黄金林檎は恋の味④
予定より長くなってしまったため、③と④を分けました。そのためこちらは挿絵がありません。すみません;;
コレットは、礼拝堂に突如乱入した男に拘束されたまま、以前自分を救ってくれた広い背中を思い浮かべる。
あのときは、驚いた。まさか来てくれるなんて思わなかったから。
異国の地で店を開いて一年。隣人に恵まれ、客足もそこそこで順調な日々だった。しかし、生まれ育った地を離れて一人で生活していく中には、人知れぬ苦労があった。家族や故郷の友人を思ってせつなくなる日もあったけれど、多少のことでは弱音を吐くまいと肩肘を張っていた。
そんな日々の中で出会った、あの人。
変わった人だなぁ、と初めは思った。週に一度、お菓子を買いに来る大きな人。開店直後の人のいないときにのっそり現れて、ぼそっと一言注文するだけで、目も合わない。
コレットの視界のはるか上空にある顔は無精ひげで覆われていて、その顔すらはっきりわからなかった。
それでも、その人が買っていくお菓子は確実に売れることがわかって、興味がわいた。“林檎を使った菓子大会”では、彼のおかげで優勝することができた。
その優勝が、あんな騒動になるとは思わなかったのだけれど。
菓子大会で優勝したことで、客がたくさん来るようになったコレットの店には、招かざる客も来るようになった。店の営業妨害を目的とした男たちだ。彼らの暴虐武人な振る舞いに為す術もなく店を奪われそうになったとき、助けてくれたのがクラウスだった。
(来てくれたのにも驚いたけど、次の日の、お髭を剃ったお顔にも驚いたのよね……)
初めてその素顔を見たとき、一瞬誰だかわからなかった。意外と若かったのだ、というのが正直な感想だ。
それからというもの、コレットを心配して店に立ち寄ってくれるようになったクラウスと、少しずつ菓子以外の話もするようになった。
必要最低限のことだけ告げる、低い声。
笑うときは、口の端をちょこっと上げる。
あの大きな手に頭を撫でられると、心の中がほっこりと温かくなる。
コレットが作った菓子を、おいしいと言って食べてくれるのが嬉しくて。騎士団の仕事があるのに悪いと思いながらも、一緒にいると新しい菓子をどんどん思いついた。
もっと喜ばせたいな。もっと話がしたい。もっと彼のことが知りたい。もっと、ずっと、一緒に……。
それが恋だとわかったのは、彼が他の人に触れるのを見たとき。
やめて。だめ。触らないで。
他の人を……見ないで。
そして、あの夜の口づけ。
髪だけど、髪だったけれど、あのクラウスが、あいさつでそんなことをするだろうか。少しは期待してもいいのだろうかという気持ちと、それ以後もさして変わった様子もなく店に来ることから、彼の気まぐれで何でもなかったのかという思いになる。
(内緒でお菓子を作ろうとしたから、罰が当たったのかな)
共感したのは、ビアンカのフェッロへの想い。
淡く儚く、でも大切な想い。
ビアンカのためのお菓子を作ることで、またそれをもしフェッロが喜んで食べてくれたなら、自分の想いも叶うような気がした。
だからこのお菓子だけは、クラウスに試食してもらうわけにはいかなかったのだ。
「おうおうおう、ガキどもめ! うるせぇって言ってんだよ!!」
小刀男が暴れている。
コレットを拘束している男は、それを多少冷めた目で見ていた。どうやらこの男の方が冷静なようだ。もしかしたら、こちらが主犯なのかもしれない。
コレットが男たちの様子を伺いながらじっと考え込んでいると、外から大勢の人の声が聞こえてきた。はじめはよく聞き取れなかったが、次第に声が近づいてきて、どうやら「人質を解放するように」とか「馬鹿な真似はやめて投降しろ」とか言っているようだった。
「ちっ、騎士団の奴らか」
小刀男が吐き捨てるように言う。先に逃げた人々が、騎士団に通報してくれたようだ。小刀男は窓辺に寄ると、外に向かって叫んだ。
「おめぇら! 下手な真似すんじゃねぇぞ! こっちには人質がいるんだからな!」
男の叫びを受けて、騎士団がざわめく。礼拝堂に押し寄せかけていた騎士たちが、一歩引いて隊列を整えるのが、コレットからも見えた。
「だから逃がすなと言っただろう」
「だぁってよぅ」
コレットを拘束した男が言うのに、小刀男が言い訳をするようにつぶやく。
どうやら男たちは、礼拝堂にいた人々すべてを人質にする予定だったようだ。しかし、小刀男が人々を逃がしてしまい、慌てて他の二人が礼拝堂内を漁りにいったものらしい。けれど収穫はなく、結局ここに戻ってきたところにコレットたちが出くわしたのだ。
(騎士団……。クラウス様もあの中にいらっしゃるのかしら)
男たちの会話を聞きながら、コレットはクラウスの姿を思い浮かべる。そんなに都合よく現れるわけがないと思いながらも、どこかで期待してしまう自分がいる。
「すっかり囲まれたな。あのとき、おまえがちゃんと打ち合わせ通りの場所に居ねぇからだ」
「はいはい、悪かったって言ってんだろ! 何度も同じこと言うんじゃねぇ!」
「なんだと!? だいたいおまえはいつも……」
「うるせぇな! てめぇこそいつもいつも口ばっかで……」
男たちは次第に仲間割れをはじめる。
子どもたちは怒鳴り合う声におびえて泣きじゃくり、外からは「人質を解放せよ」と声が響く。
「くそっ。おい、司祭。ここに抜け道はねぇのか。
このままじゃ、俺たちはとっ捕まって終わりだ!」
「ぬ、抜け道なんてない」
ホープの目が泳ぐ。城や寺院というものは、有事の際には人々の避難場所になる。それゆえ、もしものときのために、郊外に抜けられる隠し通路や脱出口が備えられているところが多かった。
「あるんだな。教えろ」
ホープの反応に、コレットを拘束している男がにやりと笑う。
「おい、金はどうするんだよ」
「こうなったら逃げるのが先だろ。せっかく出所したってのに、また出戻るのはごめんだ」
「チッ、貧乏くじ引いちまったな。それもこれもおまえのせいで」
「また俺かよ、うるせぇな!」
ガッ!
小刀男が、近くにあった椅子を苛立ちまぎれに蹴り上げた。
「――!」
咄嗟にフェッロが動く。子どもたちに当たるかと思われた椅子は、彼の腕によってはじかれ壁に当たって落ちた。
「きゃぁっ」
「うわっ」
「うっ、ふぇっ、ふえええぇぇぇぇぇん」
「うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ!!」
一層大きな声で泣く子どもの一人を、小刀男がビアンカの傍らから引きずり出す。
「イルジー!」
ビアンカの悲鳴のような呼び声にコレットが子どものほうを見ると、この間肩車の先約を巡ってけんかをしていた華奢な男の子が、小刀男に掴み上げられていた。
「ふ……、うぇ……、うええぇぇぇぇぇん」
「やめろ!」
棒を持った男を押しのけて、フェッロが飛び出す。フェッロは突きだされた小刀を払いのけイルジーを奪い返すと、態勢を立て直して襲い掛かってきた棒男を蹴り飛ばした。
「やめろ! この女がどうなってもいいのか!」
コレットを拘束した男が叫ぶ。ぎりっと首を締め上げられたコレットは、男の腕をつかんでなんとか逃れようとした。
「くそっ」
フェッロが悪態をついて止まる。すると、棒を持った男と小刀を持った男が、仕返しとばかりにフェッロに殴る蹴るの暴行を加え始めた。フェッロは、イルジーを胸の内にかばってうずくまる。
「イルジー! フェッロ! や、やめてくれ! 抜け道は、ある」
青ざめたホープが慌てて言う。それを聞いた男たちは、顔を見合わせてにやっと笑った。
「へっ、最初から素直に言えばいいのによ」
「ついでに金の在りかも吐かねぇか」
「そうだ、そうだ」
好き勝手なことを言い出した男たちに、ホープは祭壇を支えに姿勢を正しながら、きっぱりと言った。
「金は、本当にない。抜け道は、こ、子どもたちを解放したら教える」
「ふん、まぁ、いいだろう。子どもどもは解放してやる。
こんな奴ら、うるさくて仕方ねぇしな。おい、そこの通用口を開けろ」
コレットを拘束している男の指示を受けて、棒を持った男が礼拝堂脇にある通用口に手を掛けた。
「修道女さんよ、あんたは逃がしてやる。ガキどもを連れてとっとと出てけ。
菓子やのねえちゃんと司祭と守門のあんたは残りな」
「コレットさんは関係ありません!」
ビアンカは、フェッロの手からイルジーを受け取り、泣きじゃくるイルジーを抱き上げながらもコレットを気遣う。フェッロはどこか痛めたのか、そのままじっとしていた。
「いいからとっとと行け。俺らの気がかわらねぇうちにな」
「ビアンカさん、私はいいですから、とにかく子どもたちを先に出してあげてください」
男の腕が緩められ、なんとか話せるようになったコレットが言う。
「コレットさん、でも」
「私は大丈夫ですから、子どもたちを」
本当は、大丈夫なことなどない。コレットを脅しの材料に使っている男は、武器こそ持っていなかったけれど、がっしりとした体格で、頭もよさそうだった。
そして、その男の仲間というより手下のような二人の男も、それぞれそれなりの荒事を起こしてきたであろう風体をしていた。それでも、自分の身の安全よりも、今は子どもたちを逃がすことの方が大切だった。
「……わかりました。必ず助けにきます」
「はい」
コレットの目をまっすぐ見つめて、ビアンカが言う。コレットもまた、ビアンカをひたと見つめて深くうなずいた。
細く開けられた通用口から、ビアンカと子どもたちが出て行く。
子どもたちが騎士たちに迎えられる姿を窓から眺め、コレットはほっと息をついた。
「さぁ、司祭。抜け道を教えろ」
「あ、あぁ」
ホープが祭壇の下の装飾に手を伸ばす。カチリと小さな音がして祭壇が動き、床下に通路が現れた。男の一人がピューィと口笛を吹く。
「これはどこに出るんだ?」
「寺院の敷地の東側だよ。……今、騎士団の人たちがいるのとは、反対側になるね」
「へっ、上出来だ。司祭さんよ、邪魔したな。また来るから、そんときゃ金用意しておけよ」
「二度と来ないでくれたまえ。ちゃんと参拝するなら大歓迎だけどね」
「くくっ。あんた、なかなか食えない奴だな。おっと、ねえちゃん。あんたは俺らと来るんだ」
「きゃ……!」
このまま解放されるかと思っていたコレットを、男はそのまま地下通路へ押し込んだ。
「! ちょっと待て。コレットくんは返してくれ。君たちは逃げるんだから、人質はもういらないだろう?」
「何言ってやがる。こいつは保険だよ。抜けた先が安全とは限らねぇからな」
「……卑怯な……」
「やめて、離してください! ……司祭様!」
暗くかび臭い地下通路に連れ込まれながら、コレットが手を伸ばす。
「コレットくん!」
ホープは追うべきかそれとも外の騎士団に助けを求めるべきか、判断に迷う。しかしホープが追ったところで三人の男を相手にコレットを救えるとは思えず、騎士団を呼びこんだとしたら、それこそコレットの命が危ない。どうしたものかと、小さくなっていく足音を聞きながら通路を覗き込んでいると、ホープの背後でそれまでうずくまっていたフェッロがゆらりと立ち上がった。
「血……。おれの左手に……血が……」
「血?」
ホープが振り返って見てみれば、フェッロが左手にはめた黒い手袋が裂け、手の甲に血が滲んでいた。
「わ、これは大変。フェッロくん、落ち着いて」
「血……。血だ……。おれの手に……。絵筆が握れなくなったらどうしてくれる?
あいつら……許さねぇっ!」
ぎらりと目つきの変わったフェッロが、腰の剣を抜く。慌てて取りすがったホープを払いのけ、男たちを追って地下通路に駆け込んだ。
「な、なんてこと。哀れな咎人に、ニーヴのご加護があらんことを。……なんて祈ってる場合じゃないよね。
ビアンカくん! ビアンカくーん! フェッロくんが大変だよー!」
暴走したフェッロは、ホープには止められない。男たちもフェッロも戻ってくる気配がないということは、きっとそのまま出口へと行ってしまったのだろう。
ホープはビアンカに助けを求めるべく、通用口を開けて外に飛び出した。
暗く、狭い地下通路を抜けた先には、青空が広がっていた。辺りに人の気配はない。
「お、あの司祭、本当のことを言ってたようだな」
「よし、追手がかからねぇうちに逃げるか」
「このねえちゃんはどうする? 金のかわりにもらっていくか」
「馬鹿、置いてけ。足でまといだろう」
男たちの会話をコレットが身を竦めて聞いていると、今通ってきたばかりの地下通路から、足音が聞こえた。
「てめえら! 待ちやがれ!」
怒号とともに飛び出してきたのは、フェッロ。驚く男の一人を蹴り飛ばし、返す勢いでもう一人の男の頭を手にした剣の柄頭で殴った。コレットを拘束していた男は、突然の事態にコレットを突き飛ばして逃げにかかる。
「ふざけんなよ! おれの手ぇ傷つけて、生きて帰れると思うな!」
フェッロは、逃げようとした男の服をつかむと引き倒し、剣を放り出して馬乗りになって殴り掛かった。
「ぐっ、ぐぇっ、かはっ
や、やめ……! 悪かった! 俺たちが悪かった……!」
フェッロに殴られながら、男が謝罪する。それでもフェッロは、狂ったように男を殴り続けた。
「フェッロさん……! もうやめて……!」
起き上がったコレットがフェッロに呼びかけるも、耳には入らないようだ。すると初めにフェッロに倒された男たち二人が気が付いて、仲間を殴り続けるフェッロに襲い掛かった。
「てめぇ! 何しやがる!」
「うるせぇ! おまえらがおれの手を傷つけたんだ! 絵が描けなくなったらどうしてくれる!」
「てめぇの下手な絵なんざ知るか! この野郎!」
男の一人が、フェッロの胸ぐらをつかんで立ち上がらせる。それを逆に引き寄せて腹に膝蹴りをしたフェッロは、倒れ込む男を押しのけて、次の男に飛びかかって行った。フェッロに馬乗りになって殴られた男は、血の混じった泡を吹いて気を失っている。
「やめて! やめて、やめて! フェッロさん……!」
目の前で繰り広げられる暴力に、たまらずコレットが悲鳴をあげる。けれどその声が届くことはなく、三人の男たちの乱闘は続いた。
「誰の絵が下手だと!? てめぇ、ぶっ殺す!」
「守門なんざやってるやつの絵がうまいわけねぇだろ!
へっ、画家にもなれねぇ、くされ絵描きが、偉そうにすんじゃねぇよ」
「てんめええぇぇぇぇぇぇ!」
「フェッロ=レデントーレ。そこまでだ」
とす。
クラウスの手刀が、フェッロの首に落ちた。がくっと膝をついたフェッロが、その場に倒れる。
突然相手を失った男たちもまた、いつのまにか取り囲んでいた騎士たちにその身を拘束された。
「ク、クラウス様……?」
信じられなかった。
人が変わったように暴れるフェッロをはじめ、殴り合う男たちを前に為す術もなかったコレットの目の前に、クラウスがいた。
震える指先を伸ばせば、大きな手でしっかり握り込んで、支えてくれた。
「無事か」
「は、はい」
あと一歩踏み出せば、その胸に飛び込めるのではという距離で、深い碧の瞳をのぞきこむ。それまでの恐怖からの解放と、クラウスに会えた喜びと、握られた手から伝わってくる熱によって、暴漢たちを取り押さえる周囲の喧騒などコレットの耳には入らなかった。
「来てくださったのですね……」
なぜ、とか、どうして、とかは、思い浮かばなかった。ただ、自分の危機に二度までも駆けつけてくれたことが嬉しかった。
クラウスの瞳にコレットの顔が映る。
それに気付いたコレットは、急に恥ずかしくなって目をそらした。すると、足元に転がるフェッロが視界に入った。
「あ、そうだわ、フェッロさん!」
クラウスの手を離し、気を失っているフェッロの頬をぺちぺちと叩く。
「フェッロさん! フェッロさん、しっかりしてください!」
フェッロにもしものことがあったら、ビアンカがどんなに悲しむだろうか。優しくかわいらしい友人を思って、コレットはフェッロの肩を揺すった。
「ん……うぅ……」
コレットに起こされて、フェッロが目を覚ます。
「コレット……? あれ? おれ、一体……」
どこかぼんやりとした声は、いつものフェッロの声だった。長い前髪の隙間からのぞく紫がかった灰色の瞳は、さきほどまでと違い、彼が正気であることを伝えている。
「よかった。フェッロさん、さっきまですごく暴れてて、大変だったんですよ」
「あー……。なんか、ごめん?」
記憶もあいまいなままとにかく謝るフェッロに、コレットはついくすりと笑う。
ビアンカのために必死になり、気が付いたフェッロに向けて微笑を浮かべるコレットの姿は、だがしかし、クラウスの目には違うものに映っていた。
「……」
クラウスは、空っぽになった手の平をじっと見つめる。思わず握り込んだ白く小さな手は、細かく震えしっとりと汗ばんでいた。
自分を見つめる濃褐色の瞳には涙がにじみ、どんなにか怖かったろうと思ったが、そんな彼女も今はフェッロの肩に手を添えて何ごとか話している。
『フェッロさんは少し変わった性癖をお持ちで……。血を見たり自分の絵をけなされたりすると、人が変わったようになってしまうんです。もしそうなったら、気絶させるかひたすら絵を描いていただくしか、元に戻す術はなくて』
暴漢に解放されたビアンカから中の様子と共にフェッロについて教わっていたクラウスは、地下通路を抜けた先で暴れているフェッロに気付き、迷うことなく手刀をくらわせたのだった。
そんな奴の性癖を、コレットは知っているのだろうか。
怪我の治療のため医療班に引き渡されるフェッロを、コレットは気遣わしげに見つめている。
「コレット」
呼びかけは、小さなものだった。
しかしコレットはすぐに気が付いて、フェッロに手を振ってからクラウスの元に駆けてきた。
「クラウス様、お礼も言わずにすみませんでした。助けてくださってありがとうございます。
一時は本当にどうなることかと……」
「……いや」
胸の前で合されたコレットの手に、クラウスが触れることはない。地下通路を抜けたせいで少しくすんでしまった髪も、梳いてやりたくてもその権利はやはり自分にはないだろうと思った。
あるとすれば、コレットがクラウスの手を振りほどいて駆け寄った、フェッロという男だ。
「でも、クラウス様、よく地下通路の出口がわかりましたね」
「あぁ。シスター・ビアンカが教えてくれた」
サン・クール寺院の修道女であり孤児院の管理を担うビアンカが、礼拝堂の秘密の抜け道のことを知っていてもおかしくはない。
ビアンカは解放された先でクラウスと行き会い、話をしてから子どもたちと一緒に施療院に避難したと聞き、コレットはほっと胸を撫で下ろした。
「ヴィルフレッドにも連絡した。もうじき寺院のほうに着くだろう」
「あ! ヴィル……! どうしよう、こんなこと……。怒られる……」
連日店を空けただけでなく事件に巻き込まれるなど、絶対に叱られる。
両手を頬に当てて焦るコレットを、クラウスはゆっくりと一度目を閉じてから、静かに見つめた。
「菓子は、できたのか?」
「え? あ、どうしてそれを……。
あの、はい、あとはフェッロさんに試食をしていただくだけだったんですけど、結局まだで……。
今日怪我をされていたから、元気になってからでしょうか。でもお見舞いに持っていくのもいいかも」
「そうか」
君の菓子なら彼も喜ぶだろう、と言ってクラウスは目をそらした。
「そうですね。甘いものも結構お好きみたいです」
「店には出すのか?」
コレットの新作であるならば、やはり食べてみたい。例えそれが他の男のために作ったものでも。
「うぅん、それが、カフェコーナー限定になりそうな感じなんです。
難しいわけじゃないんですけど、食べていただくタイミングがあって、もしかしたらカフェでも出せないかもしれません」
それは、遠回しの断りの文句だろうか。
そう感じたクラウスは、あきらめの溜息をついた。
「そうか。施療院は完全看護だが、手伝いを断るわけではない。
まめに行ってやれば回復も早いだろう」
「そうですね。でもあまり留守にすると兄がうるさいので」
「そうはいっても、心配だろう? ヴィルフレッドには俺が口添えをしてやろう」
珍しくよくしゃべるクラウスは、やけにフェッロの話をしてくる。不思議に思ったコレットは、クラウスを見つめて小首をかしげた。
「あの、クラウス様? 私とフェッロさんは別に」
「隠さなくていい。
菓子の差し入れをするときに知り合ったのか」
「え? あの」
「気が利かなくてすまなかった。
これからは俺の付き添いはいらないな」
「ま、待ってください、クラウス様」
それは違う。とんだ勘違いだとコレットが説明しようとしたとき、
「アルムスター分隊長!」
と、鉄紺の甲冑を着た人物がクラウスを呼んだ。中性的な顔立ちのその人は、周りの騎士たちの様子からそれなりの地位にある人のようだった。
「すまない、行かなくては。じきにヴィルフレッドが来るだろう」
クラウスは、コレットを一人にしてしまうことに申し訳なさそうにしながらも、そのまま騎士たちの方へ行ってしまった。
「違……。クラウス様、違います。私……、違うのに……」
あのお菓子はビアンカをイメージしたもので。
フェッロに試食を頼もうとしていたのも、ビアンカのためだったのに。
「誤解、です……」
クラウスの背中につぶやくコレットの声は、彼に届くことはなかった。代わりに、クラウスの言う通り駆けつけたヴィルフレッドが、コレットの肩を叩いた。
「何が誤解だって? おい、コレット、大丈夫か? コレット?」
こんなに心配をかけて、会ったら強く叱ってやろうと思っていたヴィルフレッドは、ぽろぽろと涙を流す妹を見て気勢をそがれた。
「どうした、怖かったのか? 怪我はない? とりあえずさ、帰ろう?」
ヴィルフレッドに肩を抱かれて、コレットは歩く。事情を聞きたいと寄ってきた騎士を、ヴィルフレッドは落ち着いてからにしてくれと追い払った。
「よしよし。兄ちゃんがよぉく話を聞いてやるからな。泣くなよ、な?」
「……」
ヴィルフレッドがコレットの頭を撫でる。幼い頃から繰り返されたはずのそれも、今は求める感触との違いばかり思い起こされて、余計に涙をさそった。
その日コレットは、家に着くまでずっと黙り込んで涙を流していたのだった。