黄金林檎は恋の味③
その日の朝も、コレットは新作菓子の制作のため、サン・クール寺院を訪れた。
門の前には守門の姿はなく、代わりにビアンカが立っていた。
「今日もフェッロさんは寝坊ですか?」
「そうみたいです。まったく、これじゃ守門の意味がないです」
「くすくす……。そうですね。一緒に起こしに行きましょうか」
朝食と朝の礼拝の間の休憩時間に、ビアンカはコレットの菓子作りに協力していた。さまざまな試行錯誤を繰り返し、今日ようやく完成の予定である。
「昨日、お店に帰ってから、ちょっと発想の転換をしたんです。やっぱりもっとふわっと感が欲しくって。結果としてカフェ用の限定品になっちゃいましたけど、絶対おすすめです」
「わぁ、楽しみ! いままでのだって、試作とは思えないほどどれもおいしかったです。
でも、どうして今回は私とフェッロさんが試食役なんですか? いつもはクラウス様ですよね?」
「ふふ、それは食べていただいてからお話ししますね。
盛り付けはフェッロさんのお部屋でさせていただいていいかしら」
「そうですねぇ。フェッロさんのお部屋、画材だらけかも……。
一度声をかけてから、厨房に移動したほうがいいかもしれませんね」
話しながら、二人は寺院の奥にあるフェッロの部屋へと向かう。住み込みで働く彼は、寺院の一室を、自分の部屋にしていた。
細い通路のつきあたりまで来たところで、飾り気のない板戸をビアンカが叩く。
「フェッロさん、おはようございます。ビアンカです。フェッロさん?」
しかし、何度叩いても大声で呼びかけても、中から返事はなかった。
「スケッチにでも行かれたのかしら。ごめんなさい、何も聞いてはいなかったんですけど」
「結構、お出かけになること多いんですか?」
「うーん、お仕事中にふらりといなくなってしまうこともありますが、朝早くからはあんまり出かけないと思います。やっぱり寝てるのかしら。
どうしましょう。私、そろそろ子どもたちを呼びにいかないと礼拝の時間が……」
「どうぞ行ってきてください。私、もう少し呼びかけてみます」
コレットがそう言ってフェッロを起こすことを請け負うと、ビアンカは恐縮しながら子どもたちの元へと戻っていった。
「フェッロさん! フェッロさーん」
ビアンカを見送って、コレットは少し強めに扉を叩く。ヴィルフレッドの口ぶりから、これ以上店番を頼むことはできそうになかった。ならば、今日必ず完成させなければならない。けれど、何度呼びかけても、部屋の中から応えはなかった。
「やっぱりお出かけなのかしら……」
コレットがあきらめかけたそのとき。
ごとり
ようやく部屋の中から物音がした。いかにも寝起き、という様子のフェッロが、扉を開けて顔を出す。
「……おはよう」
「おはようございます!」
「……朝から元気だね、コレット……。ふぁ……。何? どうしたの?」
紫がかった灰色の瞳にかかる長い前髪をかきあげながら、画家兼サン・クール寺院の守門、フェッロは大きなあくびをした。
「お休みのところ申し訳ありません。フェッロさんにぜひ試食していただきたいお菓子があるんです」
「お菓子?」
菓子と聞いて、それまで眠そうだったフェッロの目がぱちりと開く。
「おれに? なんで? タダ?」
「あはっ、試食ですから、タダです。フェッロさんに食べていただきたい理由は後で……あっ」
菓子の材料が入った籠を持ち上げて、コレットははたと気づいた。仕上げは寺院についてからビアンカとするつもりだったから、皿がない。それをフェッロに言うと、
「皿くらい、厨房の使っていいと思うけど、おれ、場所わかんないな」
とのことだった。
「ですよね。ビアンカさんは礼拝に行かれてしまったし」
「もうそんな時間? 寝すぎたな。
皿があれば菓子食えるなら、礼拝堂まで行こうか」
フェッロが急にきびきびと動き出す。美味しいものを食べることが好きで、甘味も好むとビアンカが言っていたのは正しかったようだ。ただし、懐事情によりなかなか食べられないらしい。
ビアンカが戻るのを待つより直接聞きに行こうと、コレットはフェッロと共に礼拝堂へ向かう。
寺院の中庭を抜け、陽光を受けて白く輝く礼拝堂の正面に回ると、中からビアンカの弾くパイプオルガンの音と子どもたちの歌声が聞こえてきた。
ニーヴを讃える歌詞が、暖かな風にのって、ティル・ナ・ノーグの街に流れていく。
清らかな歌声に、思わずコレットが微笑みを浮かべると、
「きゃああああああああ!」
突如、礼拝堂の中から悲鳴が聞こえた。
「!」
「な、何?」
コレットとフェッロは、顔を見合わせる。
パイプオルガンの音が止まり、子どもたちの泣き声が続いた。ガタガタと何かがぶつかるような音と、野太い怒声が断片的に聞こえる。
「コレットはここにいて」
「や……! 私も行きます!」
フェッロが腰に帯いた剣に手を掛けながら一歩踏み出すのを、コレットも追う。フェッロとコレットの目の前で礼拝堂の扉が勢いよく開き、朝の礼拝に参加していたらしい人々が、慌てて逃げ出してきた。
「みなさん!? どうしたんですか?」
「どけ!」
「変な奴らが急に暴れ出したんだよ! あんたも逃げな!」
「おい、誰か! 騎士団を呼べ!」
口々に叫びながら駆けて行く人々を押しのけて、フェッロが中に入って行く。コレットもまたそれについていき、中の様子を目にして驚いた。
「司祭様……!」
教典を読むための祭壇の前で、小刀を持った男がホープに詰め寄っていた。その横のパイプオルガンのある壁際に、ビアンカと子どもたちもいる。
「おい! おまえんとこの寺院がたんまり貯めこんでんのは知ってんだよ!
怪我ぁする前に、とっとと出せ!」
「君、何を言ってるんだ。何のことだかさっぱり……」
「うるせぇ! すっとぼけてんじゃねぇよ! 金だよ、金!
噴水に投げ込まれた金がここに寄付されてんだろっ
それを寄越せ!」
「それは……」
寄付金は寺院の運営費や子どもたちの生活費に充てられており、貯めこんでなどいないとホープが説明しても、男は納得せず、「金を出せ」と繰り返していた。
「司祭様……ビアンカさん……。どうすれば……」
「しぃ……!」
口元に手を当て、青ざめてつぶやいたコレットに、フェッロが人差し指を立てて注意を促す。コレットはフェッロに腕を引かれ、息をつめて礼拝堂の入口にある柱の陰に身を寄せた。
「どうしても言わない気か? ここにいる子どもどもがどうなってもいいのか?」
男の声が、礼拝堂に響く。小刀がビアンカの後ろで身を竦めている子どもたちのほうに向けられると、子どもたちはびくっと震えて顔をひきつらせた。
「子どもたちに手を出すな! ないものはないんだ!」
「うるせぇ! お偉い司祭様がいい加減なこと言うんじゃねぇよ!」
男が再び小刀をホープに向ける。その隙に、ビアンカがパイプオルガンの横に立てかけてあった、窓の開閉用の長い棒を手にした。
「えいっ!」
「やめろ!」
するどく声を上げたフェッロが、柱の影から飛び出す。フェッロが、ビアンカに向けて振り下ろされた小刀をはじいたのと、どこからか現れた別の男がビアンカの背後に立ったのはほぼ同時だった。
「フェッロさん!」
「へへっ、ねえちゃん、勇ましいな」
男に棒を取り上げられ、腕をひねりあげられたビアンカがフェッロの名を呼ぶ。
「……くっ」
ビアンカを押さえられたフェッロは、それ以上何もできずに両手を挙げた。
「チッ、なんだ、てめぇ、どこから来やがった」
小刀を拾った男が、フェッロの頬を小刀の刃でペチペチと叩く。そして顎をしゃくってパイプオルガンの横までフェッロを移動させると、ビアンカと共に座らせた。
あとから現れた男が、ビアンカから取り上げた棒を片手に見張りにつく。
「お姉ちゃん!」
「ビアンカお姉ちゃん、大丈夫!?」
「フェッロ、来てくれたの?」
「うわぁぁん」
子どもたちは、ビアンカとフェッロのそばに身を寄せて不安そうな顔をしている。一連の出来事を柱の陰で見ていたコレットは、身動きがとれず途方に暮れた。
「フェッロさんまで……。どうしよう」
「そうだなぁ。でもあんたは自分の心配をしたほうがいいぜ?」
「!」
気付いたときには時すでに遅く、コレット首には太い腕が巻き付いていた。
「で、なんなんだ、おまえは」
男が、棒の先でフェッロの胸を突く。
「サン・クール寺院の守門だ。手荒なことはやめて、とっとと出て行け」
「守門だぁ? そんなのいなかったぞ。
口には気を付けろよ。これが見えねぇか!」
「ひっ」
男がホープの喉元に小刀をぐっと押し当てる。顎をあげてのけぞったホープは、よろめいて祭壇に手をついた。
「く……」
フェッロは、前髪の隙間から男を睨みつける。フェッロの腕にしがみついたビアンカもまた、新緑を思わせる緑の瞳に涙をにじませて、男をきつく睨んでいた。
「おお、怖い。サン・クール寺院の聖女様が、俺を睨んでるぜ。くくっ、そそるねぇ。
あんたでもいいんだぜ。孤児院にも金が流れてるんだろ。どこに隠してある?」
「隠してなんていません。寄付していただいたお金は、適正に使わせていただいています。
寄付だけで賄いきれない分は、街の予算で」
「嘘をつくな!!」
男は怒鳴りながら小刀を振り回す。子どもたちがおびえ、泣き声をあげた。
「あああ、うるせぇなあああ!
俺らの仲間はもう一人いるんだ。今、おまえらの隠し財産を探しにいってるからな! 嘘ついてもすぐにわかるんだぜ!」
「やめてください! 嘘なんてついていません!」
「そうだ! どこを探しても金なんてない!
あ、司祭室の私の机の引き出しは開けるなよ。日記が置いてあるんだ」
「司祭様……」
小刀が喉元から離れたとたん、呑気なことを言い出したホープに、ビアンカががっくりと肩を落とす。
「そんなこと気になさっている場合ではないでしょう」
「だって、ビアンカくん、あれ見られたら私は終わりだよ」
「一体何を書いてるんですか」
「え、何って、知りたい?」
「……遠慮しておきます」
「そう言わないで。実はね」
「おおお、おまえら! 勝手なことくっちゃべってんじゃねぇ!」
男が、再び小刀をホープに向ける。ホープは「うっ」と息をつめて黙り込んだ。
「てめぇの日記なんざ、どうでもいいんだ。金だ! 金の在りかだよ!」
「そうだ。どこにある?」
ホープと小刀男の会話に、別の男の声が滑り込んだ。フェッロがはじかれたように振り向くと、そこには小刀男の仲間らしき男が、コレットの首に腕を回してにやにやと笑っていた。
「「「コレットお姉ちゃん!」」」
「コレットさん!」
「あれ、どうして君がここに……」
「ご、ごめんなさい……」
「守門のにいちゃん、変なまねはするなよ。
おい、こっちに鼠がもう一匹まぎれこんでたぜ」
突然現れたコレットに、ホープやビアンカ、子どもたちが驚きの声をあげる。フェッロはといえば、コレットの存在を失念していた自分に舌打ちをした。
「コレット? あぁ、菓子屋のねえちゃんか。
俺、あんた知ってるぜ。一緒の房にいたやつが、あんたのせいでぶちこまれたって愚痴ってたからな。
ひひ……」
小刀を持った男が、下卑た笑いを浮かべて舌なめずりをする。コレットを縛めている男は、コレットを引きずるようにして祭壇の前まで来て、小刀男と並んでフェッロたちに対峙した。
「ざっと探したんだけどな、金目のものはなかった。やっぱりてめぇらに聞くしかねぇ。
この女と司祭がどうなってもいいのか?」
「ひひっ、まぁ、最悪、このねえちゃんたちでももらってくかね。平和ボケしたティル・ナ・ノーグの街じゃぁ無理だが、一歩他の土地に行けばそれなりに需要はあるからな」
「君たち、なんてことを……。
愚かなる者に海の妖精の裁きが下らんことを」
ホープは祭壇に肘をついて両手を組み、祈りを捧げはじめる。海の妖精は、サン・クール寺院で祀られている二柱の妖精のうちの一体であり、空の妖精と並んで多くの人々の信仰を集めている。彼は 海を司る妖精であり、一たび荒ぶれば嵐を起こし雷を落とす、裁きの妖精でもあった。
「へっ、なんだい。妖精なんざ、いくら俺たちが困っていても、ちっとも救ってなんかくれやしねぇ。
欲しいもんがありゃ、自力で手に入れるしかねぇのさ。ってことでよ、さっきから言ってんだろ? 金だよ、金! 金をよこせ!!」
男が興奮して再び小刀を振り回し始める。ホープは「わっ」と声をあげて飛びのき、悲鳴をあげる子どもたちにはビアンカが寄り添った。フェッロはくやしそうに歯ぎしりをしている。
「司祭様……! あぁ……」
コレットは、拘束され身動きのとれないまま唇を噛む。
(どうしたらいいの。誰か、助けて……!)
きつく目を閉じたコレットは、瞼の裏に映った広い背中に想いをはせた。