黄金林檎は恋の味⑤
カララン
ドアベルが鳴る。
開店したての“コレットの菓子工房”にやってきたのは、隣の青果店のおかみ、メリルだ。カウンターの中には、仏頂面をしたヴィルフレッドが立っている。
「おや、またあんたが店番なのかい? コレットちゃんは?」
「あー……。なんかねぇ。うん、あんたのほうが話しやすいのかな。上にいるから、よかったら話聞いてやってくんない?」
ヴィルフレッドに言われて、メリルは居住区となっている二階へと上がった。
「コレットちゃん? あたしだよ。開けていいかい?」
扉を叩いて、メリルが問いかける。しばらく待つが返事がなかったため、仕方なくそのままそぉっと扉を開けた。
「コレットちゃん?」
入った先には、居間のテーブルにつっぷして震える細い背中があった。メリルの呼びかけに、わずかに顔を上げた目には涙。
「……メリルさん」
「ど、どうしたんだい、そんなに泣いて」
「メリルさん……。メリルさん……。ふ、っく……、ううううう……」
メリルの胸にすがって、コレットが泣く。そんなコレットの背中を、メリルはよしよしと撫でながら優しい声音で尋ねた。
「店のことで何かあったのかい? 変な客でもいた?
それとも兄ちゃんと喧嘩でもしたのかい?」
メリルは思いつくことを順に並べるが、コレットはそのどれもに首を振った。
「じゃぁ、この間の礼拝堂の事件で嫌な思いをしたのかい?」
ぴくり
コレットの肩が震えた。
「ん? 何があったんだい。もしかして、暴漢に人に言えないようなことをされたとか」
メリルの声に緊張が走る。それならば、男であるヴィルフレッドには言えず、一人悩んで泣いていたのもわかる。けれどそれにもコレットは首を横に振って、違うと答えた。
「そっか。じゃぁ、最近姿を見ていないけど……クラウス様と何かあったとか?」
びくっ
今度は激しくコレットが動揺した。
「クラウス様か。そうなんだね、コレットちゃん」
メリルが確認する。コレットは首を振らない代わりに、うなずきもしなかった。
「違うんです……。私が……余計なことをして……クラウス様が誤解を……。
私、私が悪いの……」
「いつも一生懸命なコレットちゃんに、悪いことなんてあるものかい。
何かあるとしたら、あの朴念仁のせいさ。どれ、このメリルに何があったのか話してごらん」
「メリルさん……」
メリルに促されて、コレットは諸々のことをぽつぽつと話し出す。
孤児院のビアンカと仲良くなったこと、彼女が守門のフェッロを好きであろうこと、彼女のイメージで菓子を作ろうと思ったこと、それをフェッロに食べてもらおうと思ったこと……。
「そうしたら、あの事件があって……クラウス様が助けに来てくださって……でも……」
フェッロの見舞いに行けと言われた。
孤児院への菓子の差し入れも、もう一緒に行かないと。
きっと、クラウスはコレットがフェッロのことを好きだと思ったのだ。
「違うのに……。私……、なんて、馬鹿……」
ビアンカの想いに自分の想いを重ねて、彼女がうまくいけば自分も何かが変わるかもしれないと思った。自分から言う勇気もないくせに、他人のことに頭をつっこんで、告白する前に何とも思われていないことがわかってしまった。
「何ともって、どうしてだい。クラウス様は、コレットちゃんのことを好きだと思うよ?」
「ふふ、そんな、なぐさめてくださらなくていいです……。
気が利かなくてすまない、なんて言われて……。お見舞に行けるように、ヴィルに口添えしてくれるなんておっしゃって……。クラウス様は私のことなんて、何とも思ってらっしゃいません。ただ、責任感で付き合ってくれてただけなんです。
口づけくらいで期待して、もしかして、なんてちょっとうぬぼれて、私馬鹿です」
「「口づけ!?」」
コレットの言葉に驚くメリルの声に、いつの間に来ていたのか、ヴィルフレッドの声が重なった。
「おおお、おい、コレット、それは本当か! あいつめ、奥手だと思って油断してたら、なんてこと!」
「え、ヴィ、ヴィル!?
何、聞いて……。お店は?」
「今、客いないから。って、それどころじゃない。
クラウスめ、俺の妹を傷ものにしてこんなに泣かせといて、素知らぬ顔とはどういうことだ!
許せねぇ!」
ヴィルフレッドはそう叫ぶと、料理人服を脱ぎ捨てて飛び出していった。
「待って! 待って、ヴィル! 違うの! 口づけは髪に……ああ!」
どたどたと勢いよく階段を駆け下りる音に続いて、階下でガラランと激しくドアベルが鳴る音が響いた。コレットの弁明を聞くこともなく、ヴィルフレッドはクラウスの元に行ってしまったようだ。
「やだ、どうしよう……。何とも思われていないどころか、これじゃ私嫌われちゃう……!」
あの勢いでは、ヴィルフレッドはクラウスに会ったとたん、くってかかるだろう。
それが、コレットがうっかり口を滑らせたせいだと知ったら、クラウスは呆れるはずだ。しかも、なんでもないあいさつを過剰に意識していたことを知られては、恥ずかしくて二度と顔を合わせられない。
「なんだ、口づけって、髪にかい。
あいさつでねぇ……。あの方がそんなことをするかね」
どうしようどうしようと蒼白になるコレットの背中を撫でてから、メリルは腰に手を当てて溜息をついた。
サン・クール寺院の礼拝堂人質事件が解決したばかりのティル・ナ・ノーグ天馬騎士団の宿舎では、犯人を目の前にして遠巻きに見ているしかなかった反省を踏まえて、連日様々な場面を想定した訓練が行われていた。
クラウス率いる十八分隊でも、基礎体力からみっちり練り直されている。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ。
ま、まだやるのか……。そりゃ、なんとかって守門がいなけりゃ、地下通路の先で逃げられててもおかしくなかったっていっても、毎日毎日厳し過ぎないか……」
「そうっすよね……。僕、研修期間、もうすぐ終わりなんすけど、もうどこいってもこれ以上辛いことはない気がしてきたっすよ……」
朝から走り込みや筋トレを繰り返している分隊員たちは、顎から汗をしたたらせながら愚痴っていた。それを聞きとがめたクラウスから新たな指示が飛ぶ。
「そこ! 何をしゃべっている! 腹筋三十、追加!」
「「ひいぃ」」
命令を受けた分隊員は、その場で腹筋をはじめる。おかしいと思っても上官命令は絶対であり、指示を出しているクラウスもほぼ同じ内容の訓練を一緒にしているので、文句は言えない。
「二十九、三十! 終わりました!」
「よし! 次、型はじめ!」
訓練用の刃を潰した剣が配られ、攻守の基本である型取りがはじまる。辛い訓練は、まだまだ終わりそうになかった。
「分隊長」
分隊員たちがうんざりしながら剣を手にしていると、書類片手に涼しい顔をしたエメリッヒがやってきて、クラウスを呼び止めた。
「お客さんです」
「客?」
「ここは俺が引き継ぎますから、どうぞ。すごい剣幕なんで、早く行った方がいいですよ」
客とは誰だと問うクラウスにエメリッヒは答えず、にこにこと食えない笑顔を浮かべたままクラウスの背中を押して宿舎の方へ押しやった。
「あれ? 補佐官、クラウス分隊長はどうしたんすか?」
分隊員たちに剣を配り終えたマリーニが、クラウスの立っていた場所に代わりに立つエメリッヒに気付いて問いかける。
「んん? ふふ、ちょっとな。おもしろいことになってる。おまえらも訓練が終わったら教えてやるから、残りの項目、早く終わらせようぜ」
にやっと笑ったエメリッヒは、書類を置いて自らも模擬刀を手にすると、ひゅんっと風を切ってマリーニの正面で構えた。
「おまえもそろそろ研修期間終了だな。次に会うときは一人前の騎士だろうから、一足先に俺が試験をしてやろう」
「えっ、補佐官がっすか?」
マリーニが、素っ頓狂な声を上げる。きっちり構えたエメリッヒとは対照的に、意外そうな表情を隠そうともせずに、模擬刀をぶらりと下げて突っ立ったままだ。
「あの……大丈夫っすか? 僕、十八分隊に来て、結構使えるようになってきたんすけど」
エメリッヒは、クラウスの補佐官として、剣を振るうより書類整理や各部隊との連絡調整に走り回っていることが多かったため、彼が剣を握る姿などほとんど見たことのなかったマリーニが言う。
「ぷっ。おまえ、誰に向かって言ってんの?
まぁ、無理もないか。なかなか手合せする機会もなかったからな。これが最初で最後かもしれない。しっかり体で覚えさせてやるさ」
いつまでも棒立ちのままのマリーニの剣を、エメリッヒが自分の剣先ではじく。
はっと我に返ったマリーニは、エメリッヒに合わせて慌てて基本の構えをとった。
「お、なんだ、なんだ」
「補佐官直々にご指南だとよ」
「おお、見習い、がんばれー!」
突如始まった補佐官と見習いの模擬試合に、分隊員たちが集まり始める。やんややんやと飛ぶ野次に、「まったくこの人たちは、こういう騒ぎが好きなんだから……」とあきれつつも、まんざらでもないマリーニなのであった。
客、と言われて行った先には、ヴィルフレッドがいた。
さして長い時間待たせたとは思えなかったが、ヴィルフレッドはクラウスの自室の前で、腕組みをしていらいらと踵を鳴らしていた。
「どうした」
「クラウス! どうしたもこうしたもない! てめぇ、妹を泣かせやがって……!」
ヴィルフレッドはクラウスの顔を見たとたん、胸ぐらをつかんでくってかかってきた。けれど、ヴィルフレッドより頭二つ分はゆうに高く、体格も大きく勝るクラウスは微動だにしない。ただ、わずかに眉をひそめただけだ。
「コレットが泣いて? なぜ?」
「“なぜ”じゃねぇ! おまえ、コレットにキスしたってほんとか!
ちゃっかり手出しといて放っとくとはどういうことだ! やることやってんならきっちり責任とりやがれ!」
「!?
ちょっと待て。何の話……、あ、いや、とにかく中に入れ」
皆訓練や任務のため出払っていて人気はないが、誰が聞いているともかぎらない。クラウスは興奮して声を押さえることもしないヴィルフレッドを振りほどき、引きずるようにして自室に押し込んだ。
「で、コレットがどうした」
「……泣いてる。あれからずっと」
「泣いてる?」
ヴィルフレッドを寝台に座らせ、自分はその向かい側に椅子を引き寄せて腰かけたクラウスは、膝に肘をついて身を乗り出すようにし、指を組む。
「そうだ。礼拝堂の事件からずっと塞ぎこんでて、気が付くと涙を流してる。
理由を聞いても俺には教えてくれなくて、今日隣のメリルが来たから聞いてもらったら、おまえに振られたからだとさ」
「…………。
俺では、ない。フェッロという守門とのことだろう」
コレットが想いを寄せる相手はフェッロだったはずだ。見舞いに行く話をしていたから、そのときにでも想いを告げて叶わなかったのだろうか。奴のための菓子まで作っていたのに、可哀想に。あの男はコレットの何が不満だというのだ。
クラウスはコレットの気持ちを思って憤慨しつつも、彼女にまだ決まった相手ができなかったことにほっとした。否、ほっとしたというよりも、彼女が振られたと聞いて暗い喜びさえ覚え、騎士としてあるまじき感情に眉をしかめた。
「まぁ、時が経てばそのうち元気に」
「違ぇよ」
お決まりの文句を言おうとしたクラウスを、ヴィルフレッドは否定する。
「コレットが好きなのはおまえだ。あんなにわかりやすいのに、なぜ気付かない?
それとも、気付いてて弄んでるのか? だからキスしたのか?」
「…………ぬ」
ヴィルフレッドに言われて、クラウスは低くうなる。
コレットが好きな相手が自分? まさか。それにキスとは何の話だ。いや、もしかして……。
思い至ったのは、あの夜のこと。コレットの髪に触れ、その柔らかさに思わず口づけた。翌日会ったときに話題にしようとしたがうやむやになってしまい、それきりだったのだが。
「覚えがあるんだな。おい、どういうつもりだよ。おまえはコレットのこと好きなのか?
最初はそうかと思ったんだけど、なんか違うような気もするしさ。おまえってわかんねぇんだよ。この際だから、はっきりしろ!」
ヴィルフレッドは立ち上がり、クラウスの肩をつかんで強く揺さぶる。
「おい!」
「……」
「黙るんじゃねぇ! おい、クラウス!」
「……」
「おい!」
ヴィルフレッドが何度もがくがくと揺すっていると、それまでされるがままだったクラウスが、ようやく口を開いた。
「…………。釣り合わんだろう」
「は?」
「俺と彼女とでは釣り合わない」
「何、おまえ、お偉い騎士様とうちの妹じゃ身分違いだってか? 馬鹿にするんじゃねぇよ」
「違う」
「何が違うんだよ」
「俺がだ。俺が、彼女に似合わない」
「……はぁ?」
予想外の答えに、ヴィルフレッドはクラウスを揺する手を止める。するとクラウスは、歳がどうだとか性格がどうだとか背の高さがどうだとかを、ぼそぼそと語り始めた。
「んで、何よ。おまえはだからやめたって言うわけ?」
コレットを異性として想うことをやめ、友人であろうとした、と?
「おまえ……阿呆だろ。何、勝手に決めつけてあきらめてんだよ!
コレットのため? 違うね。自分が傷つきたくないだけだろ。
男なら、当たって砕けてみろよ! 釣り合うだとか似合う似合わないだとか、そういうことで好きになったり嫌いになったりするもんじゃねぇだろうっ」
はぁっ、はぁっ、はぁっ
がなるように一気にまくしたてたヴィルフレッドは、肩で息をしてどさっと椅子に座り込んだ。
「……そんでさ、おまえを選ぶかどうかはコレットが決めることじゃんか。
その選択肢をさ、はじめっからなくさないでくれよ。あいつ、ほんとずっと泣いてんだから。おまえに誤解されたって言って、自分なんか範疇にないんだって言って」
「コレットが……」
ヴィルフレッドの話を、クラウスは信じられない思いで聞く。騙されたりからかわれたりしているというほうが、すんなり納得できる。
「んなことねぇって。わざわざ俺が妹に男くっつけるようなことすると思う?
小っさいころから、『ヴィル、ヴィル』っつって俺のあとくっついてきてた可愛い妹に男!? 冗談じゃねぇよ。だけどさ、泣いてんだもん、しょうがねぇじゃん。
妹に恋人ができるなんて嫌だけど、あいつが泣いてるほうがもっと嫌だからな」
「……俺で、いいのか」
「知らん。それはコレットに聞いてくれ」
「聞いて、彼女がうなずいたら、おまえはいいのか?」
「うっ、ぐっ、ぐぐ……。
し、仕方ないさ。ま、まぁ、おまえでよかったんじゃないか? 騎士としても戦士としても、あんたはなかなかだからな。
でも、そうだ、一つ条件がある」
「条件?」
「離れて暮らしていても、大事な妹には違いないからな。ただでくれてやるわけにはいかない。かといって、金銭を要求してるわけじゃない。
……これだ」
一体何を言い出すのかと身構えていたクラウスの前にヴィルフレッドが突きだしたのは、見覚えのあるノート。 それは、クラウスが趣味で食べ歩いた、ティル・ナ・ノーグ中の菓子店の菓子の詳細を記したノートだった。
「おまえ、いつの間に……!」
「これ、他にもあるんだろ? このノートと引き換えなら、妹をあんたにやってもいい」
「……っ」
驚くクラウスの前で、ヴィルフレッドはノートをぱらぱらとめくってみせる。
「おまえ、よくこんなに食ったよな。しかも、絵とわかる限りの詳しい材料と感想付き。
これ、ティル・ナ・ノーグの菓子を知りたい菓子職人にとっては、寺院の教典よりも価値があるぜ。
さぁ、残りを全部よこせ。このノートでコレットが手に入るなら、安いもんだろ?」
ヴィルフレッドはクラウスを見上げると、にやりと笑った。クラウスは「うっ」とうめいて鼻白む。
「俺が、断られる可能性だってあるだろう」
「ははっ、そんときゃそんときさ。当たって砕けたときは、酒くらいおごってやる。
コレットももうあきらめて泣いてるのかもしれないから、今さら行っても遅いかもしれないしな。
あ、ただしノートはもう俺のもんだからな。返さねぇぞ」
「おまえ……。まったく、ちゃっかりしているな」
「はっ、でなきゃ一人で菓子修行の旅なんてしてらんねぇって」
笑うヴィルフレッドに、クラウスは机の引き出しからノートを取り出して渡す。十数冊に渡るノートは、最新のもの以外は全てヴィルフレッドの手の中におさまった。
「うわ、こんなにあったのか。今はもうない店のもあるんだな。これだけで本にしてもいいくらいだぜ。
ありがとさん。健闘を祈る」
ノートを抱えて、ヴィルフレッドは手を振る。半ば追い出されるようにして自室を出たクラウスは、それでもためらっていたが、ヴィルフレッドに尻を叩かれて仕方なく歩き出した。
クラウスの姿が完全に消えるのを見送って、ヴィルフレッドはのろのろと腕を降ろす。
「……ったく、俺にここまでさせるなよ」
「ですよねー! いやぁ、お兄さん、いい仕事しましたねっ
今日は飲みましょう!」
「うわっ、なんだ、あんた!」
突然がばっと後ろから肩を組まれたヴィルフレッドは、ぎょっとして飛びのく。
「俺ですよ、俺。ここの補佐官のエメリッヒ。
お兄さんのおかげで、ようやく我らが十八分隊にも春がきそうです。常春の国、ティル・ナ・ノーグにおいて、うちの隊だけこの間から真冬でねぇ。
訓練とか言って毎日しごかれて大変だったんです」
「ほんと、ほんと。お兄さん、ありがとうございます!」
「港の北側にある海竜亭って知ってますか? あそこの海王海老の姿焼きは絶品なんすよ!」
「支払いはこの見習いがしますから、ご心配なく!
補佐官相手に“大丈夫っすか”なんて大口たたいといてボロ負けした阿呆なんで、遠慮なく飲み食いしてください」
「あ、実家は金持ちなんで、ほんと、大丈夫です」
「ちょっ、みなさん、何勝手なこと言って……。うっ、痛たた」
呆気にとられるヴィルフレッドの前で、見覚えのある騎士たちが団子になって一斉に話しかけてきた。その後ろでは、以前助けた見習い騎士が、大きな絆創膏を顔に貼って悶えている。
いつからかは知らないが、どうやら近くの柱の陰で、ヴィルフレッドたちの様子をうかがっていたようだ。
「ええっと……。なんかわかんないけど、おごってくれんの?」
「えぇ。マリーニが」
「海王海老の姿焼きって、そんなにうめぇの?」
「もちろんです! 海竜亭の看板メニューですよ」
「あのさ、甘いものもある?」
「看板娘のアニータさん特製アップルパイがありますよ!
ティル・ナ・ノーグ名産の黄金林檎をたっぷり使ってあって、うまいです!」
「ついでにアニータさんも美人っす」
「あ、マリーニ、何だよ、生意気な」
「いいじゃないっすか、それくらい。はああ、これで酒飲んだら絶対口にしみる……」
「ってことで、どうです? お兄さん」
分隊員たちがひとしきりしゃべったところで、再びまとめたのはエメリッヒだった。
「…………。
そうだな、飲むか! あんたらの分隊長にかわいい妹とられたんだから、きっちりお代をもらっとくとしよう」
「お代はそのノートじゃなかったんですか?」
「それとこれとは別さ。さぁ、行こうぜ!」
「お兄さん、いい性格してますねぇ」
「補佐官さんに言われたくないね」
「ははっ、よく言われます」
軽口をたたきながら、ヴィルフレッドたちは港へと歩き出す。何も言わずとも事情を知っているらしい騎士たちに囲まれて、その日、ヴィルフレッドは夜遅くまで美味い酒と肴に酔いしれた。
ヴィルフレッドが分隊員たちとともに海竜亭の扉を叩くころ、クラウスは“コレットの菓子工房”の入口の前にいた。
ヴィルフレッドに言われてここまできたものの、どうしてもあと一歩が踏み出せない。
(コレットが、俺を? にわかには信じられない。
しかし、泣いているというのなら、理由を聞くくらい……。そうだ、理由を聞きに来たんだ。それでいいじゃないか)
何度目かの自分への言い訳でようやく店の扉に手を掛けたクラウスは、力を入れる前に内側から開いた扉に額をぶつけそうになった。
「あ、す、すみません……!」
店で買い物をしたらしい女性が、クラウスに驚いて立ち止まる。クラウスが扉を押さえて先に出るよう促すと、女性客は恐縮しながら小走りに出て行った。
女性客のどこか怯えたような様子は、クラウスがこの店に足しげく通うようになってからも、たびたび出会ってきた反応だった。自分が決して人に――特に女性に――好かれるような風体をしていないことはわかっている。それが、クラウスが女性に対して自信を持てずにいる原因の一つでもあった。
けれどコレットはそんなことは全く気に留めず、いつでも同じ笑顔を向けてくれたから、クラウスはこの店が、そして彼女が好きだった。
(好き……か。その通りだ。他の誰をごまかせても、自分で自分のことを騙すことはできない)
コレットを想うとき、一番に思い浮かぶのは晴れやかな笑顔だ。菓子作りのために真剣な顔をしたり、孤児院の子どもたち相手に少し困ったような顔をしたりすることもあったが、やはり彼女には笑顔が一番似合う。その彼女が、泣いているという。
『妹に恋人ができるなんて嫌だけど、あいつが泣いてるほうがもっと嫌だからな』
出会ったときからクラウスを牽制してばかりだったヴィルフレッドも、結局コレットの涙に負けて、クラウスの背中を押すことにしたようだった。
クラウスとて、コレットの涙は見たくない。ましてその涙が自分のせいだというのなら、なんとしてでも止めたい。たとえ、それがすでに遅くても。
(当たって砕けたら、酒をおごってくれるんだったか。
砕けなかったらどうするんだ。祝杯をあげる気は……まぁ、ないのだろうな)
別れ際の、ヴィルフレッドの微妙な顔を思い出したクラウスは、口の端を少しあげる。そして深呼吸をしたところで、店内からもう一人クラウスを怖がらずにこまめに声をかけてくれる女性の声がした。
「おや、クラウス様! よく来たね。待ってたんだよ」
「……コレットは」
「二階だよ。店番はあたしがしてるから、ゆっくりしてっておくれ」
メリルは腰に手を当てると、うなずくクラウスにばちんと片目を瞑ってみせた。そういえば彼女も事情を知る人物だった。
「すまない」
メリルの激励を受けて、クラウスは店の奥にある階段を上がって行く。
「来てくれたってことは、やっぱり脈があるんだね。コレットちゃん、よかったね」
メリルがほっと息をついていると、カラランと軽快なドアベルの音と共に、次の客が入ってきた。メリルは二階の様子を気にかけつつ、「いらっしゃい!」と店主に負けない明るい声で、あいさつをした。
ぱしゃぱしゃと、水を使う音がする。
階段を上がりながら再び緊張してきたクラウスは、無意識に気配を殺してしまっていた。洗面所で顔を洗っていたコレットは、クラウスが戸口に立ったことに気付かず、タオルで顔を拭きながら歩いてくる。
「!」
とすっと、コレットがクラウスの胸の下にぶつかった。
「メリルさん? すみません、腫れは引いたのでお店に出られ……。
……!」
コレットの濃褐色の瞳が、驚きに見開かれる。その眼元が痛々しくただれているのに気付いたクラウスは、身をかがめてそっとその頬に触れた。
「クラウス様……どうして……」
ひやりとした頬は、どんな菓子よりもやわらかくしっとりとしていた。初めて触れた頬の感触に、クラウスの喉が干上がる。
「君が……泣いていると聞いて……」
クラウスがなんとかそれだけを言うと、コレットの瞳にまた涙が浮かんだ。
「私が泣いているからって、なんなんですか? もう優しくしないでください……!」
コレットがきつく目を閉じる。眦にたまった雫が、ぽろりとこぼれてクラウスの指を濡らした。
「期待、させないで……!」
ぽろぽろぽろ
コレットの瞳からは、次から次へと涙がこぼれていく。それでも、頬を包むクラウスの手を振り払うことはなかった。
「コレット……。泣くな」
「そっ、そんなの私の勝手です……っ
クラウス様には、うっ、かっ、関係な……っ」
「関係、ないなんていうな。君が泣いているのを見ると……俺が辛い」
「クラウス様……?」
コレットが、顔を上げてクラウスを見つめる。クラウスはコレットの頬を包んでいた手を動かして髪に触れると、そのまま梳き上げるようにして頭を支え、自分の方に引き寄せた。
「――!」
突然クラウスの腕の中に収まったコレットは、両手を胸の前で合せて身を固くする。
「泣くな……」
クラウスの低い声が、体を伝わって直にコレットに響く。頭の中が真っ白になったコレットは、ぎごちなくうなずいて、ただその身を寄せていた。
――どれほどの時間が経っただろうか。
コレットにとって、永遠にも一瞬のようにも感じた幸福な時間は、クラウスの咳払いによって破られた。
「その、コレット」
クラウスの腕が緩む。ぴくっと震えたコレットは、クラウスの隊服をその手で押して体を離し、クラウスを見上げてにっこりと笑った。
「兄に私が泣いていると聞いて、心配して来てくださったのですね。ありがとうございます。
お仕事、お忙しいのにお手を煩わせてすみません。もう大丈夫です」
大丈夫。
そう言うコレットの言葉通り、その目にもう涙はなかった。
「もしかしたら兄が何か変なことを言ったかもしれませんが、私も先日の事件のあと少し不安定で……。
気にしないでくださいね。あ、私、もうお店に行かなくちゃ。いつまでもメリルさんにおまかせしておくわけにはいきませんので」
そう言ってコレットは、クラウスの脇をすり抜けて階下へ行こうとする。その背中を、クラウスは慌てて呼び止めた。
「待て!」
クラウスの静止を受けて、コレットが立ち止まる。止まりはしたが、振り返りもせず一歩階段に踏み出し片手を手すりに添えたままのコレットは、今にも立ち去ってしまいそうだった。
「待って……くれ。
不安定? それで泣いているのか? 俺は、君のために何もできないのか?」
「……」
「コレット。あのとき、最後までそばにいなくてすまなかった。俺は、てっきり君はあの守門の男のことが、その、好きなのだと思ったから」
コレットの背中にクラウスが言葉を重ねると、コレットはどの言葉に反応してか、わずかに首を回して呟いた。
「……ます」
「?」
「違います。フェッロさんを好きなのは、ビアンカさんです」
ビアンカとは、シスター・ビアンカのことか。そうか、彼女が……。
コレットの言を受けて、クラウスは一連のことが見えた気がした。コレットはビアンカとはたいそう親しそうな雰囲気だったから、彼女のために何かしらしようとしていたのかもしれない。
「そうだったのか。俺はてっきり新作の菓子を彼のために作っていると思って……。君が彼を好きなら応援しようと思ったんだ。なぜなら、君は俺の大切な友人で……。友人? いや、友人でもあるのだが、ただの友人ではない。君の菓子に対する熱意は本当に尊敬に値するもので……ってそんなことは今はいいんだ。俺は何を言っている……。くそっ」
「くすっ
クラウス様、無理なさらないでください。ヴィルに私を励ませとでも言われましたか?
大丈夫、もう平気ですから。私はこれからもみなさんに喜んでいただけるようなお菓子を作り続けます」
コレットが、今度ははっきりとクラウスの方へ向き直って言う。頬に浮かぶのは穏やかな微笑み。けれども、クラウスはその笑みに違和感を覚えた。
「やめてくれ。そんな笑い方はするな」
「やだ、クラウス様。ひどいですよ、その言い方。私は普通に笑ってます」
「違う。俺の好きな君の笑みは、そんな作り物めいたものじゃない」
「クラウス様……?」
あくまでも普通だと言うコレットに、クラウスは首を振る。そして一歩階段を下りていたコレットに目線を合わせるように膝を折ると、その手を取って捧げ持った。
「コレット。俺でも……いいのか?」
「ク、クラウス様? 何を……」
手を取られ、深い碧の瞳に見つめられて、コレットは急に高鳴りだした胸を押さえる。
「俺が、怖くはないか。隣に立つのは、嫌じゃないか」
「あの、クラウス様、どうしたんですか? クラウス様は怖くなんてないですけど、あの、えっと、あっ、メリルさん。メリルさんに、私、ちょっと用事が……きゃっ」
コレットは今度こそ階段を下りようとしたが、クラウスがしっかりと手を握っているため、かなわなかった。それどころか、動揺して足を踏み外しそうになったところを引き寄せられ、またもやクラウスの腕の中におさまってしまった。
「あっ、す、すみません。あの、クラウス様、離して……!」
「嫌だ。
頼む、コレット。逃げないでくれ。
俺は、君のことが――」