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四章  中二・新しい季節… 『FOX』      

利知未の懐かしい中学時代の思い出話、第四章です。この作品は、’80年代後半から’90年代初めを時代背景としたフィクションです。(本文上の事件、出来事の下敷きとなっております。)

中学二年の夏休み最後の金曜。利知未は初めて、ライブハウスのステージに上がっています。ここから、利知未の新しい世界が開けます。

 この作品は決して、未成年の喫煙、ヤンチャ行動を推奨するものではございません。ご理解の上、お楽しみ下さい。


    四章   中二・新しい季節… 『FOX』      


            一


 音が弾けた。利知未の前に、新しい世界が広がった!

 初めて向かったマイクの前で、利知未は不思議な高揚感に包まれた。

『今、歌ってる…。音が回りに響いてる…!なんか、イー気分だ…。』

歌っている利知未の姿からは、イメージし難かったかもしれない。

 ロックのリズムに乗りながら、利知未の気持ちは静かだった。静かに、けれど強い思いが、胸の内に溢れている。

 一年の頃の、応援団部の仲間との出会いや、その中で感じて来た、嬉しかったり、ワクワクした気持ちを音に乗せていた。利知未が自分で作った曲だった。FOXのメンバーは、その曲を気に入ってくれた。バンドで演奏出来る様に皆が力を貸してくれ、アレンジまで完成させた曲だ。


 曲が終わりポーズが決まった時、客席から拍手と歓声と口笛が飛んで来た。利知未は我に返り、急に恥かしくなった。

「どーも、FOXです!三週間ぶりっす!オヒサー!」

リーダーがマイクに向かい、軽い声を上げた。

「結成当時から聞いてくれていた皆!今回は恒例に則りチェンジング・ライブだ!今回からロックで行きます!!」

リーダーが担当していた部分を利知未が担当して、ロック調にアレンジした持ち曲の、イントロ部分を短く演奏した。

 元々はニューミュージック時代の曲だと言う事だった。歌詞は確かに、少し暗めだった。今回はイントロ部分のみの演奏だ。

 再び、リーダーがマイクに向かう。

「ボーカルもチェンジで、新メンバー!紹介しちゃうよ?!はい、そこの女の子、見惚れて無いで、名前も覚えちゃってやってくれよ!?」

カウンターで二、三人の友人らしい仲間に注目され、カクテルグラスを持ったまま、ボーっとしていた少女を指差した。

「今回からのボーカルは、オレ達の中で一番若い!なんとマダマダ未来あるsixteen!!マイク前に立ってる美少年、その名は『セガワ』!!」

ファンファーレ代わりに、短い音が演奏された。客席から早速、女性の声援が飛んだ。利知未は思わず照れてしまう。その様子に、また黄色い声援だ。それに混じって野次も飛んだ。

「アキちゃん、止めちゃったの?!」

少年の声だ。アキファンらしい。

「おいおい、アキファンの君!何処に目、ついてんだ?後ろでキーボード弾いてたでしょ!?&コーラス部隊でマダマダ活躍して貰うよ!我FOXの天使の歌声、止めるわけ無いでしょ!?」

このバンドのMCは何時もこんな感じで、客席と対話しながら進んでいるらしかった。それはそれで人気がある。リーダーが空気を作るのが上手かった。利知未は内心、感心してしまう。

「変わらずの応援と、ご声援よろしく!」

アキがキーボードを軽く鳴らして見せ、『ヤッホー!』と手を振った。

 アキファンが手を振り返す。自分に手を振られて嬉しそうだ。

「はい、セガワ。ご挨拶!」

アキに振られて、照れ臭いながらもマイクに向かい直した。

「…どーも、始めまして。よろしく。」

その照れた利知未のローテンションに、リーダーが大袈裟にこけて見せた。客席からは笑いと、早速セガワを気に入ったらしい女性ファンから『可愛いー!!』と言う声が上がった。

「お前、もー少しハイテンションになれネーのかい?!」

リーダーの突っ込みに、利知未は照れたまま答えた。

「…って言われても、…ハズカシーンだけど?」

「歌ってる時と違い過ぎだっツーの!あのテンションは何処に行ってしまったんだ!?」

目を剥く様に見せながら、再びリーダーが突っ込んだ。

「そんなに違うかな…?歌ってる時は気持ち良かったんだけどな…?」

「…全く、お前は歌ロボットか?プログラムされた事しか出来ないとか、言わないでくれよ?」

「歌ロボットって、ジュークボックスとか言うやつ?」

 利知未は素で惚けてしまう。再びリーダーがリアクションを見せ、二人の会話に客席からはクスクスと笑いが漏れ出した。改めて仕切りなおす。

「ま、普段はあんまり愛想良くないヤツだけど、声は抜群だ!可愛がってやって下さい。…では、セガワをハイテンションにする為に、そろそろ次の曲、聞いて貰います!」

 それからMCを入れながら、五曲ほど演奏した。

 リーダーのMCは上手くて、それだけのファンと言うのも存在するらしかった。偶にバイトで、結婚式の二次会の司会など頼まれる事があるらしい。

 約一時間のステージが終わり、別のバンドが演奏を始めた。


 FOXのメンバーは客席へ回って、軽い打ち上げ変わりに酒を飲んだ。

 セガワのデビューステージ、成功の打ち上げ変わりだ。

 利知未が客席へ回ると、早速ファンが近寄って来た。先ずは握手を求められ、照れながらそれに応じた。リーダーにも言われていた事だったので、精々、少年っぽく振舞いながら、ファンサービスで軽く話しをする。早くも取り巻きが五人ほど出来てしまっていた。

 その様子を、酒を飲みながら満足げにリーダーが見ている。アキは自分のファンと話をしながら、利知未の事を気にしてくれていた。取り巻きとの話題が突っ込んだ質問、「何処の高校?彼女はいるの?どんな子が好み?」等と言う事に入ってしまったタイミングで、利知未を自分の近くに呼んでくれた。ファンに断って、利知未は取り巻きの中から抜けた。


 それから一時間ほどメンバーと飲み、九時前に店を出ようとした。

「次の練習日に、今日のギャラ渡すよ。」

リーダーから出掛けに言われ、利知未は少し驚いた。

「ギャラ?そんなモン、あンの?!」

「当然。自分でチケット売ればチョク三割ギャラになるし、店で売ったチケット売り上げからも、いくらか貰えるんだよ。一種のビジネス。」

拓が説明してくれた。これは特殊な例らしい。本来は自分達でチケットを捌いて、売り切れない分は、持ち出しのパターンが殆どだ。


 このライブハウスは客を呼ぶ為の手段として、この様な体制を取っているらしい。初めてステージに立たせるバンドは、オーデションで決めていると言う。それ以降はバンドの人気に応じて、バイト料として支払ってくれる。参加しているバンド側にとっては、良いライブハウスだ。

 自然、その中で人気を維持し、新ファンを獲得しようとするバンドの向上意識は高くなる。それで、このライブハウスに出演するバンドは、アマチュアの中でも高レベルな所が多いと言う事だった。


「へー。じゃ、もうチョイ頑張らないとな…。」

目を見開いて言う利知未に、リーダーからチェックが入った。

「セガワ、目、見開き禁止な?」

囁き声である。

「何で?」

「そう言う顔すると、ガキっぽく見える。後、女顔に戻り易い。」

利知未はもう一度、目を見張ってしまう。

「…学校にバレたら、ヤバインだよね?」

ニッコリと、笑顔で釘を刺されてしまった。


 店を出ると、いきなり声を掛けられた。

「FOXのセガワだよね?」

「…ソーだけど、アンタ誰?」

良く見ると、自分が紹介された時にリーダーから指差されていた、カウンターの少女だった。

「アタシ、由美。ライブ、すっごく良かったよ!」

FOXのファンか、と思った。改めて少年らしく振舞う。

「…どーも。リーダーや拓は、まだ中で飲んでるぜ?」

ニコリともしない利知未に、由美は、それでも構わず話し掛ける。

「アンタに用があンの。ちょっと付き合ってよ?」

近付いてきて、利知未の腕に自分の腕を絡ませようとした。利知未は反射的に、その腕をかわした。由美の息はかなり酒臭かった。

「…かなり酔ってンじゃネーの?酔っ払いの面倒見ンのは、ご免だ。」

冷たくあしらわれ、由美の頭に血が上る。

「ファンを大事にしないと、痛い目見るよ?」

少女らしからぬ睨みを効かせた。利知未は少し感心してしまった。由美の目は、それなりの修羅場を体験してきた目だった。

「どんな目を見るって?」

修羅場の数なら、利知未だって負けていない。相手がどう出て来るか隙無く構えながら、軽く睨み返して見た。

 由美は完全に苛立ちを感じていた。酒の所為も勿論あったが、元々が短気な性格だった。利知未の実力は知らないが、自分には使いなれた刃物があった。喧嘩に使うのではない。昔なら『カマイタチ』と呼ばれていた掏りの方法、バッグやポケットの下を刃物で切って、財布を掏り取るために何時も持ち歩いており、手にも馴染んでいる刃物だ。

 その凶器を素早く指に挟んで、利知未に対して振りかぶった。

 利知未はそれ以上の素早さで、由美の腕を掴んだ。そのまま背中に捩じ上げる。酔っ払った少女が、利知未に敵う筈は無い。

「危ネーな…。」

利知未は呟いて、小さく悲鳴を上げた由美の手から刃物を取り上げた。

「こんなモン、振り回してんじゃネーよ。」

言って、トンと軽く背中を押してやる。前によろけるくらいの物だろうと思っていたが、由美は、そのまま転んでしまった。

 それにも驚いたが、それよりも先ず、取り上げた刃物をどうし様かと考えた。軽く周りを見回して、青いゴミバケツを見つけた。

 道に投げ捨てては危険だとも思い、利知未はゴミバケツの蓋を開けて刃物を捨てた。やや屈んだ所為で、背中のギターがずり落ちそうになり、それを直す。それから由美を振り向いた。

 由美は転んだ姿勢のまま、少し妙な顔をして利知未を眺めていた。余りにも服装や、やっている事に比べて、律儀な利知未の行動に改めて興味を惹かれた。

『…このコ、可愛いかも。』

同い年の男だと思い込んでいる、バンドのボーカリスト相手に、母性がくすぐられる思いだ。初めて感じるような思いだった。

「悪かったな。まさか、其処まで足に来てるとは思わなかった。」

言いながらジーンズで汚れた手を拭い、自分に差し出している手を、由美は掴んで、思い切り引っ張った。そのまま唇を奪った。

 慌てて離れた利知未が、手の甲で唇を拭っている。

「…酒臭―…。」

ぼそりと呟く様子が、また可愛く見えた。

 利知未はショックを受けた。

 男でステージに立っているのだから、こんな事があっても仕方が無いかもしれない。だが、本当の利知未は、まだ中学二年の少女だ。勿論キスの経験なんか無かった。初恋をした覚えさえ無いのだから当然だ。

 利知未は、同性のファンにファーストキスを奪われてしまった。

「可愛イー。…アタシ、アンタの大ファンに、なっちゃった。」

挑戦的な笑みを見せ、由美が言った。そして自分で立ち上がり、洋服の汚れを軽く払う。再び利知未を確り見据えて、続けて言った。

「今日の一番始めの曲も気に入った。…アンタが作ったの?」

見つめられながら、利知未はショックを隠して呟いた。

「…ソーだよ。」

由美は、そっぽを向いてしまった利知未を、微笑して見つめ続ける。

「彼女いるの?」

「どーだってイーだろ?さっさと帰れよ。終電、無くなる。」

仏頂面のまま言った利知未の様子に、クスリと声を出して笑った。再び腕を絡めて行く。

 外そうと身動ぎする利知未に、今度こそ逃げられない様に、さっきよりも力を入れた。

「アンタが駅まで送ってくれるんなら、帰ってもイーよ?」

「何で俺が!?」

寄り添う由美を睨みつける。

「さっき転んだ時、足くじいたんだけど。…責任、取りなさいよ。」

命令口調で言われて、利知未は渋々頷いた。

「…分かったよ。」

その言葉に満足げな笑顔を見せて、由美が言った。

「ファンは大切にしなきゃね。」

利知未はまた、そっぽを向いてしまう。

「…勝手に言ってろよ。」

そして、少し足を引き摺って歩く由美を、仕方なく駅まで送って行った。



 翌週の練習日、スタジオで利知未は前回のギャラとして、三千五百六円と言う、半端な金を貰った。

「バンドへのギャラから練習スタジオ代引いて、五等分の金額だ。電車代くらいにはなるだろ?」

「こんなに貰えるのか?俺、精々、千円くらいかと思ってた。」

目を丸くした利知未に、リーダーから突っ込みが入った。

「見開き禁止。あの日、オレ達のライブ時間に入った人数が49人いたんだよ。チケット代の四割計算。」

「へー…。そんなに入るんだ。あのライブハウス。」

「最高六十八人が一応、キャパになってるらしいよ?どんな手使って、あの広さをそんなキャパ申告してンのか、不思議だよね。」

拓が笑いながら説明してくれた。リーダーがムードメーカーで、拓が実務担当の関係らしい。

「あのさ、あの時、再来週のチケット五枚売ってくれって、言われてたンだけど…。どうすりゃ良いんだ?」

今度はリーダーが目を丸くした。初ステージでリピーターまで付けてしまった利知未の人気に、自分の目の確かさを実感して、満足げな笑みを見せる。

「渡しとくよ。ココに自分で日付入れて、サイン入れて、金は先に貰っておいた方が良い。」

FOXのロゴが印刷された、ブルーの厚画用紙製のチケットを十枚渡された。店の名前と場所は印刷済みだ。時間は手書きで入っていた。

「皆、これ持ってンのか?」

「今ントコ、リーダーの集客が一番、多いかな…?次はアキだね。」

拓が説明してくれた。大体いつも一人平均、四、五枚は売っているという。先週のライブは三週間振りだったので、個人の売り分が余り無かったと言う。

 利知未は、その金を溜めて行く事に決めた。溜めておけばギター関係の物も買えるとは思うが、十六歳になったら直ぐにバイクの免許を取りたいと思っていたので、その資金にしようと思った。高校に入って直ぐバイトを始めたとしても、利知未の誕生日まででは大した金が溜まる訳がないと、思ったからだ。

「分かった。じゃ、今週のライブの時に、また来るって言ってたから、そン時に売るよ。いくらで売るんだ?」

「当日入れば千六百で、前売り千四百円が基本だけど…、千はライブハウスに払って、後四百円分は相手の金によって、いくらか割り引いてやってるヤツもいるよな?」

拓がリーダーに聞く。

「別のバンドは、ソー言うヤツが結構いるらしい。オレ達は余りやらない。それだけの価値のあるライブをやるからって売ってるよ。」

利知未は感心した。けれど自分のダチ関係には、いくらか安く譲ろうかとも思った。中学生の小遣いじゃタカが知れている。

「…俺、中学生割引しても、良いかな…?」

リーダーの顔色を覗き込んで見た。リーダーは笑顔を見せた。

「セガワの友達関係じゃ仕方ないな。ケド、酒は成るべく飲まない様に言っておいてくれよ?…一杯くらいなら多めに見るけど。」

それはそうだと利知未も納得した。何かあったら責任問題だ。そして、そんな感想を持った自分に驚いた。

 今までは、年上の先輩に守られて来ただけだ。自分が責任を持つ事、そんな事は考えた事も無かった。何となく、くすぐったいような気分になる。

「分かった。じゃ、千二百円くらいにしようかな。」

「良いんじゃないか?…さて、練習、始めよう。」

リーダーが空気を変え、メンバーが一斉に真面目な顔付きに変わった。


 一月もすると利知未は、FOXのセガワとしてかなりの人気が出て来てしまった。ファンは若い女の子が多かった。チケットも毎回、平均で十枚は売れる。毎週金曜FOXのライブ時間は、狭いライブハウスが満員電車並の混みようだ。

 それに従いライブハウスからのギャラも、手取りで五千円近く入るようになった。一月大体、二万三千円余りの金が手元に残る。

 利知未は溜まった金を通帳で見た時、改めて自分の実力を上げて行こうと決心し、努力もする様になった。

 田崎は時々、ライブハウスに行って目を光らせている。利知未が少年としてステージに立っている事を知り驚いた。しかも人気もあるらしい。



 九月下旬、利知未は久し振りに応援団部室へ顔を出した。

「瀬川、お前、本当に正体バレてないのか?」

部室へ入った途端、橋田に聞かれた。

「何が?…って、ああ、ライブの事か。…今ントコは。」

田崎から聞いたのだろうと直ぐに見当がつく。向かいの椅子に掛けた。

「ソーか…。ま、何にしても、お前が楽しけりゃ、それが一番かもな。」

「…ソーだな、楽しんでるよ。張り合いが出来た感じだ。」

ニコリと笑顔を見せた利知未に、夏より更に少女らしい雰囲気を見た。バンドでは少年として振舞っている筈なのにと、少し驚く。その橋田の顔に、利知未が首を傾げた。

「俺、なんか変な事でも、やったか?」

キョトンとした顔が、また少女らしい表情だった。

「…いや。…今度、櫛田さんの店に行って見るか?」

櫛田に判断して貰おうと思った。もしかしたら上寿司位には、有り付けるかもしれない。

「イーな!連れてってくれよ?田崎センパイも一緒に、三人で行こうぜ!」

橋田の思惑に気付かないまま、利知未はニコリと頷いた。




         二


 十月。ある土曜日、利知未は現在の担任・須加から指導室に呼び出された。


 最近、学校には真面目に来ているし、授業も受けている。喧嘩もしていない。思い当たる節があるとしたら、バンド活動くらいだった。

 しかし、利知未がアマチュアバンドに参加している事は、学校側には知られていない筈だった。念の為、心の準備をして部屋に入る。

「失礼します。」

「どうぞ。…取り敢えず座って。」

須加に勧められて、椅子へ掛けた。

「進路相談には、まだ早過ぎデスヨ?」

言葉にも一応は気を付ける。国語教師の須加は、一年の時の担任・体育教師の松田に比べて更に厳しかった。しかも、尊敬語、謙譲語、丁寧語など、現国の教科書まで持ち出して、説明を始める。利知未は、説明など長々されるのは大嫌いだ。巧い担任選択だ。

「そうですね。進路相談はまだ先で構いませんけれど…、まぁ、その事については、最近の瀬川さんの生活態度と、成績を合わせて見ても、それ程、心配はなさそうですよ。」

先ずはニコリと、先制攻撃をされた。利知未は、この担任がやや苦手だ。

「そーデスか。では、何でスカ?」

利知未も笑顔を作って見せてみた。須加から笑顔返しを受ける。

「今日は、ある噂が私の耳に入ったので、それを確かめる為に瀬川さんに来て貰いました。」

「はぁ…。」

軽く視線を外した利知未をじっと見つめて、須加が言った。

「毎週、火・水・金曜、帰宅が遅いそうですね?」

『…玲子か?有得る…。』

情報の出所を推察し、表情が変わってしまいそうな所を抑え、利知未は可愛らしく惚けて見せた。

「え?何かの間違いじゃないデスカ?昨日もウチにイマシタケド?!」

「…そうですか。もう一つ。貴女によく似たヒトを、都内のあるお店で見掛けたと言う、噂が聞こえて来たのですけど…。まさかねぇ…。」

須加が小首を傾げて、利知未の姿をマジマジと観察した。

「どんな店、なんデスか?」

「…お店の名前は言えませんが…。…そこで見掛けた貴女に似た人と言うのは、どうやら高校一年の男子学生らしいと言うので…。瀬川さんは少々、中性的な顔立ちをしていますから、もしかしてと思ったのですが…。」

『やっぱ来た!…何処までも誤魔化し通すぜ!』

リーダーに言われた、女顔に戻り易いと言う表情。目を見開いた感じにして、精々、少女らしく見える様に小首を傾げてみながら返す。

「え!?俺が高校一年の男に見えマスか!?センセイ眼鏡合ってる?」

須加は、その言葉使いに反応した。

「瀬川さん、俺、ではなく、私。眼鏡は合ってます。…貴女と話していると、ついペースを乱されてしまいます。」

軽く溜息をつく。

「…まぁ、言葉使いは今は良いでしょう。…そうですね。いくら顔立ちが中性的とは言え、大勢の人を欺く事までは、そうそう出来る事では有りませんからね…。分かりました。結構です。教室に戻って下さい。」

「ハイ、失礼致しマシタ。」

心の中では舌を出していた。『へ、ザマ見ろ!』そんな気分だ。

 利知未は出入り口で一礼し、部屋を出て行った。



 次に来た十月の行事は、体育祭だ。

 去年は体育祭でつい良い成績を残してしまい、結果、運動部からしつこい勧誘を受けてしまった。今年の体育祭は力を抜いて行こうと思っていた矢先、貴子の推薦で、クラス対抗リレーのアンカーに抜擢されてしまった。

「えー、冗談だろ?!嫌だよ、そんな面倒臭い事!!」

つい大声で反対して、貴子に笑顔で言われてしまう。

「このクラスの女子で、短距離走、一番早いの利知未だよね?他に反対の人はいますか?!」

二学期の副委員長を仰せつかっている貴子が、教卓からクラスメートに声を投げた。反対はいなかった。高坂までニヤニヤしている。

「おう、瀬川!オレがバッチリ応援してやンぜ?!」

その高坂に、貴子がニコリと頷いた。

「頼もしい応援団長もいるし、断れないよね?利知未。」

「ケ、覚えてろよ?」

利知未は高坂を軽く睨みつけた。高坂はへへん、と舌を出す。


 貴子は相変わらず小柄だったが、それでも二年になって、150センチ近くまでは身長が伸びていた。利知未は相変わらずジリジリと伸び続け、今は165に届くかどうかの長身だ。

 そして貴子は、相変わらず田崎に片思いを続けていた。その所為もあるのかも知れないが、益々、可愛らしい外見へと成長して来た。実は最近ちょっとモテている。

 性格は相変わらずの強気、積極的な様子で、クラス委員として女子からも信頼が厚い。貴子の決定イコール、クラスの決定と同じ様な効力がある。利知未は、それで最近よく利用されていた。それでも変わらず仲は良い。担任も、利知未にとって良いお目付け役だと思っている節があった。


 貴子の、利知未・利用方法は、クラスの三分の一程を占めている、学校からは問題児と称される部類の生徒の、統一係りだ。

 喧嘩は勿論、利知未がダントツ。成績もクラス単位で言ったら、いつも三位までに名前が挙がる。生活態度は少々不真面目な所も見受けられるが、利知未が学校行事に確りと参加すれば、自然と問題児グループも後に続くから不思議だった。

 実はそのグループ、FOXのライブを良く見に行っている。セガワの良い顧客だった。

 そこで利知未を見て、内心ファンになってしまっている生徒も多かった。自然、利知未に対する言葉使いも、団部の後輩と同じ様な感じだ。

 そして変な虫がつかない様、クラスで目を光らせているのは高坂だ。

 このクラス、やや別クラスに比べて異様な雰囲気を持っていた。だが、それが今の所は上手い事働いて、纏まりも中々に良い。

 そんなクラスを委員として纏めるのは、やはり、貴子の様なタイプが打って付けだった。良いバランスである。


 それから利知未は、体育祭までの約二週間、放課後の一時間をリレー練習に参加させられるハメに陥った。ある日、クラスのセガワファンが、練習中に気の毒そうな声を掛けてきた。

「瀬川さんも大変っスね。バンドの練習も行ってんっスヨね?」

その生徒も俊足で、嫌々ながら男子リレーに参加させられる事になった。細川 保と言う。

「ン?ああ…。貴子に言われちゃ、しょーがネーよな。お前こそ、良くOKしたじゃネーか?」

利知未の言葉に、細川は曖昧な笑顔を見せる。利知未が参加するのだから、自分達も断れない。しかし、問題児メンバーが利知未に対して、そんな義理を通そうとしている事は、知らない事だ。利知未が強制した事は、今までも一度もない。

「…仕方ネーっす。…トコロで来週、別の学校のダチ連れて行きたいんすけど…。」

「千二百で良いぜ。中学生だろ?酒の事は、言っておいてくれよ。」

「分かりました。じゃ、明日、金持って来ます。」

「毎度!」

そんな調子でまた、FOXのファンが増えて行くのだった。


 体育祭、利知未たちのクラスは、優秀な成績で終了した。

 最後のクラス対抗リレーの時、高坂が応援団で鍛えた喉で、約束通りクラス全員を指揮って派手な応援をかましてくれた。

 利知未は走りながら、かなり恥ずかしい思いをした。どうやら、他のクラスの団部メンバー、取り分け団長・副団長は、遠目で眺めながら苦笑していたらしい。


 翌日の応援団部室で、高坂が二人から突っ込まれていた。

「お前、なんツー目立った応援してたンだよ?」

ニヤニヤしながら、田崎が言った。

「アりゃ、誰の案だ?今時アイドルのコンサートじゃあるまいし。」

橋田も、思い出し笑いをしてしまいそうなのを、堪えて聞く。

「アレは、ウチの副委員長が悪ノリして…。」

高坂も照れ笑いとも、単なる笑いともつかないような、微妙な表情だ。

 話題に上っている応援は、利知未が参加する対抗リレーの時、クラス全員がピンクと白の画用紙を使ってやった、人文字応援の事だった。高坂の号令に従い、『ハートマーク、セガワ、目指せ、優勝!』と、やった事だ。言葉も笑えた。

「我クラスのー!アイドルー!瀬川のー!健闘を祈ってー!」

と来て、途中で貴子始め、女子クラスメートが黄色い声援を上げていた。

 傍から見ていたら、本当に面白かった。応援が良かったクラスに贈られる賞があった。その『応援団賞』は、見事、二年四組が頂いた。

 対抗リレーの男子アンカーを務めた、問題児バージョンもあった。

「二年四組―!最速の男―!細川のー!完勝を祈ってー!」

と来て、人文字は『稲妻マーク、細川、目指せ、完勝!』だ。画用紙は青と黄色だった。

 因みに、皆でお揃いのハッピを引っ掛けていた。


 その話題の時、利知未が応援団部室に顔を出した。

「二年四組のアイドル登場!」

田崎が利知未の顔を見て、クスクス笑いながら言う。

「止めてくれよ、スッげー恥かしかったんだ…!」

顔を赤らめて、斜め下を向いた利知未に、橋田が言った。

「櫛田さんの修行してる店、高坂と大野も連れて行こうと思っているんだが。お前はどう思う?」

高坂が先ず、驚いた。利知未は顔を上げ、ニコリとする。

「良いんじゃネーか。…って事は?」

「ああ。来年度は決めたよ。」

「おめでとう、高坂。来年度、団長決定だよ。」

利知未が笑顔を、高坂に向けた。田崎も頷いて見ている。

「…え?マジっすか?!」

「マジだよ。文化祭が終わったら、直ぐ権限譲渡すっからな?気ぃ引き締めてかかれよ。」

田崎が言った。

 高坂は驚いた顔を嬉しげな表情に変え、そして直ぐに引き締める。

「光栄です!精一杯、後、引き継がせて頂きます!!」

キッチリと応援団式礼をする。橋田と田崎は顔を合わせて頷いた。

 そこに大野が来て、決定事項を聞かされた。大野も驚いたが、直ぐに気を引き締め、高坂と同じく返事をして、キッチリと応援団式礼をする。

 学校の裏を仕切る事、応援団を纏める事、そしてラスト一年の利知未の中学生活を守る事。全てにおいて、この二人が一番適任だと、橋田・田崎の二人は話し合っていたのだった。

 十一月に入って直ぐ、五人は櫛田の店へ行った。



 その日の朝、櫛田は店の親方と先輩方に対して、後輩が進路を考える参考に、自分の働いている所を見学したいと言っていると、断りを入れた。

 親方は、この七ヶ月余りの櫛田の働き振りを見て、内心目を掛けていた。直ぐに良い返事をくれた。

「そうか、中卒で職人修行を考えてるヤツがいるんだな。分かった。精々、良い見本に成ってやんな!」

パッキリした職人気質の親方で、下町人情が残っているような人だった。

「ありがとうございます!!忙しい時間、ずらすよう言っておきましたンで、済みませんが、よろしくお願いします!!」

 応援団で鍛えた声と、キビキビとした態度は、この修行に入ってからも役に立っていた。

 最近は洗い物だけではなく、米の研ぎ方から徐々にではあるが、職人修行的な事も、教えて貰い始めていた。だが、まだまだ、下っ端だ。かつての後輩に、腰も低く、ヘコヘコしている自分の様子を見せるのは、結構な根性がいる事だった。

 それでも数日前、橋田から相談を受けたとき、見せてやるべきだと心を決めた。

 橋田は、進学ではなく、中卒での修行人生を、考えているらしかった。

 田崎は元々、授業態度も真面目な方だし、成績もさほど悪くはないので、高校進学組になるだろう。三年間、気を許し合って来た仲間と離れて行くのも、寂しい事ではあるが、自分の人生を歩く為には、仕方ない。既に、そんな時期だった。



 利知未達が、昼の忙しい時間をずらして店へ入ると、客も疎らになった店内から、威勢の良い声が響いた。

「っラシャいませ!」

いら、が聞こえない寿司屋らしい、元気な声だ。櫛田の声も響いていた。

 五人は恐る恐る店内へ踏み込んだ。ココは、正しく大人の世界だ。本来なら中学生が、保護者も無く入れるような所では、勿論ない。

「失礼します、櫛田さんの後輩です。今日は、ぞろぞろ押し掛けて申し訳有りません!」

橋田がキビキビとした挨拶を交わした。今日、どう言う理由で持ってココへ来られたのか、全員、承知していた。素直に橋田の後に従った。

「いらっしゃい!聞いてるよ!ま、座わんな。」

緑茶を櫛田が出してくれた。下っ端の仕事だ。五人共、恐縮して受け取る。

 そして二時間ほどの間、カウンターから中の様子を見学しながら、櫛田の奢りで、『桔梗』という名前の並寿司のセットを戴いた。

 その間、始めは緊張していた五人を、親方自ら色々話し掛けてくれ、気持ちを解してくれた。良い店だと思った。

 奥の板場で、正しく下っ端仕事を黙々と続ける櫛田の姿に、不思議と感動を覚えた。社会へ修行に出ると言う事は、こう言う事なんだな、と、何となくでも感じることが出来た。

 仕事中の事でもあるし、櫛田と話す時間など無いだろうと諦め掛けた時、親方が言った。

「櫛田は中学時代、かなり暴れてたそうだな。だが、修行を続けられる根性だけは、ウチの店でも一番だ。将来、どう云う職種の道を行こうとしてんのかは知らねーが、あの根性は見習って良い。」

「はい、お蔭で決心つきそうです。」

橋田の言葉に切符の良い笑顔を見せて、板場に声を掛けた。

「櫛田!二時間、休憩行って来い!夜の仕込みには戻れ!」

振り向いた櫛田が、驚いた顔をした。まさか、そんな事を言って貰えるとは思いも寄らなかった。通常は一時間程の休憩だ。

「ハイ!有り難う御座います!!」

キッチリと礼をして、素直に厚意を受け取った。


 店から徒歩五分の、櫛田のアパートへ六人で向かった。

 櫛田は軽く飯を腹に入れてから仕事へ戻ると言う。利知未は思いついて、何か作ってやる事にした。狭いがキッチンもちゃんとある。

「センパイ、俺が何か作ってやるよ!何が食いたい?!」

ニコリとした利知未を見て、櫛田がリクエストした。

「…久し振りに、お前の作った親子丼が食いたいな。」

「そんなんで良いのかよ?俺、アレから結構、腕上がってんだぜ?!」

やや、膨れ気味の顔をした利知未を見て、櫛田は以前よりも女らしくなった様子に気付く。膨れ方が、ちょっと違う感じだ。


 今、他のメンバーがいる事に、感謝半分、残念な気分半分と言う所だ。しかし、利知未の事は、そう言った対象にするつもりは無かった。

 櫛田自身、良く解らないが、妹の様な感じが丁度良いような気がしている。男女の関係で見てしまい、何時かどうにかなって行くよりは、お互いが大人になった時、懐かしく語り合える女であって欲しかった。

 利知未は特別だ。そう思った。


「俺が食いたいんだよ。腕の上達を見せてくれんなら、何かもう一つ作ってみろや。全員で吟味してやンぜ?」

昔の砕けた口調に戻った櫛田を、利知未は、やや眩しい物を見る様な思いだ。恐らく橋田達も、何かを感じている。

「分かったよ。じゃ、親子丼と、今日は味噌汁にすっか?で、後は…、魚でも焼いてやるよ。どーだ?」

冷蔵庫の中身を検分して、利知未が言った。炊いた飯はある。

「良いな。一時間で出来るか?」

「任せろよ?!」

「おれ達、何か手伝うか?」

「じゃ、買い物、行ってくれるか?今メモるよ。センパイ、紙と鉛筆。」

「足りない物、あったか?」

首を傾げながら、櫛田が電話の隣に置いてあったメモとペンを渡した。

「チョイね。」

そ知らぬ顔で軽く口笛を吹きながら、利知未がさらさらとペンを走らせる。横で構えている大野に、一枚破いて金と一緒に渡した。

「二十分で戻ってくれよ?」

「了解。…でも、多くないか?」

「良いんだよ。よろしく。」

 玄関から送り出して手を振る。高坂も一緒に出て行った。橋田と田崎は、櫛田の顔色を見るが、『ココにいろ』と目で言われ、三人で色々な事を話しながら料理が出来上がるのを待った。


 利知未は本当に一時間で親子丼と味噌汁、焼き魚を作って出した。

「どーだよ?腕、上がってるだろ?」

自慢げに言い、正座のまま胸を反らして見せる。コンロの上では何故か、もう一つの鍋がグツグツと美味しそうな音を立てている。

「…ああ、美味い。」

本当に美味そうに食った。あっという間に平らげてしまった。利知未がキッチンに立つ。

「何、作ってるんだ?」

「センパイ、夕飯と明日の朝飯、兼用で食ってくれよ。…昔、ばあちゃんに教えて貰った煮物だけどさ?」

 振り向いてニコリとした利知未に、一同、女を見た気がしたのだった。




            三


 今年も文化祭シーズン到来だ。恒例通り応援団部は、校内警備の役目を仰せつかっていた。今年も利知未は部室に入り浸っている。

 つい先日、橋田達と櫛田の店に行き、その働き振りを見せて貰って来たばかりだ。

「櫛田センパイ、何かカッコ良くなってたよな。」

同じく部室に入り浸っている、橋田と高坂に利知未が言った。

「ソーだな。やっぱ、社会に出ると違うんだろうな。」

高坂が言い、橋田は何か思う様な顔付きになる。

「橋田センパイ。職人って言うよりも、技術者になるのか?センパイの考えてる進路って。」

「ん?…ああ、そーなるンだろーな…。だけど、修行するって観点から見たら、同じだとは思ってる。」

物思いから呼び戻された様子で、利知未に答えてくれた。微かな笑顔だ。橋田も最近、随分と大人びた顔付きになっていた。


 利知未は、身近な男達がどんどん格好良く成長している様子に、最近、自分でも良く解らない感情を持つ事がある。

 偶に良い顔で微笑まれて、何となく照れ臭い気分になる。

『…やっぱり男と女は、成長の仕方が違うモノなのかな…?』

そんな風にも感じている。

 そうなってくると、FOXでの自分の立ち居振舞いも、せめて身近な男達に見劣りがない様にしなければなら無いと思えてくる。改めて団部の仲間を、良く研究する様になった。

 音楽は、やはり楽しい。バンドのメンバーの事も好きだ。歌っている瞬間は、本当に気持ちが良い。だから、まだ止めたく無い。もう少し頑張りたい。

 そんな思いと裏腹に、このまま少年として貫き通す事が、本当に可能なのかと言う不安も感じ始めていた。やはり身近な仲間達の影響だろう。また応援団部は、男の中でも更に男っぽく成長をしていく連中が集まり安い。


「…今年は見回り、俺も一緒に回って見ようかな…?」

ふと、利知未が思いついた事を口にした。

「良いんじゃネーか?そろそろオレが行く時間だから、ついて来いヨ?」

高坂がニ、と、笑顔で言った。

「ツイデに手塚も連れ回してやれ。」

「そーっスね。じゃ、チョイ出てきます。瀬川、行くぜ?」

橋田に言われて、高坂が利知未を促しながら椅子から立ち上がった。

「橋田センパイは、ココにいるのか?」

「俺と田崎は、交代でココに詰める事にしたンだ。行って来い。」

「了解!」

先に立って、入り口を出掛けていた高坂に続いた。

「高坂、チョイ待て。」

橋田に呼ばれて高坂が振り向く。利知未は先に部屋を出る。

「…解ってるとは思うが、三年に注意しとけよ?」

低く、戸口の高坂にだけ聞こえる様に、橋田が言った。

「解ってます。もし何かあったら、手塚、ココに走らせます。」

確りと頷いた高坂に、頷き返した。

「何やってんだ、行こうぜ?」

廊下から利知未の声がして、高坂が部室を出て行った。


 去年と同じく、正門横に警備詰め所を設け、そこには力のバランスでグループ分けされた一・二年が、時間交代で詰めている。

 三年は、基本的には各自で校内を回っているが、時々、一・二年の監視に現れる。

「手塚、見回り行くぞ!ついて来い!」

「ハイ!」

高坂に呼ばれて、宏治は緊張気味に立ち上がった。

 例年の事で、二年の実力高位者は、次期団長・副団として、現団長・副団長に直接指示されて動いている。仕事の引継ぎの為だ。それで去年も橋田・田崎の二人は、他の二年と別れて、都筑・櫛田の元で動いていた。今年も既に、次期団長・副団長は決定している。

 一般の一・二年は、個人でそちらから声が掛かれば、警備グループから離れて従う。人選に深い意味は無い。


 高坂について来た宏治に、利知未は物陰から軽く、手を上げて見せた。

 立場上、堂々と見回りメンバーに加わるのも、変な噂の元になると思い、利知未は校舎の影で二人を待っていた。

 合図を寄越した利知未に、軽い笑顔を向けた宏治が、おかしな顔をした。

 利知未の後ろを、傍と見据えた。高坂も一瞬、緊張気味の顔をした。

 利知未は二人の様子を見て、直ぐに後ろへ気を向けた。

 くるりと振り向く。三年の佐伯と、その他二、三人が、慌てて表情を取り繕った。

「センパイ達、まさか見回り、サボってんのか?」

利知未が少し、恐ろしげな笑顔を作って見せた。迫力がある。

「何、言ってんだよ、一・二年の監視に来たんだぜ?な。」

顎を後ろへ軽く振って、佐伯が答えた。他のメンバーが合わせて頷く。

「ソーか。なら、イーけど。…タバコ吸ってきただろ?息、匂うぜ。」

利知未に隙は無い。そこに高坂が近付く。宏治は高坂に言われて、詰め所の大野を呼び、そのまま部室へ向かっていた。

「見回り、ご苦労様です!詰め所は今の所、問題有りません。」

高坂が、三年に対する礼儀を弁えた態度を取った。そこに大野も現れる。

 三年・四人 対 二年・三人の間に、微妙な緊張感が走っていた。

 利知未は、この三年のターゲットが自分である事には何となく感付いているが、どう言った対象としてのターゲットであるかは、見当が付いていない。だから危ない。

 喧嘩のつもりで構えていたら、全く別の行動に出て来られたと言うのでは、隙も生まれる。


 五分ほどは、睨み合っていたかもしれない。

「珍しい顔が集まってるじゃネーか。どうした?」

橋田の声がして、息を切らせた宏治が後に続いていた。

 情けない事に、佐伯達は橋田の睨みに恐怖を感じてしまった。同い年の男、たった一人を相手にしてだ。

「お前等、下級生の前で、団規乱そうとしてたんじゃネーだろーな…?」

怒鳴ったわけではない。ただ、ドスの効いた低音で、静かな一言だった。

「…んな事しネーよ。おい、詰め所も問題無さそうだ、見回り行くぜ?」

佐伯は少し蒼白した顔で、仲間に声を掛け、踵を返して行った。


 それから見回りに大野も加わり、利知未と宏治、高坂の四人で校内を一回りした。見回りの途中で、利知未が高坂に言った。

「さっきは、助かった。サンキュ。」

「なんだよ?瀬川にしちゃ弱気な事、言ってるじゃネーか?」

「…なんか、佐伯センパイ達の目、…気持ち悪かった。」

眉を少し顰め、呟く様に言った利知未は、今まで見た中で一番、少女らしい雰囲気を持っていた。その後は何事も無く、文化祭が終わった。



 翌週の頭に、恒例の権限譲渡式が行われ、新団長・高坂 崇史、副団・大野 俊平の、新制応援団が誕生した。

 今年の譲渡式も、各運動部、練習を中断して眺めていた。

 相変わらず格好良い。城西中学全体としても、この譲渡式は他校に誇れる恒例行事だ。何処から噂を聞き付けるのか、同学区内の小学生や、近隣の高校生、中学生までが門外へ見物をしに来る。近所の住人もだ。


 グラウンドから貴子は、目を細めて田崎の姿を追っていた。

『これが終われば、直ぐ冬休みで、三学期に入ったら直ぐに卒業式だ…。』

去年の、この時期よりも、更に寂しさが募る思いだった。

『今年は、田崎先輩も卒業しちゃうんだ…。』

恋する乙女としては、溜息が出て来てしまう。

 利知未ならイザ知らず、貴子のような真面目な生徒にとって、応援団部員と言うのは別世界の人間だった。

 貴子の恋は、心の中だけで追いかける形で幕を閉じ様としていた。



 FOXのセガワとしては益々、少年らしさに磨きが掛かってきている。最近は団部メンバーの影響か、少年っぽさに男っぽさまで入り始めていた。不思議な物で、ギターを担いでロックバンドのリードボーカルらしい格好をすると、自然と言動も男らしくなってしまう。

 お蔭でセガワ人気は益々、鰻登りだ。リーダーは益々、自分の眼光に自信を持った。


 しかし、格好良い少年らしく成れば成る程、色々な苦労も背負い込んでしまう。一番困るのは『女にモテてしまう』と言う事だった。

 しかも十六歳と言っている。ライブハウスに通う少女達には、随分と色々な経験が豊富なコも勿論多い。初日、由美に奪われたキスは、まだまだ可愛らしい事件だったんだと、最近の利知未は思っていた。…それ以上を求められる事が、時々あるのだ。


 年上の色っぽいお姉さんに誘いを掛けられた時には、どう対処すれば良いのか本気で戸惑った。最近利知未は、ソレがどう言うモノなのか、一般的にどんな印象で受け止められているかの参考になりはしないかと思い、青年誌やレディースコミックを手に取るようになっていた。

勿論、下宿になんか置いておけない。

 青年誌だったら、団部の部室に置いてあるのを、こっそりと読む事も出来るし、自分で買って見た雑誌を、そ知らぬ顔で誰かのロッカーへ紛らせてしまう事も出来る。が、レディースコミックは、正直処分にも困るし、買うのもちょっと恥かしい。…しかし、立読みはもっと恥かしい。

 けれど、セガワに誘いを掛けるのは当然、女な訳だから、青年誌よりもレディースコミックの方が、まだ参考になるような気もする。

 クダラナイ悩みだとは思うが、人に聞くのはもっと恥かしい。

 ソレが今、利知未の悩み所の一つだった。



 十一月三週目の金曜日。

 今日もFOXのライブは、大入り満員だ。

 最近は当日券では間に合わずに、ファンがFOXのライブ時間に入れなくなる事もある。

 自然、メンバーからチケットを買うファンも増えてきた。これでは店の売上にも響いてしまうので、手売りチケットの枚数に、1ステージ一人十枚までと言う上限が出来てしまった。店から前売りを買うファンも増えている。

 集客人数ダントツの一位は、やはりセガワだった。ただ、セガワファンでも本人の上限が間に合わないと、メンバーが変わりに売ってあげたりもする。結局、五人の個人売り枚数上限は、毎回売り切れてしまう。


 ライブの後、ごった返している狭いライブハウスの中で、人を掻き分けるようにしながら、由美が利知未に近付いてきた。

 由美は最近、一部のセガワファンから偉く煙たがられている。積極的過ぎるのだ。今日も取り巻きを押しのけるようにして、利知未の脇を奪い、腕を利知未に絡めて顔を近づけ、耳元で囁く様にして喋る。

「ね、今夜も送って行ってよ?」

利知未は、他のファンも群れている中で、返す言葉を探す。

「ちょっと、アンタさ、馴れ馴れし過ぎじゃない?」

由美に負けず劣らず気の強そうな少女が、由美を利知未から引き離そうと手を掛けた。パシ!と音がして、由美の片手が少女の手を弾く。

「アンタ、新顔でしょ?アタシに手、出したら、痛い目見るよ?」

迫力の睨みだ。由美のバックに付いている者を知っているファンは、どんなに由美が利知未に対して馴れ馴れしい態度を取ろうとも、自分の事を押し退けられようとも、立て付く事はしない。利知未も薄々、感じ始めていた。彼女は、暴力団系列の事務所との繋がりを持っているようだった。

 取り敢えず、こんな所で喧嘩を始められるのは勘弁して貰いたい。

 利知未がセガワとして、鶴の一声を上げる。

「由美…!」

低く名前を呼び、軽く睨んでやる。それで少しは大人しくなる。

「悪かった。根は悪いヤツじゃないんだ。ご免な。チケット2枚だったよな?お詫びにチョイ割り引くよ?」

由美に手を弾かれた少女に、利知未が謝る。そうした態度が、またセガワファンを増やしている事は、本人、全く気付いていない。

 早速、惚れ込んだ目をして頷く少女に、由美は面白く無さそうな顔をする。その様子を間近で見ている別のファンにも惚れ直される…。

 その様子をカウンターから、リーダーが眺めていた。

「なんか益々、男っぽくなってきてるよね。」

隣で拓も、利知未の様子を見ながら話す。

「ありゃ、役者にもなれるな…。」

リーダーが、茶化しと本気が混ざった様な顔をした。反対隣では敬太が、小さく笑っていた。

「ホント、器用な子だよな?」

滅多に自分の感想を述べない敬太が、利知未に感心して呟いた。

 アキは自分のファンを相手に忙しくしていた。元リードボーカルとして、アキには熱狂的なファンがついている。

「リーダー!拓でも敬太でも、チケット余ってたら回して貰えるか?!」

利知未が男らしい口振りで、カウンターの三人へ声を投げた。


 それから三十分ほどで、取り巻きの相手とチケットのやり取りを終え、店のレジで売上分の一万六千円を支払い、利知未はやっとライブハウスを抜け出した。店から出た途端、ポケットからタバコを出して火を着ける。大体、何時もそうだ。直ぐに由美が追いかける様にして出て来る。別に、由美を待っていた訳ではなかった。

 利知未の習慣を知った由美が、人垣を抜け出てくるのに五分くらいは手間取っても、利知未が帰宅する前に間に合うと知っただけだ。

「セガワ!やったね、今日も間に合った!!」

ニコリとガッツポーズをする由美に、利知未は初対面の時よりも、いくらか好感を抱けるようになっていた。

「…一服場所、来週から変えるかな。」

煙を吐き出して呟いた利知未の言葉に、由美は直ぐに反応する。

「何処にしたって、直ぐ見つけてやるンだから。無駄な足掻きしない方がイーンじゃん?」

そして、また腕を絡めてくる。

 利知未はそうされる度に、それでも少しは、少女らしい体付きをしている部分に気付かれはしないかと、内心、冷や冷やしている。


 駅前のファーストフード店には、今月に入ってから毎週寄っていた。

 利知未の取り巻きが増えるに付け、どうしても帰宅が遅くなる。

 利知未の裏事情のため、FOXのライブ時間は出演バンドの中で一番始め、十九時からになっていた。ココまで下宿から一時間は掛からないが、十八時半には入らないと間に合わない。夕食を食べる時間が無いのだ。里沙はどんなに遅くなっても、利知未の分の食事を取っておいてくれるが、腹が持たない。

 今日もライブ後のバタバタで、あの店を出たのは九時半を回っていた。真っ直ぐに帰っても十時半だ。それで、三十分位でハンバーガーを腹へ入れる様にしたのだ。由美は何時もついて来る。


 今日も小さなテーブルを挟んで向かい合い、一人で良く喋る由美の話しを聞いていた。

「今日はチケット、ライブ八回分まとめて売ってよ?」

由美が話しの中で言い出す。少し驚いた。

「…構わネーけど…。一気に一万以上も買う金、良くあるよな。」

「イーでしょ?だって最近、直ぐチケット売れちゃうんだもん。買える時、買っとか無いと、セガワのライブ見逃しちゃうじゃん?」

肝心な事は答えない。利知未はその手の受答えは得意だ。

「っツーか、どーゆーバイトしたらンな金、稼げるんだよ?…俺、新しいアンプ買いたいンだよな。」

「そんなの、アタシが買ったげるよ?!」

「女に貢がせンの、好きじゃネーんだよ。イーバイトなら紹介してくれネーか?」

ニ、と軽く笑って見せる。由美に対して、滅多に笑顔は見せない。効果はあると思った。

「…チョイ、ヤバイ事だからさ、紹介は出来ないよ。」

少し俯いてしまった由美に、利知未はファンがしていた噂を思い出した。


『由美ってさ、コッチやってるって噂。』

コッチと言いながら、人差し指を鉤型に曲げていた。掏りだ。

『○暴がらみでさ、上がりの一部をケンジョーさせられてんだって。』

そんな噂話しだった。


「ね、セガワ、…シテくれたら、もっと良い仕事、紹介したげるよ…?」

上目使いで利知未を見る。やや色を含んだ目と、言い方だ。

 利知未は、内心では面食らっていた。そのまま表情へ出せば、禁止事項の目見開きに成ってしまう。敢えて目に力を込めて細めて見た。

 違う表情に見えてしまった様だった。由美の瞳が、熱い思いを宿す…。

「…ワリー。ソーゆー気は無い。」

テーブルの上で手を組み、目を伏せて、視線を斜め下へと向けた。

 暫くの沈黙が落ちた。由美がふいに立ち上がり、バッグを持って早足で店を出て行った。

 利知未は追い掛けない。追い掛けたって、どうにも成らない。

 飲みかけの珈琲に手を伸ばし、ゆっくりと飲み干すと、タバコを出して火を着けた。とにかく一度、落ち着こうと思った。



 由美は翌週、あっけらかんとした様子でFOXのライブを見に現れた。

 利知未には、やっぱり良く解らない。

『どンくらい好きな相手だったら、あんな風に思うんだろう…?』

自分も女だが、まだ、そんな風に思える相手には、当分出会わないだろうなと、自己分析をしたのだった。




            四


 相変わらずの数字が並んでいる、利知未の二学期の通知表を見て、裕一は軽い溜息を吐いた。だが、通信欄には中々、良い事も書かれており、頬が少し緩む。

「成績は相変わらずだけど、真面目に学校には行ってる様じゃないか。」

「一応ね。三学期入ったら、直ぐ進路相談が始まる見たいだし。そうなってから慌てるよりはまだマシだろ?」

円座卓の向かいに座り、食後の茶を飲みながら利知未が言った。

 裕一はまた、久し振りに会った妹の成長を感じていた。少しは責任感も出て来た様子だ。


 この夏から秋にかけての、FOXでの出会いと活動。それと、二つ年上のセンパイ、櫛田の生き方に、ホンの少しだが触れた事。色々な体験の中で、利知未の中に責任と自覚と言う物が芽生え始めていた。


「進路か…。お前は、どうしたいと思っているんだ?」

裕一の質問に、利知未は首を傾げて考えて見た。

 アダムのマスターに筋が良いと言われ、将来はああ言う店を出す事が出来たら良いな、と思った時期もあった。櫛田の職人修行を見て、それよりも何か手に職をつけて行くのも、悪くないかもしれないとも思う。FOXで音楽に触れ、楽器や音楽関係にも興味が出て来た。それと橋田の影響で、バイクや車の整備関係の仕事にも興味がある。

「…正直、まだ解らネーや。興味が有る事や、やって見たい事はいっぱいあるけど…、どれも本当に続けて行く事が出来るか、まだ自信無い。」

真面目な顔をして答えた利知未に、裕一は改めて利知未の成長を見た気がした。自然に笑顔になる。まるで父親のような笑顔だ。

「そうか。まぁ、どんな道を進むにしても、高校は普通科へ行っておいた方が良いかもな。校風や、それぞれ得意分野を持った教育方針の学校もあるだろうから、利知未が、ここなら納得出来ると思える高校を、探し始めたらどうだ?」

裕一の言葉に、利知未が頷いた。

「そーだな。出来れば制服とか無くって、規則もアンマ厳しくないような、自由な校風ってのが理想だな。」

「そんな学校、中々、無いと思うぞ?お前らしいけどな。」

余りに都合が良過ぎる利知未の学校選択基準に、裕一は笑ってしまった。

「そーかな?ケド、探せばきっと一校くらい見つかるんじゃネーか?」

呑気な様子だ。それも利知未らしいと言えば、らしい。面白そうな笑顔のまま、裕一が言う。

「途中で詰まんなくなって、止められても勿体無いし、じっくり探して見れば良いよ。俺も大学の友達に、出身校の事でも聞いて見てやるよ。」

「サンキュー裕兄!」

ニッコリとして、利知未が言った。食器を持って立ち上がる。

「片付けてくる。茶、もう飲まないか?」

「もう良いよ。片付いたら風呂に行って来よう。」

利知未は頷いて、キッチンへ消えた。


 利知未は、鼻歌交じりで食器を洗っていた。

 洗い物が終わり、布巾で食器を拭いて、棚へ片付けていく。今日は丼物を作っていた。丼は普段、余り使わない。高い所へ置くのも危険だと言う事で、いつも流し下のスペースへ片付けている。今日もそのつもりで下の戸棚を開き、動きが一瞬、止まってしまった…。

「うわ!何で冬にコイツがいるんだよ!?」

キッチンから聞こえてきた利知未の叫び声に、裕一が部屋を出て来た。

「どうした?」

「アレだよ、アレ!殺虫剤あるか?」

利知未は、ソイツの事は余り好きではない。好きなヤツなど中々いないだろうとも思う。

「このアパート、古いからな…。どうしてもタマに、何処かから紛れて来るんだ…。」

裕一はのんびりと構えて、食器棚の横に置いてある殺虫剤を持ってくる。

「早くしろよ!逃げられちまうだろ!?」

利知未がソイツの動きを監視しながら、裕一を急かした。

「何処だ?」

「ソコだよ、ソコ!」

指差している方向を見て、ソレを確認した裕一が、殺虫剤を撒いた。

「うわ、出て来た!!」

利知未は慌てて裕一の影に隠れる。黒光りする脂ぎった羽、驚くほどの素早さで移動する無気味な姿…。一応、少女である利知未にとって、一種の恐怖対象だ。

 裕一が留めとばかりに、盛大に殺虫剤を吹き掛けた!

 ソイツはヨロヨロし始め、羽を半端に開いた。嫌々ながら、じっと見守っている利知未。その利知未の顔を目掛けて飛んで来た!!

「ウワッ!!」

反射的に目を瞑った利知未の髪に、ソイツがしがみつく!

「おい、利知未!!」

裕一も慌ててしまった。利知未は髪に何かくっついた感触に、何がなんだか分からないまま、手を上げて払ってしまった…!

「キャッ!」

可愛らしい声が上がった。裕一は一瞬驚く。だが、それ以上に利知未に払われて、床にベチッと落っこちたソイツを仕留める事に集中した。

「ヤダ、ヤダ!変な匂いがするよ!?何?!気持ち悪い!!」

裏返った声を上げながら、利知未がソイツに触れてしまった手から立ち上る、臭い匂いに顔を顰めている。涙目だ。

 慌てて蛇口を捻って盛大に水を流しながら、利知未は手と、この寒いと言うのに、ソイツの触れた部分の髪を物凄い勢いで洗い始めた。

「利知未、大丈夫か?」

半泣きしながら、手と髪を洗っている利知未に、ヤツを仕留めて処分し終わった裕一が、戸惑いながら声を掛けた。

「臭いよ、なんか、油っぽい…。気持ち悪い…。」

本当に泣きながら、まだ洗い続けている妹に、どうしてやったら良いのか考えあぐねた。

「兎に角、水じゃ風邪引くから。支度して銭湯に行こう?」

利知未は泣き顔で鼻を啜りながら、裕一に渡されたタオルで髪と手を拭いた。気が違えた様に拭く。拭き終わって直ぐに洗濯機へほおり込んだ。洗剤を入れて、そのタオルだけを洗い始めた。


 銭湯へ向かう道、利知未は妙に脱力していた。裕一は心配顔だ。

 本来、気が強く、滅多な事で涙は見せない。それに、何時もどうも男か女か判らない言動をする利知未が、余りにも女の子らしい声と言葉で取り乱した事を、戸惑いながらも妙に安心した気持ちで見ていた。

 利知未の方はこの体験で、すっかりゴキブリが苦手になった。元々、勿論好きでは無いが、見つけたら殺虫剤を拭き掛ける位は平気だった。

 ところが、この日から利知未は、ソイツの姿を見るだけで怯えてしまい、見て見ぬふりをするか、その場から逃げるかの、どちらかの行動を取るようになった。飛んで来た恐怖は、今までの対面記憶に無かった事だ。


 銭湯で利知未は、それこそ気が違った様に髪を洗い、手を洗い、携帯用のシャンプーを、すっかり使い切ってしまった。それでもまだ足りない気がして、更に石鹸も使って、その部分だけしつこく洗った。

 何時もよりも長湯の利知未を、銭湯の番台近くで待ち、裕一は些か湯冷めしてしまった。時計を見て、もう一度湯に浸かり直しに入って行った程だ。二度目に番台の所まで出て来た時、漸く少し落着いた様子の利知未が、女湯の暖簾を潜って出て来たのだった。


 帰り道で、利知未が俯いて言った。

「…あのさ、裕兄…。」

「ン?」

「さっきの事、優兄には内緒にしておいてくれよ…?」

上目使いで、裕一の顔色を伺っている利知未に、微笑んで頷いて見せた。

「分かったよ。…けど、余りにも女らしい反応で、俺も驚いた。」

利知未の頬が赤くなってしまう。また視線を道端に落とす。

「…自分でも、びっくりした。」

呟いて、自信を失ったような顔をしていた。



 翌日、優が泊まりに来た。既に大晦日だ。今年も長期休みの間中、アルバイトをしていたと言う。

「そんな事してて、入れる大学あるのかよ?」

昨夜の気弱な少女の顔は一切見せないで、利知未が憎まれ口を叩いた。

「オレは、スポーツ推薦、決定してるんだよ。知らなかったのか?」

へん、と言う顔をして言った優に、利知未も裕一も驚いた。

「そうなのか?どうして言わなかったんだよ?」

テレビ画面には年末恒例の歌番組、利知未の後ろでは、石油ストーブの上で薬缶が、カンカン鳴っている。

「本当に推薦で行けるかどうか、こないだの大会まで判らなかったんだよ。…優勝しなきゃならなかったからな。」

優は答えて、蕎麦の汁を啜っている。照れ隠しか、呑気に見せているつもりなのか。

「…って事は、優勝したのか!?」

利知未が、びっくりした声を上げた。優の学校生活については、今まで殆ど聞いた事が無かった。空手部で毎回、大会に出るくらいの実力があった事は知っていたが、まさか首位に上り詰められる程の実力があったとは、裕一も知らなかった筈だ。

「そうか、おめでとう!賞状とか、盾とかは無いのか?」

「…有るは、有るけど、持ってくんの面倒だし。…それに、今回は運が良かっただけだ。優勝候補が怪我してて、二回戦目で負けちまったんだ。」

「何だ、そー言う事か!驚いて損した!!」

利知未は素直に喜ばない優を見て、捻くれた言葉をかけた。

「テメー、相変わらず言ってくれんじゃネーか!?それでも一応、優勝だ。普通は祝いの言葉くらい、出てくんじゃネーのか?」

口をへの字に曲げて言った優に、心の中で『へん、素直じゃネーの!』と呟きながら、利知未は改めて言う。

「なんだ、やっぱ嬉しいんじゃネーか!…おめでとう、優兄!」

ニコリとする。優は少々、面食らう。

「折角だ。春休みにココに来る時、持って来てくれよ?賞状とか盾とか。裕兄だって見たいよな?」

「ああ、そうだな。そうしたら盾と賞状を眺めながら、お祝いしよう。」

優の性格を把握し、上手く操縦している利知未に、内心感心していた。

「…ケ、ショーがネーな。荷物になって面倒なんだけどな。分かったよ、持ってくる。その代わり利知未、オレの好物、用意して待ってろよ!?」

「任せろよ!優兄が好きなのって、エビ天か…?あ、カツ丼とかも好きだったよな?」

「後、鳥の唐揚げも好きだぜ?」

「そんなん言ってたら、全部、揚げ物になっちゃうじゃネーか!もう少し別のモノ思い付かネーのかよ?」

「ウルセー!オレの好物、用意してくれんだろ?文句言わネーで黙って作れよ?!」

「ケ、貧相な食イメージだな。…分かったよ、用意してやるよ。」

「楽しみにしてるぜ。」

何時も通りの二人の会話を、裕一は笑顔で聞いていた。

「今年も、二年参りに行かないか?」

話しが落着いた所で、裕一が提案する。

「そーだな、行くか!?」

優が頷いて、利知未も舌なめずりをする。

「したら、またお屠蘇、飲めるな…?!」

「お前、中学で酒の味、覚えてんじゃネーよ!呆れたヤツだな。」

「まぁ、正月のお屠蘇くらいなら、多めに見てやるか。…普段は飲んで無いだろうな?」

裕一に言われ、利知未は内心舌を出す。

「飲んでる訳ネーじゃん!お屠蘇だけだよ?」

「どーだか…。」

呟く優をチラリと睨んでやった。


 去年も詣でた近所の神社で、また今年も、お屠蘇を振舞ってもらった。

 利知未達三人は仲の良い兄弟として、去年、裕一にお屠蘇を振舞い直してくれた年配のオジさんの、記憶に残っていた。

 お参りを済ませた後、利知未は社務所で販売していたお守りを買って来た。優には学業成就、そして裕一には何故か、交通安全のお守りだ。

「お前、なんで兄貴に交通安全なんだよ?免許も持ってねーのに。」

「イーんだよ。交通安全って出先から無事に、家へ帰って来られる為のお守りなんだから!裕兄が登山行って、無事に帰って来る様に、これ買ったんだ。」

「普通、登山なら厄除けじゃネーのかよ?」

優に突っ込まれ、また口喧嘩が始まる。今年もまた、『新年早々、神様の前で喧嘩するな!』と、裕一が去年と同じ事を言いながら二人の仲裁をし、まだぶつぶつ言っている二人の背中を押す様にして、連れて行く。

 その喧嘩の様子を、振舞いのオジさんが今年も見ていた。

「相変わらず、元気な嬢ちゃんたちだね。」

笑顔で、今年は始めから、お汁粉ではなくお屠蘇を、利知未にも振舞ってくれた。

「明けましておめでとう!オジさん!!」

ニコリと言って、お屠蘇を受け取った利知未に、ちょっと驚いた笑顔を見せてくれる。『おめでとう』と、返してくれた。

「去年は本当に坊主かと思ったが、娘らしく成って来たねぇ。…そう言う年頃か…。」

既に、娘を二人嫁がせて、去年には五人目の孫にも恵まれていたオジさんは、利知未の様子を、目を細めて見ている。自分の娘達が、利知未ぐらいの頃の事を思い出していた。

「騒がしい弟妹で、済みません…。」

裕一が照れ臭い笑顔で、お屠蘇を受け取る。

「利知未が変な事するからだ。普通じゃ考えられない思考回路だぜ。」

優はぶつぶつ言って、オジさんには笑顔を向ける。

「おめでとうございます。」

「おめでとう。ま、元気が一番だな。」

オジさんも笑顔で、優にもお屠蘇を振舞ってくれた。

 三人でお屠蘇を飲み干し、今年はお御籤も引いて見る事にする。

「やった、大吉!」

利知未が嬉しそうに言う。優が自分のお御籤を眺めながら皮肉った。

「大吉ってのは、後は運が下がるだけ何だぜ。そんなに嬉しい事かよ?」

「なんだよ?もしかして優兄、良くなかったんだろ?!」

ニヤリとして、利知未は素早く、優のお御籤を奪い取った。眺めて声を上げる。

「なんだ、小吉か!大凶でも引いたかと思ったぜ。」

お御籤に書かれている事を音読し、取り返そうとする優の攻撃を素早くよける。裕一は笑顔でその様子を眺めながら、自分の分を見た。

「参ったな、凶は俺だよ。」

少し情けない顔をして言った裕一に、利知未の動きが止まった。その隙に優は、自分のお御籤を奪い返した。

「凶?…ヘーキだよ、元旦からそれなら、これからは、きっと上がって行くだけだって!」

ニコリと笑顔を作って、裕一のお御籤を覗き込む。そして、再び動きが止まる。笑顔も一瞬、消えた。

『旅立ち・悪し。今年は控えてよし。』

裕一が、利知未の微妙な変化に気付く。優は離れた所で、自分のお御籤を木に結んでいる。

「大丈夫だよ。こう言うのは、結び目を反対にして木に結ぶんだ。それが厄落としになる。…って、おばあさんが昔、教えてくれただろ?」

笑顔を見せた裕一に、利知未も少し無理をして、笑顔を作り直した。

「そーだな。きっと、大丈夫だ。」

そして優の近くに行って、二人で並んで、お御籤を木に結んだ。利知未のお御籤は、結び目を上に、裕一のお御籤は、結び目が下。

「なんだよ?兄貴、凶だったのか?」

今更の様に、結び目を見て優が言った。

「ああ。お前に言わせれば、今がどん底で、後は上がって行くだけなんだろ?今年一年は何事も慎重にしろって事だ。そうして気を使って行けば、運は次第に上がって行くって言う、そう言う意味だろ?」

ニコリとした裕一に、優もへへっと、笑って見せた。

「そーだよ。後は上がるだけだ!二月の登山も、きっと平気だよ。」

「そうだな。正しく山には登って行くんだからな。」

二人の様子を見て、利知未も一応、笑顔を作るが、内心では何となく不安感に襲われていた。

『バカバカしい。…お御籤なんて、占いと同じだ。当るとは限らない。』

小さく首を振って、悪い予感を追い払った。



 今年も一月二日には、大叔母の墓参りへ行った。

 利知未は神社で神様にお願いした事を、大叔母夫婦にもお願いした。

『裕兄が、無事に山から戻って来れます様に…。見守ってくれよ?』

その事、一つだった。

 随分と長い事、墓石に頭を垂れている利知未を、裕一は気遣わしげに見守っていた。優は相変わらず突っ掛かっていく。

「何、長々と合掌してんだよ?」

後ろから聞こえて来た優の声に、利知未は漸く頭を上げた。

「ウルセーな、イーだろ?!」

軽く睨みつけ、フイと横を向いてしまう。

「また、お前達は…。何処でも構わず、喧嘩を始めるな。」

裕一が呆れ顔で、二人を戒めた。


 翌日、利知未と優が帰って行った。

 裕一はこの二月、三度目の冬山登山に向かう予定がある。

 一度目、二度目の経験から、他の季節の登山に比べて、危険が多い事は重々承知だ。利知未の懸念も解るが、冬、雪の山頂から見える付近の山々の景色は、大好きだった。

『無事に、帰って来れるさ。まだ俺には、やらなきゃ成らない事が沢山ある…。』

利知未に貰った交通安全のお守りを見つめて、改めて気を引き締めた。




         五


 冬休み最後の金曜日、FOXは『ニューイヤーライブ』で、一時間半の演奏時間を貰った。

 普段は1バンド四十五分〜一時間のステージを、三、四回行っている。一時間半のステージを貰うという事は、それだけFOXの集客率が、別バンドに比べて高いという事だ。チケットも、何時もより二百円ほど高かった。それでもやはり売り切れた。

 年末から、カウントダウンライブをFOXが仕切ってやって欲しいという依頼もあったのだが、メンバーの中で、利知未とアキの都合が悪く、そして敬太も、まだ高校三年だ。流石に徹夜は無理だと言って断った。


 敬太は本来、大学受験を控えた受験生の筈だが、彼の通う学校は大学までエスカレーター式だった。学校での敬太は、アマ・バンに参加している事以外は、どうやら成績も並の優等生であるらしかった。

 一月の始めに誕生日を迎える。その見込みで、この冬休み中に普通車の免許を取得してきた。敬太の免許取得を、特に喜んだのは拓だった。今まで機材運びは、拓がやっていた。FOXの音楽がポップスに変わり、敬太を別のバンドから引き抜いてきてから、もう二年間そうだったらしい。それまでの二年間はニューミュージック系で来ていたので、ドラム無しでも何とかなっていたと言う。


 ニューイヤーライブ前日に、急遽一日だけ増やした練習日に、拓が嬉しそうに敬太と話していた。

「お蔭で機材運び、手が増えたよ。車、買うのか?」

「一応、両親はそう言ってます。オレはドラムを積めるワゴンが良いんだけど…。管理は当分、親がする事になるから、どうかな…?」

敬太はまだ高校生だ。四月から大学生になるが、車の維持費を稼ぎ出す事は、やはり無理があるだろう。

「もし、敬太が納得すればだけどさ、知り合いに中古売りたがってる奴がいるんだ。…かなり安くしてくれそうだけど、見に行って見るか?」

「そうですね。一度、見せて貰おうかな…?」

「じゃ、言っておくよ。」

「お願いします。」

ニコリとして言った。敬太の笑顔を見た利知未は、また少し気持ちがくすぐられる様な、可笑しな気分になる。

『あれ…?』

自分で自分が理解不能だ。敬太の可愛い笑顔は相変わらずだ。

 確実に、今まで利知未の周りにいなかったタイプだった。敬太の笑顔を見ると、何となく気持ちがほのぼのしてくる。

『ま、イーか!コーいうヤツもいるんだ。世間ってやっぱ広い。』

そんな風に、自分の気持ちを片付けてしまう。

「練習、始めよーぜ?!」

利知未が明るく声を掛けた。


 最近、メンバーの中でも、由美の存在が目立っていた。どうやら暴力団絡みの少女であるという事で、様々な懸念も広がる。

 十二月の始め、利知未が楽屋で洩らしていた言葉があった。

『やはり、ずっと男で通さないとマズイだろうか?』

という事だ。その時は、拓に止められた。利知未は今も十六才・少年のままで通している。

 実際そのお蔭で、学校にはバレずに済んでいると言う事もある。

 何故、利知未がその時、あんな事を言ったかと言えば、十一月の中旬過ぎから、今まで以上に積極的に、由美が迫り始めてきた事が原因だった。


 由美は十一月の三週目、かなり固い決心をしてセガワを誘っていた。

 自分が関わっている事務所から、かなり割の良いバイトを紹介された。どんなバイトかと言えば「春を売る」と言う事で、…つまり売春だ。

 由美はその時、まだそこまでの経験は無かった。

 だからと言って、自分を大切にしたい等と、最もらしい事を言うつもりも無かった。既に、掏りで金を稼いでいる。表で売れない物を裏で売る事だって、勿論している。遊ぶ金、欲しさだった。


 ライブでセガワを見て、一目で好きになった。

 兎に角、格好良かった。顔も、綺麗な顔をしている。スタイルも由美好みだ。細身で足が長く、背は並だろうか?それでも155センチちょっとしかない自分とだったら、絶対に釣合うと思った。

 声も良かった。同い年の男達に比べれば、やや高めの印象はあるが、ハスキーで歌っている時の伸びも良い。独特な感じの声だ。一度聞くと癖になって、また聞きたくなる。

 ステージ上で照れた様子も可愛かったが、あの日、自分の手から凶器を取り上げた、あの身のこなし。そして、妙に律儀な、その後の態度…。

『母性本能をくすぐられるって、こんな感じなのね…。』

と、自分の心の動きにウットリしてしまった。もう、どうしようもなく好きになってしまった。こんな感情は始めてだ。

『身体を売って金に成るなら、別にどうって事無い。好きでもない相手だって、金の為だと思えば割り切れる自信がある。…でも、』

そう、でも。

『…初めての時くらいは、本当に好きな人と……。』

そう思っていた。今の自分の、その相手は、セガワしか考えられない。 

『だから、あれからも一生懸命誘ってたのに…。なんで、彼はアタシの気持ちに応え様としてくれなかったんだよ?!』

 あの日から、一月以上経っている。

 元々、短気な性格の由美だ。最近、自暴自棄な気分に捕われている。

『…もう、どーだってイイ…。』

そんな風に思いながら始めて取った客は、する事だけして文句を言い、金をベッドの上に投げつける様にしてホテルを出て行った。

 その客からクレームが入り、由美はお仕置きとして、事務所の下っ端連中から散々、弄ばれた。それが、十二月の終わりの事だった。


 年が明けた頃。由美は一人で、声が枯れる程まで泣き続けていた。

 涙が枯れ果てた時、無償にセガワに会いたくなった。

『アタシ…もう、キレイじゃないけど…。でも、やっぱり…!』

 そして、ニューイヤーライブの日、由美は二週間振りにライブハウスへ向かった。丁度その間の二週間は、FOXのライブがない週だった。



「Happy New Year! お待たせ致しマシタ!FOX・New year ライブ!始めるぜーっ!!」

リーダーの軽いノリから始まった。利知未は今回、挨拶原稿を渡されてしまった。最近、益々増えたセガワファンにサービスの意味を込めて、偶にはマトモに挨拶ぐらいしろと言う事だった。一応、暗記した。

 曲を先ず一曲、演奏して、利知未がマイクへ向かった。

 原稿を書いたリーダーをチラリと見て、さっさと行け!と促される。

「あー…明けまして、オメデトー。」

マイクに両手を当てて声が入る様に気を使いながら、俯きガチに始めた。

「オメデトー!!ちゃんとコッチ向いてぇー!!」

セガワファンの少女の声が、客席から上がった。利知未はチラリと向いて見せた。目が合った気がして、直ぐに視線を動かす。

 利知未は相変わらず、歌無しでステージに立っているのは苦手だった。兎に角、恥かしいのだ。ライブ後に客席で、普通にファンと話すのは大分、慣れてきた。しかし、そのギャップがまた魅力として見える。

「…去年の八月からココに立つようになって、もう四ヶ月も経った…。早いなって、思ってる。初めてココで俺が歌うようになった日、直ぐに声を掛けてくれた、…ファンの皆…。」

ファン、と自分で表現するのは恥かしかった。そんな人気者になる気も、なれる気も無かった。それでも、歌う事は楽しい事だった。

「…本当に、ありがとう。俺は…、」

原稿では、洒落も含めた言い回しで『俺はマジ幸せだよ。ファンの皆、愛してるぜ。これからもFOXの応援、よろしく!』と軽いノリで行け、と言う指示が入っていた。しかし、そんなこと言えない…。

「…ココで。歌う事が本当に楽しいって思うようになったんだ。…何て言うか、ソー言う気持ちをくれたのは、今ココにいる皆だから…、だから、今年も頑張ろーって思ってる。これからも応援よろしく。」

リーダーが『このヤロウ』と言う表情をして、ギターを鳴らした。次の曲の合図だ。メンバーが一斉に良い顔になって、演奏が始まる。曲は去年、初めてセガワがココで歌った曲だった。

 小気味よい、軽いロックのリズムが、ステージから広がった。


 この曲は由美も大好きな曲だ。何度も、ラスト曲にリクエストをして聞いて来た。明るくて、それでいてチョット迫力もある。リズムが生き生きと弾んで聞こえる。歌詞の内容は友情がテーマになっているような感じだが、押しつけがましい感じではない。ワクワクと楽しい、そしてチョットだけ切ない。そんな感じだ。

 セガワの素直な部分が、良く現れている曲だった。普段の彼からは、少し想像し難い。


 由美は二週間振りに、ステージ上でセガワが歌い、喋っている姿を見て、何故か涙がジワリと浮かんできた。切ない気持ちになる。

『どーしたんだろう…?こないだまでは、憎らしいくらいだったのに…。今、凄く……。…愛しい…?って、感じなの?これ…。』

目はセガワだけを追い掛けて、耳は歌声だけを、溢れている音の中から聞き分ける。それ以外の音は、単なる雑音だった。


 ステージ上の照明が急に変わった。ギターが中心になり、アップテンポでアレンジされた、良く知っている曲が始まる。

「♪ハッピ・バースディ・・トゥ・ユ・・♪ハッピ・バースディ・・トゥ・ユ・・♪ハッピ・バースディ・ディァ・……敬太!!」

セガワがそこまで歌うと、アキが小さなケーキを袖から出して来た。

 敬太は聞いてない事だった。キョトンとした顔で、スティックを半端に構えたままだ。ギター二本とベースが、気が狂ったのでは無いかと言うくらいの早引きで、音を掻き鳴らす。

「♪ハッッピ・バースディーー・トゥー・ユーー!!!」

バッチリと歌った。ギターが後を引き摺って、最後はセガワが決めて音を静めた。客席から拍手と「おめでとー!」と言う声や、口笛が響く。

「なにキョトンとしてんだ?敬太。」

セガワがドラムを振り向き、軽く吹き出して突っ込んだ。客席のセガワファンは、珍しいその笑顔を見逃さない。黄色い声が飛んだ。

「カワイイー!って、どっちに言ってるの?そこのおジョーさん?!」

リーダーが、すかさず突っ込んだ。客席から「セガワ!」と、女性の返事が飛んだ。それも確り拾う。

「ってセガワ、お前のファンだよ。今は敬太を祝う様に言ってやってヨ。」

客席から野次が飛ぶ。「ソーだ、ソーだ」と、少年の声だ。笑いも起こる。

 明るい雰囲気が広がっていく中、由美はセガワだけを見つめていた。


 その後、ライブは後半に入り、何時もならばやらない様な、お笑いチックな演奏とMCが入る。『童謡笑劇場』と銘打ったその演奏は、リーダーが何時か、チャンスがあったらやってみようと、長年温めてきたネタだった。

「FOXが、定期的に音楽変えてるの、みんな知ってる?」

リーダーが客席に振ると、昔からのファンの「知ってる!」と言う声と、セガワ人気の新たなファンからの「知らなーい!」と言う声が上がった。

「ソーか、良いチャンスが巡ってきた!やるよ、やるよ?FOXの新しいファンに、これまでの流れの紹介も出来るし!準備はOK?」

ニヤニヤしながらメンバーに振る。

「アーぁ、どーなっても知らネーぜ?」

セガワが、メンバーの代弁をする。リーダーはノリノリだ。

「我FOXは、今までニューミュージック・ポップスの時代を経て、今のロックの時代に入った訳だけど…。」

と、簡単に説明した。

「昔から良く知っている童謡を、それぞれの音楽にアレンジして演奏して見ようって事なんだ。面白そうなのだけ、チョコッとね?」

そう言って、楽しく解説しながら二曲ほどを披露した。息抜きタイムだ。

 今回のライブは一時間半と長い。ファンを飽きさせ無い様にと、結構、真面目に考えてきたネタだった。

 結果は…、意外にもウケた。リーダーのMCが上手かったからだ。特にウケたのは、アキがリードボーカルで歌ったシリーズで『童謡・ニューミュージック編』だった。面白いと言う意味でのウケだ。暗いだけでなく、やや色気を混ぜての歌声だ。…利知未には、不可能である。

 意外と感心されたのはポップス編で、利知未はアキと良くハモった。ロック編は会場を巻込んでの、大騒ぎになった。

 リーダーが空気を上手く操っていた。一曲で十分くらいの予定が、やや延びてしまった。

 その後は時間調整でMCを減らし、曲のオンパレードになってしまい、利知未は初めて、ライブで歌って喉が疲れてしまったのだった。


 由美は落ち込んでいた気持ちが、このライブでちょっとだけ晴れた。セガワを二週間振りに見られた事に、恐らく大きな理由があった様だ。

 ライブが盛況の内に終わり、FOXがラストの曲をいつも通り客席に問いかけ、アキとセガワのハモリがキレイに決まる、バラードが流れた。

「また来週、ココで!今日もサンキュ!」

リーダーが締め、薄暗い照明の中で次のバンドに場所を明け渡す。それから五分ほどすると、メンバーが裏を回って客席に出て来た。

 早速、取り巻きが群れ始めた。メンバー其々に勿論ファンが着いていた。ダントツに、その取り巻きが多いのは、この二ヶ月程は、やはりセガワだった。

 其々がファンとのやり取りを終え、カウンターで酒を手にして、まだ取り巻きに囲まれているセガワを呼ぶ。

「取り敢えず、乾杯だけしよーよ?」

「ああ、分かった。…悪いな、チョイ待ってくれ。」

ファンに済まなそうな笑顔で詫びて、セガワが人混みから抜け出した。軽くキョロリと周りを見て、由美の存在に気付いた。意外そうな顔をする。

「ほら、モスコ。」

利知未がカクテルを選ぶ時には、モスコミュールを飲んでいる事は、皆、承知していた。拓がグラスを渡した。

「ああ、サンキュ。」

小さく笑顔を作ってグラスを受取り、利知未はメンバーとニューイヤーライブ成功の祝杯をあげた。

 乾杯が終わり、再びファンに取り囲まれたセガワを、由美は遠くから見つめていた。

 その後、一時間くらい打ち上げに参加し、利知未は何時もより一時間程遅い時間に、ライブハウスを出た。由美の姿は途中で消えていた。

 何時も通り、店を出た途端にタバコを出して火を着ける。軽く一吸いして、薄く煙を吐き出した時、由美が静かに、利知未の前に現れた。

「…どうしたンだ?元気、なさそーじゃネーか。」

少し面食らう。何時もなら元気いっぱいに声を掛け、駆け寄ってくる由美らしからぬ雰囲気だった。

 由美はセガワに優しい声を掛けられて、心がきゅっと掴まれたような気分になる。戸惑い、その表情を隠す様に、笑顔を作って見せる。

「そんな事、無い。…ね、今日もハンバーガー食べてく?」

少し無理をしている雰囲気は感じたが、突っ込むのは止めた。

「…ソーだな。腹、減ってる。」

「じゃ、今日は、アタシが奢ったげるよ!」

元気に振舞い、いつも通りにセガワの腕に、自分の腕を絡めていった。

『やっぱり、セガワが好き…。』

改めて、そう感じる。彼の声を聞き、姿を見ると、不思議と幸せな気分になる。どんなに落ち込んでいても、イライラしていても、気分が変わった。


 何時ものファーストフード店で、向かい合って座り、話をしていた。

「良い金になるバイト、やっぱ紹介したげようか?」

話題がそこに行くと、利知未は構え直した。

「…交換条件、受けられネーぜ?」

「良いよ。そんな事…。だって、もう…、」

言い掛けて止まった由美の様子に、利知未の片眉が上がった。

「何でもないよ。…ちょっと、軽くて高い物、売ってんだけどさ…。」

言葉を濁して話し始めた。話が進むに付け、怪しい気配がして来た。

「…チョイ待てよ。それって、ヤバイモン売るとか、そう言う事か…?」

由美が声を上げて笑った。

「ヤーだ、セガワ、もしかしてビビッてんの?皆やってるジャン。」

由美が指す「皆」が、どの辺りの事を指しているか、しかとは解らないが、先ずマトモな連中の事で無いのは解った。

「…お前、ンなモン売ってンのか…?」

「アタシは、紹介してるだけ。自分では売らない。けど、それでも良い金に成るんだ。新しいアンプなんて直ぐ買えるよ?」

どうやら、麻薬の小売の話しのようだ。最近ニュースで良く言われていた。数日前にもバンドのメンバーと、その事に着いて話していたばかりだった。

 ライブハウス、一歩裏に入れば、そう言うネタは結構、転がっている。

 そこのステージに立つ自分達が巻込まれないよう十分注意しようと、話し合っていたのだ。

「…止めろよ。ソー言うの。俺もソコまでヤバイ事は、するつもりネーよ。」

真面目な顔をして、由美を見つめた。由美は驚いた顔をし、吹き出した。

「やっぱ、ビビッてんじゃない!タイした事じゃないよ、こんなの。」

利知未は食べ掛けのハンバーガーを口へほおり込んで、さっと席を立つ。

「ちょっと、どうしたのよ?」

「そう言う事してるヤツと、飯は食いたくない。」

席を離れて行く。由美が慌てて追い掛けてきた。腕を掴む。

「なによ?そんなに嫌なの?!…分かったよ、止めるから…、…だから、もう少し一緒にいてよ…?アタシ……、」

泣き顔になってしまった。由美は自分でも解らない。こんな事で泣ける物なの…?そう思った。

 由美の泣き顔を見て、利知未は何となく気の毒に感じた。由美が危険な事に手を出してしまったのは、本人の所為だけでは無いように感じた。

「…分ったよ。珈琲、飲み切るまではいるよ。」

踵を返して席に着く。直ぐに別のセガワファンが現れ、積極的に二人の席へ相席してきた。

 最近は良くある事だったが、由美は面白くなかった。




            六


 利知未は、三学期のテスト三昧の日々を抜けながら、相変わらず週、二回のバンド練習、毎週金曜のライブと、忙しく活動していた。

 偶には、応援団部室にも顔を出した。田崎は受験勉強のラストスパートに忙しく、ライブも最近は、見に行く事が出来ないでいる。

 変わりに高坂と大野が、利知未からチケットを買い、偶に様子を見に行っていた。


 久し振りにライブハウスへ顔を出した高坂達は、ステージ後、利知未が取り巻きの相手をしている間、リーダーや拓達と話をした。去年の夏から既に顔見知りだ。

 三十分後、やっと人混みを抜けて来た利知未と話しが出来た。

 由美は最近、ちょっと大人しくなっていた。利知未がバンドメンバーや男友達と話しをしている間は、離れた所で常連仲間と飲んでいる。

「ワリーな、待たせた。」

「相変わらず、スゲー人気だな。」

「…まー、ね。」

小さく顔を顰めた利知未の表情に、大野が気付く。

「何か、気になる事でもあるのか?」

高坂は相変わらず鈍感だ。やはり大野とは良いコンビである。

「気になるって言うか…。」

自分の男としてのモテ振りを、いくらダチだからと言って、相談するのは気が引ける。…恥かしくもある。それに、ココでは聞けない。

「ま、その内、聞いてもらうよ。…ライブ楽しんだか?」

「ああ。スゲー盛り上がってたモンな。面白かったぜ。」

「そうか。そりゃ、良かった。」

ニコリと笑う。男前な顔だった。大野と高坂はやや、自身をなくすような思いだ。普段の学校での利知未は、最近、益々、少女らしくなって来ていた。敢えて本人が気を付け始めたこともある。また学校にバレそうになった時の、良い隠れ蓑になるからだ。


 最近、利知未は本当の自分の素が、判らなくなって来ている。学校では応援団部室にいる時だけは、昔と変わらないでいられる。

 高坂など、クラスの利知未、団部の利知未、FOXでの利知未と、三種類もの顔を使い分けている利知未に対して、感心するばかりだ。

 本人、新団長として大変な事も出始めてきたので、そちらに追いまくられているのも事実だ。その高坂に対して、最近の利知未は偶にふと、優しい態度を取ってくれたりもする。そこが、女らしくなって来た部分の良い現れでもある。


 しかし実は、利知未本人は少々、疲れ始めてもいた。その疲れた感じに良く気付いているのは、バンドメンバーでは敬太の様だった。

 練習中に、ふと見せる利知未の変化に、一番良く反応してくれている。

「後ろでドラム叩いているとさ、前で演奏しているメンバーの事、結構良く見えたりするんだよ。リーダーのノリが、ちょっと違うな、とか、拓のベース、今日は良いリズム刻んでるな、とかね。」

だから、利知未の疲れている時の様子も、よく見えるのだという。

 利知未は、その敬太に対して最近、不思議な感情が芽生え始めていた。

 その感情に近いのは、裕一と一緒にいる時の、安心感かもしれない。

「…辛かったら、相談してくれよ?この中で一番、歳も近いし。…オレ、口下手だから、アンマリ良い事、言って上げられないかも知れないけど…。」

そう言って見せてくれた笑顔に、利知未は何回か救われた思いがした。


 女同士の部分で、色々と気に掛けてくれているのはアキだった。

 ライブハウスのトイレを、最近はセガワファンの女の子が多いからと理由をつけて、女子トイレと男女兼用トイレに変更してもらい、汚物入れを双方のトイレに設置してもらう様にしたり、楽屋奥のスペースに、自分も必要だからと言って、カーテンで仕切った着替えスペースを作って貰ったりもしてくれた。かなり助かった。

 店でトイレに行く時、どうしても女子トイレに入らなければならない日も勿論ある。しかし、セガワとしては不可能だ。…ライブ日があの日に当る時もあるのだ。

 そう言った事も通して、利知未は今、改めて自分を考えてしまう。

 それでもFOXのメンバーの事は大好きだし、歌う事も楽しい。だから、自然と無理をしてしまう…。


「なぁ、腹へらないか?」

利知未が高坂と大野に声を掛け、時計を見た。

「ソーだな。飯食ってネーし。」

高坂が言って、大野も頷いた。

「ファーストフード、寄って行こうぜ?」

何時もの店に寄って行こうと誘った。今日はそろそろ男らしくしている事に、少し疲れを感じていた。別に普通にしていても十分だとは思うのだが、やはり、この二人と並んでいたら、何時も以上に気を張ってしまう。二人共、最近また、ちょっとずつ男っぷりが上がって来ていた。

「ワリー。今日は、もう帰る。」

何時もより少し早めに切り上げようとする利知未に、リーダー達が返事をして、「お疲れ」と、手を上げた。


 店を出て、何時もの習慣通りタバコに火を着けると、由美が遠慮勝ちに声を掛けてきた。

「セガワ、今日はその二人と帰るの?」

後ろからの声に、軽く振り向いて答えた。

「ああ。腹減ったし…、寄ってくけど、どーする?」

何となく由美も誘う。何だかんだ言っても、由美はそれ程嫌なヤツではない。自分に一生懸命な様子は、困る事は困るが、大事にして上げなくてはならない相手だとも、思えるようになって来ていた。ここにも、利知未の成長がある。

「邪魔じゃない…?」

由美もニューイヤーライブ以降、随分と態度が変わってきていた。

 由美としては、段々とセガワに取っての自分がどう言う立場にいるのか、嫌々ながら認めざるを得ない気分になって来ていた。

 どんなに誘っても誘いに乗らない。危ない事をしている自分を嗜める。けれど、女としては見ては貰えない…。

 それでも好きだった。だから、せめて嫌われたくなかった。

「このコ、一緒でも構わネーか?」

利知未が聞くと、二人は快く頷いてくれた。

「…じゃ、お邪魔シマーっす!」

言って、相変わらず利知未の腕を取った。利知未は軽く目配せして見せて、少し面食らっている二人に、ちょっと困ったような笑顔を見せた。


 駅で別の線へ由美が別れて行ってから、三人はやっと肩の力を抜いた。電車の中で扉近くに立ち、話している。

「スゲー、積極的なオネーサンじゃネーか?」

高坂が少し呆れた顔をして言った。

「…なんだよな。一応、オレのダチって事で、もし、これから由美に会っても、同い年な感じで頼むよ。」

軽く溜息を吐く。疲れている様子だった。

「もしかして、気に成ってる事ってソーゆー事か?」

大野が聞く。利知未は頷いて見せた。

「あの由美ってコが、一番積極的なんだよ…。良くわからネーンだ。」

「何が?」

「…何て言うか、…恋愛感情って言うのか?ソーゆーの。」

利知未の口から、そんな言葉が出て来るとは思いも寄らない事で、二人共かなり面食らってしまった。

「…って、おれ等だって、アンマ良くわからネーよ?特に、女のそれは。」

大野が当然な返事を寄越した。

「ソーだよな…。俺にも判らネーんだ。…本物の男に判る訳ネーよな…。」

もう一度、溜息をついた。二人は本物の男と言われ、改めて利知未が女である事を思い出す。ライブ中や、ファンの前での利知未を見ていると、ついその事を忘れてしまいかける。それ程にセガワは男っぽかった。

「…来週、学年末テスト始まンじゃん?お前等、大丈夫なのか?」

利知未が話しを変えた。余り同じ事を長々と悩んでいるのは性に会わない。

「大丈夫な訳ネーじゃん?オレは瀬川と違ってバカだからな。」

利知未の性格を把握している高坂が、話に乗った。

「だよな、お前はマジ物覚えワリーモンな。」

大野がニヤリとして、高坂の物覚えの悪さについて、色々話し始めた。取り敢えず明るい雰囲気にしようと気を配った。高坂も槍玉に上がったからと言って、怒り出すタイプではない。

 三人でバカみたいな話をし、最後は笑って、最寄り駅で別れた。



 二月二十四日・土曜日。

 授業中、利知未は緊張顔の担任に呼び出された。電話の呼び出しだ。

 授業中の生徒を呼出すほどの、緊急連絡とはどんな物か…?

 利知未の心に、言い様もない不安が襲う。家族の訃報での電話連絡。小学校の頃、優しかった大叔母の旦那さん、ジイチャンが危篤だと言う連絡を受けた事があった。

『まさか…、裕兄…!?』

ガタンと音を立てて、椅子を蹴って立ち上がった。

 その表情を、貴子や、珍しく授業に出ていた高坂、セガワファンのクラスメートが、心配そうに見守っていた。

「利知未…?」

小さな声で貴子が声を掛けた。その声は、利知未には届いていない。

 急いで教室を出て、駆け足で職員室へ向かった。呼びに来た担任は追い付けない。

 ガラリ!と戸を開いて、挨拶も無く電話に向かう。何人か残っていた教師が、緊張したような心配そうな表情で、利知未を見つめている。

「もしもし、瀬川です!」

息を切らせて名を名乗る。

「瀬川裕一さんの、ご家族の方ですか?」

「はい、そうです、裕兄が…、兄に何か、あったんですか!?」

電話の向こうに、静かな沈黙が流れた…。

「…裕一が…、亡くなりました……。」

辛そうな声が、小さな声で告げた。

「…何かの、間違いですよね?!裕兄が、裕兄がどうしたって…?!」

「…パートナーを庇って、雪崩に巻き込まれて……。」

「…嘘だ…。嘘だ!ちゃんと確かめてくれたのかよ!?本当にそれ、裕兄なのかよ!?なぁ…、どうなんだよ………?」

受話器を握り締め、利知未が泣声で言った。後ろで担任の須加が、辛そうな顔をして利知未を見つめている。

「……判りました…。これから、その病院に伺います……。」

電話の相手から、今、裕一の遺体が何処にあるのか伝えられ、利知未は小さく答えて、受話器を置いた。事務員が呼んてくれたタクシーに乗り、直ぐに病院へ向かった。



 どの道を辿り、どう走っていたのか、全く分らなかった。

 まだ、利知未は信じていない。さっきの電話も、今、現在、自分が置かれている状況も。


 漸く辿り着いた病院の玄関で、慌ててタクシーから飛び降りる。誰かがセーラー服姿の利知未を見つけて声を掛け、先に立って歩き出す。案内されるままに、地下階へと向かった。


 地下にある霊安所で、右腕と、左の膝下の欠けた裕一の遺体と対面した。

 まだ、信じない。信じられない。ふらふらとベッドの脇へ進み、裕一の遺体へ縋りつく。

「…裕兄…?…何で……、大学出たら、一緒に暮らすって言ってたじゃないか…?」

 裕一は何も言わない。利知未と同じ様に、電話連絡を受けてきた優が、利知未の後ろで辛そうな顔を叛ける。利知未は裕一に語りかけ続ける。

「なぁ、裕兄、寝てんのか?…起きろよ!?春休みは何時、泊まりに行けばいいんだ…?何が食いたい?…裕兄、酢豚また作ってやるよ…、裕兄?裕兄!」

…裕一の体から、その鼓動は響いてこない。裕一の体温は、全く感じられない。

 目の前の現実に、利知未の意識が徐々に追い付いて行く…。

「……約束、破るのかよ?…裕兄らしくないよ?なぁ、裕兄…?裕兄…、裕兄……!」

遺体を揺さ振り、泣き崩れた利知未の後ろで、優はじっと動かない。

「済みません…。僕が、雪崩に反応するのが遅くて、それで裕一が……。」

所々に包帯を巻かれ、車椅子に座った裕一の登山パートナーが、泣きながら謝っていた。

「…腕と、足は…?見つけられなかったんですか…?」

漸う声を絞り出し、優が聞いた。登山で雪崩た雪の下になり、これだけの身体が揃っている事は、ある意味、奇跡的な事だった。裕一の遺体は継ぎ接ぎされている。

「探しました…。でも、見つけられなかった…。裕一は、自分からザイルを切ったんです…。それでなかったら、僕も巻込まれてた……。」

辛そうに、その状況を説明するパートナーに、怒りを感じる事は出来なかった。…この人を恨んでも、仕方ない…。相手は、冬山だ。

 利知未には、言葉が浮かばない。ただ、裕一の冷たくなったその身体に、必至で取りすがって泣き続けた…。


『何時になったら、女らしくなってくれるんだ?』

『お前が、どれくらい料理、出来るようになったか楽しみだ。今夜は何を作ってくれるんだ?』

『…ご免な、気付いてやれなくて…。』

『気味悪いって事、ないだろう?…そろそろ許してやったらどうだ?』

『分ったよ。…けど、余りにも女らしい反応で、俺も驚いた。』

『新年早々、神様の前で喧嘩するな!』

『大丈夫だよ。こう言うのは、結び目を反対にして木に結ぶんだ。それが、厄落としになる……。』

 色んな裕一の言葉と表情が、脳裏に浮かんでは消え、浮かんではまた、消えていく…。


 優は、利知未の様子を見ながら、泣きたくなるのを堪えている。

『…兄貴がいたから、オレ達は何時も笑っていられた。…なんで、兄貴がこんな事に…。』

悲しい、それ以上に、口惜しい…。

『俺の賞状と盾、眺めながら祝ってくれるんじゃ無かったのか?兄貴。』

今まで、自分達を必至に守ってくれていた。

 自分の歳が、裕一の歳を追い掛けて行く度に、優は裕一の事を尊敬し、感謝してきた。

 兄貴が俺と同じ歳の時は、確か…。そう思い出しながら、その時々の自分と比べ見てきた。そして、何時も思った。

『兄貴には、敵わない…』

優に取っても裕一は、誰よりも頼り甲斐のある父親のような存在だった。それと同じに、何時か兄貴の助けになりたいとも、思いつづけてきた。

『ずるいじゃネーか。…オレに、恩返しする時間もくれないで、逝っちまう何て…。』

思い出はいくらでも浮かんでくる…。目の前で泣き続ける利知未に、何も言葉をかけてやれない自分が、辛い気持ちを益々、煽る…。

「…暫く、妹を頼みます…。」

小さく呟いて、優は遺体の引き取り手続きをしに、霊安所を出て行った。


 親戚に連絡をするのは、優の役目になった。母親にも連絡を入れ、急いで仕事を片付け葬式までには日本に戻ると言われ、優は苛立ちを覚えた。

 利知未は、何もする事が出来なかった。ただボーっと、裕一の遺体の傍に座り続けていた。


 手続きを済ませて、霊安所へ戻った優にそっと肩を持たれ、利知未は漸く微かに顔を上げた。

「…これ、本当なのか……?…夢じゃ、ないよな……。」

呟く利知未の言葉を聞き、優の目から、堪えていた涙が零れた…。

「…夢じゃ、無いんだ……。利知未…。兄貴は……。」

優の声が震えている事に気付き、利知未の目からも再び涙が溢れ出した。

「……兄貴、連れて帰るぞ…。」

利知未が小さく、頷いた。



 裕一の遺体を、アパートへ運んで貰った。

 通夜の準備と葬式の準備をしに、葬祭屋が現れた。ほんの三ヶ月ほど世話になった親戚の伯父が、連絡をしてくれた。

 実母が葬式当日しか現れないという事態に、葬儀屋はやや戸惑った。喪主は優が勤める事になった。

 父親が慌てて飛んで来た。十年ぶりくらいの再会になった。

 母が到着するまでは居てくれると言った。優も利知未も、父親の事は余り恨みに思っていない。怒りは母親に向いているくらいだった。

 その代わり、父親として意識する事も出来ないでいた。気の優しい遠い親戚の小父さん、そんな認識しかない。二人にとっての父親代わりは裕一だったのだ。利知未が四歳、優が八歳の頃から…。その頃、裕一はまだ僅か十二歳の少年だ。必死になって、二人の事を守ろうと生きてきた。


 利知未と優は、葬式が終わるまでこちらに居る事になる。その夜は仮眠さえも取らずに一晩中、裕一の傍らに座っていた。

 父親が、自分のショック以上のショックを受けている二人の子供を心配して、色々と気遣ってくれた。それだけは有り難かった。


 葬式は狭いアパートでは無理がある。翌日、祭儀場へと移動した。

 母親が現れたのは、その式場だった。一応、手続き等は全てやって行ったが、利知未は事務的なその態度に、心の底から苛立った。

 優も苛立ちを隠し切れずにいた。だが喪主として、必至に堪えていた。利知未はその姿を見て、自分も一生懸命堪えていた。

『何処でも構わず喧嘩を始めるな。』

呆れて嗜めていた、裕一の言葉を思い出した。


 骨は、瀬川家の先祖が奉られている墓に収められる。祖父母は利知未が生まれる前に亡くなっていた。優も余り記憶が無いような頃だ。母は再婚をする気も無い様だった。

 葬式の出席者は、少ない親戚よりも大学の友人の方が多い位だった。裕一はその人柄で、大学でも多くの友人に慕われていた。登山サークルの仲間も勿論、出席した。


 低く読経が響く中、参列者が代わる代わる焼香に立ち、手を合わせる。利知未は優の横で、涙を堪え続けていた。これまで喧嘩ばかりしてきたが、今この時、唯一、同じ思いを分かり合えるのは、優だけだった。


 三人だけの約束が、いっぱいあった。家族で明るく楽しい時間を過ごせたのは、兄妹三人でいた時だけだった。


 葬式の後、どうしても一足先に戻らなければならなかった優の変わりに、裕一のアパートの後処理を一人で片付けた。半分は優と二人で終わらせていた。


 主のいなくなった部屋で一人、利知未は静かに泣き続けた…。




            七


 その週FOXのメンバーは、利知未の兄の訃報を聞き、今週はセガワなしのステージになる事を覚悟し、急遽四人での練習時間を増やしていた。

 葬式後の木曜。利知未は亡くなった裕一のアパートから、練習スタジオに向かった。

「セガワ…。平気なのか…?」

暗い表情でスタジオに現れた利知未に、リーダーが気遣わしげに言った。

「…歌いに来た…。」

呟くような利知未の言葉に、敬太が声をかける。

「…歌ったら、少しは楽になれそうなのか?」

利知未は黙って頷いた。それに頷き返して、敬太が声をかけた。

「…リーダー、練習、始めよう?」

「…ああ、そうだな。」

 利知未は手ぶらで現れた。裕一のアパートからの直行だ。アパートに少しだけ置いてあった服で、優のお古のトレーナーを、ぶかぶかな感じで着ていた。それが益々、体形の華奢な部分を引き立てていた。

 利知未のパートのギターを、リーダーが変わりに弾いてくれた。

 その歌声は切なく、メンバーの心に、何かがぐさりと突き刺さった感じがした。…全員の身体中に戦慄が走った。

 利知未は歌いながら泣いていた。涙を流していたのではない。心の中に、悲しみが溢れていた…。

 声を出す事で、その思いを相殺しようとしていた。悲しみが多いほど、声に迫力が増す…。


 一曲、歌い終わった時、バックの音がなくなっていた事に気付いた。

 ドラムだけは、最後までリズムを刻んでくれていた。

「…スゲー…。」

拓が呆然と呟いた。

「…セガワ、…そんなに……。」

アキが泣いていた。リーダーは、じっと利知未を見つめていた。

「…次、なに歌う…?」

敬太が優しく聞いてくれた。溜まってきた涙が、敬太の声を聞いて、一筋だけ頬に流れた…。

 利知未は、その涙を袖口で拭い、悲しさを抑えた微笑を敬太に向けた。

「…あれ、やってくれよ…?」

初めてライブで歌った曲の事だ。敬太が頷いて、リズムを取った。

 歌い出して、途中からメンバーが曲を奏で始めた。

 利知未は今、歌が在る事に感謝していた。



 葬式の後、火曜までは優が一緒に居てくれた。裕一の遺品整理の為だ。

「後、本当に一人で、大丈夫なのか?」

寮に戻らなければならなかった優が、気遣わしい声をかけてくれた。

「…元々、裕兄の荷物少なかったし。…医学書と大学の本、俺が持って行っても良いか…?」

利知未の問いかけに優が頷いた。

「好きにして良いぜ。オレは登山道具、持ってくかな…。」

優が自分で山登りを始める気はない。幾つか小さな物だけ寮に持って行き、後は大学の仲間が形見分けに貰って行った。それでも残った物は、中古品として売ってしまう。

 洋服は利知未も少し貰い、後は大半、優が自分で着るからと言って引き取った。食器や家財道具はリサイクルショップ行きだ。

 そこで出来た金と、裕一が貯めて来た金を合わせて、様々な支払いを終わらせる事になる。それでも残った分は大した額ではなかったが、優の大学入学準備に回す事にした。

 片付けの途中、医学書を手に取って、見つめながら利知未が言った。

「…俺さ、進路、決めたよ…。」

「どうするんだ?」

「…医者になる。」

「…そうか…。お前なら、なれるかも知れネーな…。」

微かに笑顔を作って、優が頷いた。裕一の夢を引き継ごうと決心した妹を、優は裕一の分まで、応援してやろうと決めた。


 それから一人になった部屋で、昨夜は一晩中泣いていた。

 死んでしまいたい様な気分にも襲われたが、裕一の夢を引き継ごうと決心した事で、生きる意味だけは見失わずにいれた。

 それでも、どうしようもない悲しみに捕われて、利知未は今日、練習スタジオに現れたのだった。



 練習が終わり、利知未は今夜もう一晩だけ、裕一のアパートに戻ると言った。

 敬太が、拓の知り合いに安く譲ってもらったワゴンで、アパートの近くまで送ってくれた。

「明日のライブは、行くよ…。」

車を降りる時、利知未が言った。

「そうか。…じゃ、待ってる。」

敬太は優しい笑顔で言ってくれた。その笑顔を見て、利知未は葬式の後から始めて、少しだけ心が安らいだ。

「…サンキュー、送ってくれて。…じゃ、お休み。」

「お休み。」

そして利知未を降ろすと、敬太は向きを変えて、車を出発させた。


 翌日、利知未は遺品の最終的な処理と、様々な支払いを終え、昼頃に下宿に戻った。

 戻った利知未を、里沙が少し心配そうな笑顔で迎えてくれた。

「お帰りなさい。荷物、届いてるわよ。利知未の部屋へ運んでおいたわ。」

「ただいま…。サンキュー、里沙。」

無理に小さな笑顔を作って、利知未が言った。その表情に、里沙は大人びた利知未の姿を見た。

「今日は早めに、ご飯用意するから。食べて行きなさいね。」

利知未が恐らく、バンド活動に向かうであろうと推察していた。

「…なんにも、聞かないんだな。」

「聞いても、仕方ないでしょう?利知未が話したい事があれば、いくらでも耳を傾けるわよ?…お風呂、入ってるから。」

里沙の言葉に、利知未は感謝した。

「ありがとう。着替えてくる。」

階段を上がり、服を着替えてから、バスルームに向かった。



 十七時頃、里沙が用意してくれた夕食を食べてから、ライブハウスに向かった。メンバーは待っていてくれた。

 その日、セガワの歌声は、客席のファンを今まで以上に魅了した…。


 ステージを降りたセガワを、何時もよりも多くのファンが取り巻いた。目に涙を溜めている少女までいた。初めてFOXのライブを見に来たと言っていた。

 利知未はセガワとして少年らしく振舞っていたが、今までよりも更に大人びたその雰囲気に、何かを感じたファンも多かった様だ。


 店を出て、何時も通りタバコに火を着けた。そして、そのまま歩き出した。何時もは一本吸い終わってから移動をしていた。

「セガワ!!」

駆け足で由美が追い掛けてきた。利知未は振り向いた。

「今日は急いでるの?」

「…いや。そうじゃないけど…。」

再び歩き出す。由美は何時も通りに腕を絡ませてきた。利知未は何も反応しない。その雰囲気の差に、由美は何かを感じた。…腕を放した。

 立ち止まってしまう。利知未は、そのまま歩いて行く。

「ね、セガワ。…なんかあった…?」

「…別に。」

由美の声に軽く首を振って答えた。振り向いてはくれない。

 追い掛けて、思いつく限りの面白い話しをした。偶に見せてくれた笑顔が見たかった。それでもセガワは笑ってくれない。

「…ね、今日も寄って行こうよ?」

駅前に着き、何時ものファーストフード店を指差す。

「…今日は、帰るよ。…じゃ。」

暗い瞳のままで首を振り、そのまま改札に入ってしまった。

「…セガワ…。」

小さく由美が、呟いた。


 利知未は翌週から、やっと学校へ行き始めた。

 久し振りに現れた利知未に、クラスメート達は気遣わしげな視線を向けた。この一週間、利知未がなぜ休んでいたのかは、みんな知っていた。

 貴子や高坂は、利知未に変わらずに接してくれた。ただ、その反応は、今までの利知未からは想像も着かない程の暗さだった。

 歌っている時だけは気分が変わった。それ以外の時には、どうしても明るい気持ちになれなかった。

 バンドの練習とライブは、休まずに続けていた。

 帰りは敬太が、毎回送ってくれていた。練習中も気に掛けてくれた。


 利知未は、段々と落着く事が出来てきた。

 始めに気持ちが解れたのは、敬太に言われた言葉が切っ掛けだった。

 三月二度目のステージに立つ前、練習後、利知未を送る車の中だった。

「…無理しないで…。ここならオレ以外はいないから、誰にも気付かれない。…泣いたって、構わないよ。」

 葬式の後、利知未は決して涙を人に見せなかった。特にセガワとして行動していた時は、無理矢理、悲しさを消していた。歌にだけ乗せていた。そして今まで以上に、男らしく振るまっていた。

 敬太の言葉で涙が溢れてきたが、零れ落ちない様に堪えていた。

「セガワじゃなく、利知未に戻って…。」

そう言った敬太の目は優しく、自分を見守り続けてくれた、裕一の目を思い出した。…熱い物が、胸の奥から沸いて来た。

 その時ついに、利知未の目から涙が溢れ出した…。

 両手で顔を覆い、小さく肩を震わせた。敬太は車を路肩に止め、その肩をそっと抱いてくれた…。


 翌日のライブで、利知未の歌声に迫力と、深みが加わった。

 まだ十四歳の少女だ。深みと言っても、それ程深い物とは違う。それでも前日の練習の時よりも、また何か一つ、その歌声に足されていた。

 メンバーは勿論それに気付く。そしてファンにも何か伝わる。

 由美はしかし、その歌声に、セガワの何か深い苦悩のような物を汲み取っていた…。心配になった。けれど先週の彼の様子を思い出すと、ライブ後、セガワに付きまとう事は出来ないと感じた。

 それでFOXのステージが終わると、早々に店を出て行った。そして、自分の気持ちがどうしてもセガワに届かないと思った時…。

 益々、自暴自棄な気分に捕われて、…また客を取り始めてしまった。

 由美は、危険な深みに嵌まって行った……。



 直ぐに卒業式が来た。その頃の利知未を、橋田と田崎も心配していた。

 去年と同じ様に式は流れて行く。恒例のエール交換が行われ、応援団部員の勇ましく猛々しい声に、利知未の心が揺れた。

『…去年は、櫛田センパイと都筑センパイが卒業して行った…。今年は、橋田センパイと田崎センパイがいなくなる…。…FOXに出会えたのは、センパイ達のお蔭だった。…俺にギターと歌と、バイクを教えてくれた…。…ちゃんと、送り出さないと…。』


 謝恩会まで終わらせた橋田達が、団部の祝賀会に集まった。

「三年間、ご苦労様でした!」

今年は高坂が号令をかけた。それ一つを取っても、この約二年間の時が思い出される。利知未も一緒に声を出した。

「ご苦労様でした!!」

涙が浮かんできたが、零れはしなかった。ただ胸の奥には熱い物が渦巻いている。団部の仲間との、色々な事が思い出された。


 学校に来るのが苦痛でなくなったのは、この場所のお蔭だった。

 始めの一年は櫛田がいた。何時も、素の利知未を受け止めてくれた。

 次の一年は、橋田と田崎がいた。高坂と大野は、利知未の事を二人と一緒に守ってくれた。…今は、三年の佐伯達が狙っていた事も、何となく気付いていた。危ない一年だった。無事に過ごせたのは四人のお蔭だ。


 利知未は、田崎のギターを借りて歌を歌った。

 セガワとしてではなく、利知未としての歌声だった。始めてマトモな利知未の歌を聴いた橋田が感心した。

 田崎や高坂達は、暫くぶりに聞いた歌声に、何かを感じた。

 田崎にギターを返して、利知未は久し振りに笑顔を見せた。

「センパイ、色々サンキュー。」

その笑顔に、田崎も橋田も、やっと少し安心できた。


 祝賀会の途中、利知未は一人抜け出して、去年、櫛田と最後に話した、校庭の見える階段に行った。

 一人でボーっと校庭を眺めながら、櫛田の言葉を思い出した。

『…イイ女になれよ。』

 櫛田は、中学生活最後の言葉として、利知未にそう言った。


 初めて自分の手料理を、家族以外の男に振舞ったのは、櫛田に持って行った親子丼だった。

 十一月に櫛田からリクエストされて作ったのも、思い出の料理だ。

 ふと、利知未は初めて気が付いた。櫛田が、自分に対して感じていた想いは…。そして、気付かない内に、自分が櫛田に感じていた気持ちは。


『…恋愛感情って、良く分からないけど……。』

…今、敬太に感じ始めている気持ちは…。


 何となく、くすぐったい様な気持ちがして、利知未は自分の膝を抱いた。頭を膝の上に置くようにして、目を閉じた。

「…瀬川。」

後ろから声をかけられて、ゆっくりと頭を上げて振り向いた。

「橋田センパイ…。どうしたンだ、まだ宴会してンだろ?団長が抜けたら白けちまうぜ?」

利知未は軽く笑顔を作った。橋田が近付きながら言う。

「…チョイ、良いか?」

「構わネーけど…。」

橋田は去年、櫛田が座っていた所に腰を下ろした。暫く沈黙が流れた。

「…歌、良かったぜ。」

少し躊躇った後、橋田が言った。利知未はまた、微かな笑顔を作る。

「…サンキュー。」

そして、また暫し戸惑ってから、橋田がポツリと言った。

「…まぁ、聞き流してくれて、構わネーンだが…。」

「なんだよ?」

膝を抱えたまま、利知未が聞いた。

「…その、な。…結構、お前の事、好きだったぜ。」

「……。」

突然、告白された。橋田は顔を上げ夜空を仰いだ。照れた笑顔を作る。

「アーぁ、櫛田さんに知れたら、シバかれんな…!」

さっと立ち、キョトンとしている利知未を見下ろして、笑顔で言った。

「ソーゆー事だ。…じゃーな。先、戻るわ。」

橋田の足音が後ろに微かになった頃、利知未は小さく呟いた。

「…サンキュ、センパイ…。」

 利知未は初めて少女らしい感覚で、人を好きになると言う事が、どんな事か…、その事に、気が付いた。



 卒業式は、三月十九日の事だった。

 それからも利知未は、セガワとしてステージに立ち続けた。

 裕一の死後、落ち込んでいた気持ちを回復するには、もう暫く掛かった。その思いを引き摺ったまま、歌声は益々、冴えていった。セガワファンは1ステージ毎、増え続けていった。

 気付いたばかりの恋愛感情は、歌声に益々、艶を足していた。

 利知未の中で、敬太の存在は、徐々に大きくなっていた。


 由美はセガワの歌声を聞いて、彼がまだ、何か悩みを抱えている事を感じていた。

 自分がその助けには成れそうもないと感じるたび、益々、自暴自棄な心に捕われ、ライブの日にも客をとる様になった。

 ただ、FOXのステージだけは見つづけていた。客と会うのはライブ後にしていた。

 …由美は益々、危険の縁に、誘い込まれていく。


 由美がセガワを、帰宅時まで追いかけなくなった、その頃。敬太はセガワの、隠し続けている少女らしい姿を、少しずつ見つけていた。

 セガワが利知未に戻る瞬間を、徐々に愛し始めていた。

 けれど、まだ、お互いの気持ちを伝え合う事は、出来なかった。


 利知未の心が、裕一の死からもう少し立ち直れるまでは、自分の思いを伝える事に踏み込めないでいる。


 敬太の存在が大きくなるにつけ、利知未は敢えて、セガワの時の少年らしさに磨きを掛けて行く…。


 気を張っていないと、気持ちがグズグズになってしまいそうだった。

 春休みも、毎週ライブと練習は続く。

 利知未はバンド活動をしている時、セガワに成り切ろうとする気持ちの張りで、少しは悲しみが誤魔化せている事に気付く。



 そうして、徐々に心が回復して行った、三月下旬から、四月。

 時は流れ、利知未達も、進級・進学の時期を迎えて行った。





   幸せの種 第四章 了 (次回は、9月21日22時頃 更新予定です。)





今回も、最後までのお付き合いをありがとうございます。<(__)>

このお話を、現役中学生の方が読んで下さっていると聞きまして、この場をお借りいたしまして、お願いです。どうぞ利知未達ヤンチャ者の行動パターンに、感化されませんように。

あなたたちを大切に思っているご両親に、心配をかけないでくれる事を、作者として心よりお願い致します。そして、利知未と歳の近い皆様、どうぞ利知未を自分の友達と思って、応援してあげて下さい。

大人の読者の皆様。次回より利知未は中学三年生です。また、大きな出来事が待ってます。只今、編集中です。後二回、最後までお付き合いいただけましたら、心から嬉しく思います。

また来週、皆様とお会いできますように。

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