メンバーも速やかにステージ上を切り換え、次のバンドに明け渡す。客席では、倉真がまだ追いかけっこを繰り広げていた。
利知未達は一端、楽屋に戻った。
「何か妙な事になってたな。」
リーダーが言った。拓も頷いた。
「補導員が、紛れて来た様だったか…?」
「そうだな…。セガワ、お前の連れは平気だったのか?」
リーダーに聞かれ、利知未はギターをケースへ入れながら、首を振った。
「…判らネー。なんか、連れて行かれた様だったんだけど…。俺、追い掛けるよ。」
「オレも行くよ。」
敬太も頷いて、帰り支度を急いだ。
客席は大騒ぎになっていた。余り見掛けた事がない派手な頭をした少年が、大立ち回りをカマシている。
始めに補導員を引き連れて来てしまった少年は、人垣を擦り抜けながら出口を目指す。ライブスペースを出た所で、宏治を連れた女性補導員に掴まった。
客席で、利知未は補導員と立ち回っている少年の後ろに回り込んだ。
『コイツ何とかしネーと、収集つかネーな…。』
そう判断して、敬太にギターを預ける。
「宏治は、もう連れてかれた見たいだ。チョイ外、見に行って貰えるか?」
ギターを渡しながら耳元で早口に言う。敬太は頷いて、人垣を抜け出て店の外へ向かった。
「掴まるかよ!?」
「この、聞き分けの悪い…!」
派手な頭の少年は、補導員の手を避けて、利知未に後ろ向きでぶつかり掛ける。
利知未は狭い空間の中で、器用に少年の身体を避け、右腕を後ろから掴んで捩じ上げた。
「…イッ!?」
変な声を出して、倉真は自分の腕を捩じ上げている相手を振り返った。
キリッとした表情を目に入れて驚く。身長は自分と対して変わらない。どちらかと言えば細身の体と腕から、信じられないような力を発している。何よりも、その相手は。
さっきまでステージ上で演奏していたバンド、FOXのセガワだ。五月最終週の復活ライブから、密かに気に入っていたバンドのボーカリストだ。
「ワリーな。俺の連れが補導された。お前も大人しくしていてくれ。」
腕を掴んだ力は緩めずに、少年にだけ聞こえる声で囁いた。
倉真は小さく頷いて見せる。…大人しくしてやる事にした。
「君は、さっきまで、そこで歌っていたね?」
モヒカン少年の腕を、捩じ上げる様にして鎮めている姿を目にして、男の補導員は目を丸くした。
「高校生か?保護者は?」
「保護者って言うか…。オレがFOXのリーダーですが?」
補導員の後ろから、ナイス・タイミングでリーダーが現れた。
「一応、成人してます。彼は毎週メンバーが車で送っています。」
リーダーのフォローで、利知未は補導少年の列には加わらずに済んだ。
「弟が、もう一人の方に補導されてしまった様なんですが…?」
利知未は倉真を補導員に引き渡しながら、素早く頭を巡らせた。
「弟?ご両親は、君達がココに来ている事をご存知なのか?」
「俺達は母子家庭です。…母に連絡を入れてきます。」
そう言って、店の公衆電話へ向かって行った。
利知未から連絡を受け、美由紀が店を途中で閉めて駆け付けた。何故か駅北商店街、大熊肉屋の主人まで一緒だった。
「り…。じゃなかったわ。」
利知未さん、と言い掛けて止める。『詳しい訳を話してはいられないけれど、息子と言う事にしておいて下さい、頼みます。』と、さっき電話で言われていた。考えて、長男の名前を流用した。
「宏一、宏治は何処?」
利知未は軽く目配せをする。近くでリーダーが驚く。
『この前は智紀で、今度は宏一か…。オレも合わせないとマズイな。』
頭の中で現状を整理する。『FOXのロック期はセガワと心中』なのだ。
「コッチ。…美由紀さん、済みません。」
手招いて、近くに来た美由紀に小さく詫びた。
宏治は聞かれた事柄に黙秘を決め込んでいた。勝手に喋ったら、後で来る利知未と話が合わせられなくなる。
倉真は別の意味で黙秘を決め込む。何を聞かれたって答える物かと、口を真一文字に結んでいた。隣の準一を軽く睨みつける。
『コイツが補導員、店に呼んだんだな…。』
準一は倉真に睨まれて、ヘラリと笑って見せた。自分が街中で補導員に見つかったのが、原因なのは確かだ。
逃げ込むのなら、前から気に成っていたライブハウスに入って見ようと、勢い半分で飛び込んだ。隣のモヒカン少年の腕を掴んだ事に、深い意味はナイ。ただ咄嗟に、騒ぎを大きくすれば逃げられるかも、と思っただけだ。
「君。君は前にも補導されているね?」
倉真に補導員が聞く。倉真はそっぽを向く。
「名前は…館川倉真か。以前は、お母さんが迎えに見えていたんだな。」
書類を見て頷いている。名前の読みも変わっているが、簡単な覚書に書かれた髪形の特徴などを見て、何とも言えない顔になる。倉真は面白くない。『ンな事、記録されてたとはな…。』と、心の中で愚痴る。
一時間もしない内に、少年達の親が駆け付けてきた。
「倉真!!お前ってヤツはっ!!!」
到着した途端、倉真の父は息子を思い切り張り倒した。周りにいる方が慌ててしまう。
「まっ、ま、お父さん、落着いて…。」
美由紀と一緒に表れた大熊氏が宥めに掛かる。騒ぎで今度は、準一の母親が泣き出した。
「準一!アンタって子は…。どうして何時も何時も……。」
準一と呼ばれた少年は、拘りも無い様子でヘラリとしていた。何となく笑えた。駆け付けた親の中で、冷静なのは美由紀だった。
「大変ご迷惑をおかけ致しました。息子の活動は、我が家では公認になっております。今日の所は引き取って行っても宜しいでしょうか?」
深々と頭を下げた。補導員も保護者から言われたのでは留め置く事もしない。軽い注意だけして解放してくれた。
敬太がワゴンの後ろの座席を出して、利知未、宏治親子と大熊氏を、バッカスまで送ってくれる事になった。
準備を終えたところへ、先ほどの騒ぎを少々離れた場所から眺めていたリーダーが近付く。呼びかけられて、敬太が振り向いた。
「中々、賑やかだったな。」
リーダーは何時も通りの軽い口調だ。敬太も苦笑いを漏らす。
「でしたね。」
「…あの赤毛モヒカン少年、これから暫らく要注意って事で。」
チラリと、少し先で宏治を呼び止めている様子を眺めて囁いた。
「その方が、良さそうだ。」
利知未の後輩、宏治は真面目そうだ。これから先あの少年に関わって、変な事に巻き込まれなければ良いけどな、と敬太は思った。
倉真はワゴンに乗り込もうとする宏治に、声を掛ける。
「お前、結構イイ根性、してる見てーじゃネーか。」
先に乗り込み息子を振り向いた美由紀が、チラリと倉真を見た。目が合い、倉真は軽く視線を外す。口元はニヤリと笑っている。
「お袋さんも物分り良さそうで羨ましいな。…また、店で会おうぜ?」
軽く宏治の肩を叩いて、ワゴンを離れていった。離れた所で、父親が息子を睨んで待っている。前を無言で通り過ぎようとする息子の首根っこを掴んで、強制的にタクシーへ突っ込んだ。
その様子を見て、宏治は小さく笑ってしまった。直ぐに美由紀に呼ばれて、後部座席へ乗り込んだ。
六
バッカスの前で大熊氏は、すっかり酔いの冷めた様子で言った。
「宏治。あんまり美由紀さんに心配かけるな。」
宏治は、素直に頷いて見せた。大熊氏は美由紀と挨拶を交わし、帰って行った。
「利知未さんには、もう少し詳しい事を聞きたいんだけど…。お家の方は大丈夫かしら?」
「店から、連絡は入れておいたけど…、もう一度、連絡入れた方がイイかも知れないな…。美由紀さん、電話、貸して下さい。」
セガワ・テンションが抜け切れずにいる。以前、会った時と様子が違う利知未に、美由紀は少し戸惑った様な笑顔を向けた。
「取り敢えず、中に入りましょう。」
利知未が頷いて、宏治と三人で店の中に入った。
店内に入り、始めに下宿へ連絡をした。美由紀も電話口に出て、今夜は利知未を預けてくれる様にと、里沙に断りを入れる。それから改めてカウンターの椅子にかけると、美由紀が薄い水割りを出してくれた。
「…これ?」
一口飲んで、利知未が目を上げる。
「少しお酒が入った方が、話し易いかと思ったの。…今日だけね。」
軽い笑顔で、そう言った。宏治も驚く。
「応援団で覚えてきたでしょう?時々、店のお酒が減ってるのよね…。」
何気なくチクリと、母親に痛い所を突かれた。宏治はバツが悪そうに視線を反らして、水割りを一口飲む。
「さぁ、詳しく聞かせてくれるかしら。どうして利知未さんは、男の子の振りをしてたの?それと、宏治が何故、補導されるような事になったのか?」
利知未は去年、FOXのステージに立ち始めた時から、今日までの事を、酒の力を借りながら話した。途中で、裕一の事にも少し触れて泣きたくなった。けれど涙を流しはしなかった。
由美の事には、触れることが出来なかった。まだ、話しが出来る程には落着けない。
宏治は素直に、酒を店から持ち出していた事を、認めて詫びた。
今日の補導に纏わる事については、説明の仕様が無い。運が悪かったとしか伝え様が無いと思った。それに付いては利知未が詫びた。
「…宏治が補導されたのは、あたしの所為です。本当に済みません。」
利知未は漸く、素に戻った。最近の、学校での利知未だ。
美由紀は利知未の家庭の事情に少し触れ、大切な兄との死別を聞き、心が痛む思いだった。
離婚して母子家庭と言う点では、自分も同じだ。それでも、こうして二人の息子と一緒に暮している。お蔭で、自分は今まで随分、救われた思いをして来た。そして、母親の立場で考える。
『利知未さんのお母さんは、本当は家族で暮したいのではないかしら?』
身近に守るべき子供がいれば、壁にぶち当たるような事があっても、何とか乗り越えていける物だと、実感として感じて来た。利知未の母が、どんな人物なのかは想像するしかないが、子を持つ母親同士としては、深い同情心も浮かんでくる。
ただ利知未に、その思いを伝えても逆効果だろうとも思った。どうやら彼女は、母親をかなり憎んできている節がある。それも解らない事ではなかった。暫く黙って考えた。それから漸く声を出す。
「…利知未さん、色々と大変だったのね…。貴女は、まだ中学生なのに…。随分、辛い思いもしてきたのね…。」
優しい美由紀の言葉に、利知未の心が微妙に揺れる。
『お母さんって…、「お母さん」って、こんな感じ…?』
自分の母を思い出す。どうしても、美由紀の雰囲気とは重ならない。
『この子の事、本当の娘だと思って接して行こう…。』
微妙に揺れた利知未の瞳を覗き込んで、美由紀は、そう決心した。
「…利知未。私は、これから貴女を本当の娘だと思う事に決めたわ。」
ニッコリと、笑顔でそう言った。利知未の揺れた瞳が、美由紀の姿を確りと映した。
「だから、何時でもココへいらっしゃい。」
「…じゃ、瀬川さん、これから、おれの姉貴だ。」
宏治がニコリと母親を見た。その笑顔を見て、息子の成長に気付いた。
…随分、大人びてきた物だ。
酒の入った利知未は、いつもより素直になっていた。宏治親子を見て、驚きと、何となく嬉しい気持ちが、混ぜこぜになって照れ臭い。
「それにしては、随分と派手な頭した子が、一緒だったわねぇ…。」
美由紀が話しを変えた。真っ赤なモヒカン少年の姿を思い出していた。
「…あたしも、チョイ驚いた。」
「…面白そうなヤツだったな…。」
宏治の呟きに利知未が反応した。…宏治って、こんな言葉使いだったか?と。今までのイメージとは重ならない。
「どうかした?」
宏治が、利知未に見つめられて首を傾げる。
「…いや。別に。」
視線を戻して、利知未が小さく首を振った。
「今日は、もう遅いから一度帰りましょう。利知未。明日、帰る事にして、今夜は家に泊まってらっしゃい。」
時計を見ると一時を回っていた。バッカスの閉店は二時だ。それでも、いつもよりは早仕舞いだ。どの道、宏治を引き取りに行ったので、今日はもう店を閉めていた。
「…お袋、ごめん。…金曜は稼ぎ時だったんだよな。」
宏治が美由紀に詫びた。
「全くよ。宏治、高校生になったら扱使うからね?覚悟しなさい。」
美由紀は大袈裟に宏治を睨んで見る。宏治はバツが悪そうな笑顔を見せる。利知未は二人のやり取り、特に宏治の様子をじっと見てしまった。
「判ってるよ。…瀬川さん?」
じっと見られて、宏治はまた首を傾げる。利知未は宏治が家でどんな言葉を使っていたのか、初めて知った。
初対面から二年も経つ。その間に宏治も随分、男っぽい様子になっていたらしい。益々、セガワとしての自分を考えたのだった。
『男の成長か…。あたしも、もう少し頑張らないとな。』
そう思う。宏治に軽く笑顔を見せた。
「美由紀さんの許可が下りたら、またライブ見に来いよ。」
「って、言ってくれてるけど、良い?」
「…仕方ないわね。でも、そこで、お酒を飲むのは禁止よ。」
美由紀が言って、小さく溜息をつく。
「どうしても飲みたい時は、保護者の前で飲みなさい。…利知未もね?」
どうせ酒の味を覚えてきてしまった子供達だ。禁止したからと言って、止めるとは思えない。それなら責めて自分が監視してやろうと思った。
そして、この日を切っ掛けに。利知未はバッカスへ、美由紀に会う為に良く顔を出すようになった。そして美由紀はこれから先、ヤンチャな子供達の良き母親変りにもなってくれた。
それから半年もしない内に、ヤンチャな息子の数も増えたのだった。
翌週の練習日。帰りの車の中で、利知未が敬太にお礼を言った。
「この前は、皆で送って貰ってサンキュ。帰り遅くなったよな?」
「平気だよ。オレはもう大学生だからね、親も寛大な物だから。」
チラリと利知未を見て微笑んだ。利知未はその笑顔を見て、心がきゅっと掴まれたような感覚に陥る。
『素のままの自分で、ゆっくりと会えたら良いのに…。』
そう思った。…誘って見ようか?今は、夏休みだ。
「…今度の練習日…、」
「何?」
「水曜日さ、練習の前。…なんか用事、あるかな…?」
意を決して聞いてみた。何となく恥かしくて下を向いてしまう。
「バイトは休みだし…。うん、今の所は空いてるかな?…どうしたの?」
ドキリとして、心臓が鼓動を早める。…ちょっと誘おうとしただけで、どうして、こんなにドキドキするのだろう…?小さく息を吐いてみた。
敬太は利知未の言葉を待っている。少しだけ心配そうだ。
「…あのさ、…練習の前、ちょっと…」
何て言おう?思いつけない。視線を恥かしげに反らす。
『顔、見えるから緊張するんだ。…変なの。何時も見てるのに…。』
自分の気持ちがくすぐったい。敢えて車窓に視線を向ける。
「ちょっと、時間あるかな?」
隣の利知未の様子は、心配するような種類の物では無さそうだ。そう感じてホッとした。
「時間なら、いくらでもあるよ。…何処か行きたいの?」
敬太から聞いてくれた。心の底から嬉しい気持ちが沸いてくる。また、くすぐったい様な感じだ。…こう言うの、何て表現したら良いンだろう…?…幸せ、って言うのかな?
「…何処でも良いんだ。…って言うか、タマには普通に遊びに行きたいかなって、思ったんだ。…付き合ってくれるか…?」
自分の表情を、少し不安そうに見ている利知未。可愛くて笑ってしまった。
「…なんか、可笑しい…?」
「違うよ。…可愛い顔だなって、思ったんだよ。」
一気に利知未の顔が赤くなった。可愛いなんて、今までそんな事、自分に言ったのは朝美くらいだ。恥かしくなって俯いてしまう。
「…じゃ、何処へ行こうか?利知未を迎えに行って、そこからなら…、横浜の観光地巡りも偶には面白そうだね。」
敬太から行き先まで考え始めてくれた。その言葉と雰囲気が新鮮な感じだ。今までダチと何処かへ行こうと盛り上がった時では、感じた事の無い嬉しさと、ドキドキ感がやって来た。
『…相手が、敬太だからだ…。』
そう感じた利知未の表情に、少女らしい笑顔が広がった。
可愛い笑顔に、今度は敬太が戸惑った。
『今まで見て来た中で一番、良い笑顔だ…。』
自分の前で利知未が素に戻る時。寂しさや悲しみを、必至で堪えている姿が多かった。だから利知未への愛しさが増す程、敬太は自分の気持ちを抑えてきた。…まだ自分の気持ちを伝えられる時期じゃない。
けれど、もしも。…もし明後日、彼女の様子が変わっていたら。
『…もう、大丈夫なのだろうか?』
敬太は少し期待した。伝えられるかもしれない。
「…何時頃、迎えに行ったら良いかな?」
再び優しい笑顔で問い掛けられた。利知未はその笑顔に、心がもう一度きゅっと優しく掴まれる。…自分が、どんどん少女に戻って行く。
「…何時でも良いよ。…だけど、敬太の家から車で四十分くらい掛かるんだよね…?なら…、十一時位なら、敬太も慌てないで済むかな?」
語尾が少し優しくなっている事に、利知未本人は気付かない。
「そうだな…。じゃ、十一時に迎えに行くよ。それで良いかな?」
「良いよ。ありがとう。…待ってる。」
まだ少し顔が赤い、照れた笑顔で利知未が答える。
「じゃ、明後日。寝坊しない様にしないと。」
下宿に着いた。利知未が車から降り、笑顔で手を振り見送った。
水曜日。敬太の車が十一時ジャストに、下宿の前に到着した。
利知未は、同居人達に知られるのが気恥ずかしい感じがして、玄関の前で待っていた。ギターを背負い、何故かスポーツバッグを持っている。服装は、朝美から去年の誕生日に貰った、サマージャケット姿だった。
「待った?…そのバッグは、どうしたの?」
ニコリと、車窓から笑顔を向ける。
「…セガワ用。この格好じゃ、練習スタジオ入れないから…。」
ちょっと照れた様子が可愛らしかった。このジャケットは、身体のラインが綺麗に見えるデザインだ。
服装は悩んだ。けれど折角、敬太と素のままの自分で会うのだから、それなりの格好をしたかった。乙女心である。利知未はそんな風に考えている自分が、なんだか別人のような気がして照れ臭かった。
「そっか。偶にファンが待ち構えてるモンな。」
敬太が笑って頷いた。利知未が助手席に乗り込む。中華街辺りから攻めて見ようと話しをして、関内へ向かった。昼前には着く。
中華街の駐車場に、車を入れて街へ出た。利知未は初めてだった。近過ぎる観光スポットで、今まで敢えて来て見ようと思った事が無かった。メイン通りの土産物屋を物色して行く。
「何か、意外と面白かったんだな。」
チャイナドレス。手の混んだ刺繍に、ちょっと感動する。手先器用な中国人ならではの、籐籠やバック。四千年の食文化。
利知未は、この頃、意外と料理が好きになっていた。台所用品を眺めて、巨大な包丁に目を丸くした。中華鍋を振ってみて、重さに驚く。
素のままの明るい利知未を見て、敬太の気持ちは決まっていった。
そして改めてその笑顔に、心を惹かれて行く。
『こんなに明るい、可愛い笑顔を見せる子だったんだな…。』
そんな風にも思った。
「あれ?瀬川さん!?」
メイン通りで擦れ違った、ちょっと気合の入った少年に声を掛けられた。利知未は一瞬、どきりとした。
「細川と…、鵜野!?…もしかしてデートか…?」
クラスメートの中でも、気合の入ったグループの二人だった。鵜野は、茶髪で派手目な女子生徒だ。二人ともFOXのライブを見に来た事があった。二人は当然、敬太も見知っている。
「…バレタよ…。ま、いーか!もしかして、もしかしなくても、ドラムの敬太さんですよね?」
鵜野がミーハーチックな笑顔で敬太に言った。敬太は一応、笑顔を作るが、目では利知未に聞いている。『この子達は…?』
「…クラスメートの、細川と鵜野。ライブ、良く見に来てくれてたンだよ。…っても、見覚え無いかな…?いつも直ぐ帰ってたから。」
利知未に言われ、敬太は思い出そうと努力してみた。
「イーよ、気にしなくて。アタシ、敬太さんの隠れファンだったんだ!」
ニコリと、細川と利知未に言った。敬太は済まなそうな顔をする。思い出せなかったのだ。
「って言うかぁ、利知未さんこそ、もしかしてデート!?イーな、羨ましいー!!」
地団駄を踏む。細川が呆れ半分で言って、利知未に問い掛けた。
「おれが相手で悪かったな…。今日はFOXのセガワで遊んでンのか?」
「…そう言う訳じゃないけど…。タマには息抜きも必要だろ?」
敬太と軽く視線を合わせた利知未の様子に、鵜野がニヤリとした。
「だったらチョイ変装、必要かもね。…ね、利知未さん、ちょっと来て!」
女は恋愛については鋭い。利知未の微妙な雰囲気の差にピンと来た。
雑貨店へ、利知未を引っ張って連れて行く。
「結構、有名人なんだから。これくらいシナキャだね。」
そう言って、伊達眼鏡とキャップを選んだ。
「…この格好でいるのか…?」
後ろ髪をキャップに仕舞い、伊達眼鏡をかけた利知未が変な顔をした。
「さっきライブハウスで見た事ある子が、いたんだよね。最初は何処で見かけたか判らなかったんだけど、利知未さん見て思い出した。」
腕を頭の後ろに組んで、チラリと笑顔を見せる。
「…ね、デートでしょ…?悪いこと言わないから、その格好でいなよ。」
利知未は俯いて顔を赤らめた。鵜野って、意外と良く見てる。そう感じた。
「…ソーする。」
小さく答えて、会計を済ませて店を出た。敬太が細川と待っていた。
「さっき、FOXファンに声掛けられたぜ…?」
細川が利知未に言った。敬太は隣で困った笑顔を見せる。
「…そっか。サンキュ、鵜野。…今度、ライブに招待するよ。」
「どー致しまして。じゃ、ココでバイ!…頑張ってね?」
最後は小声で囁いた。二人と別れて場所を移動する事にした。
「素のままでいるの、難しいのかな…。」
移動中の車の中で、利知未が呟く。敬太は気遣わしげな顔をした。
「…けど、オレは本当の利知未と、もっと一緒にいたい…。」
表情を引き締めて、敬太が利知未をミラー越しに見る。心が決まる。
『今、伝えよう…。』
利知未が驚いた顔をして、敬太の横顔を見つめている。
「…この半年。利知未が、辛い思いをしているのを見てきて…、」
言葉が続かない。敬太は口が上手い方ではない。考える。
「…ずっと、オレも…。…本当の事が言えなかったんだけど…、」
敬太が何を言おうとしているのか、じっと待った。
…恐い。けど、先が聞きたい…。
「…お兄さんの代わりには、成れないと思うけど…。」
信号が赤になって車が止まる。敬太は利知未を正面から見る。
言葉が出なくて、見詰め合う。
「…敬太?」
後続車からクラクションが鳴らされた。信号が青に変わっていた。
「…やっぱり、本当の利知未が、好きだから……。」
再びクラクションが鳴らされ、敬太はギアを変え、車を発進させた。
「…だから、もっと本当の利知未と一緒にいたい…。」
恥かしくなって、利知未は俯いてしまった。ドキドキと鼓動が煩い。
答えを探した。言葉が上手く出てこなくて、やっと一言、呟いた。
「…あたしも、もっと普通でいたいよ…。…敬太の前でだけは…。」
車内に柔らかい沈黙が下りた。もっと二人きりになれる場所が欲しい。
「…観覧車…、」
桜木町の大きな観覧車が、利知未の目に入る。
「…行って見ようか…?」
ゴンドラの中なら、邪魔が入らないかもしれない。
ゴンドラに乗り込み、利知未はキャップと伊達眼鏡を外した。やっと敬太と二人切りで、素のままの自分で向かい合う事が出来た。
敬太の前で、利知未は誰にも見せた事が無い、少女らしい自分に戻れた。
目の前の利知未が、やっと本来の姿を取り戻した。ゴンドラが登って行くスピードに合わせる様に、気持ちが溢れ出す。
…二つの想いが、一つになった…。
二人は、初めてキスを交わした。これが、本当のファーストキスだ。
唇が重なった、その瞬間。利知未の中で、女の心が芽生え出す。
『あたし…、敬太とだったら…、敬太になら…。』
由美の気持ちが、利知未にもやっと理解出来た。悲しい気持ちも甦った。
そしてこの夏。利知未に、初めて恋人と呼べるパートナーが出来た。
幸せの種 第五章 了 (次回は、9月28日22時頃 更新予定です。)
五章も最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。<(__)>
利知未中学編は次回で最終話です。中学編の纏めとして、少女としての利知未の成長をご覧下さい。次回も22時掲載できるよう頑張って編集作業を進めております。
それでは、また来週、皆様と再会できますように。