6話 始まりの音色
美術館の帰り道に見上げた空はオレンジ色に染まり、空を覆っていた雲はもう空の彼方へ飛んでいっている。
私は朝倉・勇達と別れて、何となく公園のベンチに腰を下ろしている。
公園に来たのには理由はなく、ただの気まぐれである。夕方なのに、公園内の遊具ではまだ子供が数名遊んでいる。
碧眼の瞳をすこし細めながら、公園内の風景を眺めた。細めた碧眼は、どこか悲しそうである。
「やあ、碧眼のお嬢さん」
突然、前から優しげな老人の声が聞こえた。そして、咲は細めていた碧眼をすこし大きく見開いた。驚いた。
なぜなら、先ほどまで、私の前にはこの目の前に立っている『老人』は居なかったからである。
絶句した後、咲は口をすこし開いて、一言。
「さっきまでは……」
「魔眼は、人間誰もが潜在的に持ち合わせている特異能力。けれど、ほとんどの人間は発現までには至らない。さて、碧眼のお嬢さんはその眼をどう生かす?どう殺すのかな?」
老人の言葉は、私には理解出来なかった。理解する気すらなかったのかもしれない。
咲は碧眼の瞳を静かに閉じて、
「答える前に、あなたは誰?」
老人の名前を訊ねた。当然といえば当然の質問だ。
「私かね?答える事は良いのだけど、今はその時期ではない。ただ、『聖殿』の使用人だと知ればいい。未来を視過ぎない方が気分は楽だ――」
そう言って、老人は片手の人差し指で咲の額を軽く押した。
押された次の瞬間、視界がグラッ!と地震でも起きたかのように、激しく揺さぶられて、視界は消失する。
倒れた感覚を感じたが、すぐに感覚がなくなって、思考が完全に停止した。
ただ、最後に聞こえた気がした。――『死は視ない方が幸せ』――と……。
古代ギリシャを思わせる。石柱が幾つも並んでいる空間には、景色がなかった。
床のない透明な足場に伝わる足音は湖に雫を落としたように波紋が広がった。
老人には名前がない。あるのは、役職名『聖殿の使用人』だけだ。
「使用人……よくそんな古臭い名前を使用するなぁ」
男性の声が先に聞こえると、次に女性の声で復唱する。
そして、闇一色に染まっている奥の方から、一振りの大きな斧を担いだ瑠璃色の瞳の少年が現れる。
少年の年齢は10歳程度で、服装は全身黒装束姿である。ドスン!と担いでいた大きな斧を透明な足場の上に落とすように置くと偉そうに、
「おい、勝手に『聖殿』を出たと思えば、土産一つも持って来なかったのか!?全く、使用人が聞いて呆れるな」
悪態を吐き捨てるように言って、老人を睨んだ。
老人はヘラヘラとした笑みを浮かべながら、
「弁解はしません。ですが、それなりに『面白い事』になりそうですよ」
「面白い事?」
「未来を映す碧眼と、虚空を斬る魔眼……法縁を上手く殺せそうだ♪」
ヘラヘラとした笑みは、冷たい笑みに変わる。怖気さえ感じさせる程の老人の笑みは、何かを称えているようにも思えた。
少年は、悪趣味な笑いだ、と毒を吐き捨てた。
「おや?あなたにそう言われるとは思いませんでしたな。血族・寅の中で、もっとも殺戮を好んでいる『斧の鬼』らしからぬ言葉だ」
「黙れ、たまには違った台詞を言う事もある。それにな」
「それに?」
「あいつが、怒り出す」
斧の鬼と呼ばれた少年は足場に置いていた斧を片手で器用に担ぎ上げると、また闇に消えてしまう。
老人も、やれやれと言った感じで首を横に振ると、同じく闇に消えた。
この空間は『聖殿』と呼ばれる血族の神殿。歪んだ空間の歪の中に存在する無限の闇が支配する空間だ。
視界が開けると、見馴れた公園の風景が広がっている。
けれど、もうすっかり日は落ちて、夜になっている。空には欠けた月が昇っていて、辺りはシーン、と静かになっている。
軽い頭痛に似た脳震盪を起こしている性か、足がどうしてもグラついてしまう。
咲はベンチの背凭れの上に片手を置いて、体を出来る限り押し上げて、立ち上がる。
妙な気分……すこし前までの記憶が喪失している気がする。欠けた月を見上げて、一度深呼吸をする。
両手は左右に広げずに、すこし後ろで組んでいる。深呼吸をする事に意味はないが、強いて言うならこの頭痛に似た脳震盪をすこしでも抑えよう。そんな気持ちだった。
深呼吸したら、公園の出口の方に向かって歩き出す。家に帰らないと、生徒指導を受けそうだからだ。
明るい月の光で、車道と歩道を仕切っているガードレールに影が映る。同じ動きをする影を、咲はすこし楽しそうに微笑んで、歩きながら見る。
しばらく歩いていると、シャッターを下ろした店の前に、ギターを弾いているボロイコートを着た40歳前後の男性が座っている。
こんな人を何て言うんだっけ……思い出せない。
咲は男性からすこし離れた斜め前方に立ち止まり、一曲だけ最後まで聴いた。決して上手ではないけれど、何だか聴いていると落ち着く。
ギターの音色が止まる。そして、短く咲に一言。
「上手とは、お世辞でも言えないだろ?」
「はい……」
咲はすこし笑うように目を細めながら、線の細い声で答えた。
そのまま、咲は言葉を付け足して、
「でも、落ち着く良い曲だった」
そう言うと、男性は、ふっ、と笑みを浮かべて、
「ありがとな。お嬢ちゃん」
「どうも。さよなら」
律儀に一礼をして、20メートル程前に走って、歩く。その場から咲の姿がなくなると、男性はギターを弾く。
曲名は――『最初の音』