3話 学校風景
静謐な早朝に、蒼く澄みきった空には薄い雲が一つだけ浮かんでいる。
部屋の隅の壁に背中を預けている少女は静かに、瞼を開いた。綺麗な碧い瞳はすこしだけ、潤んでいる。
昨日、夕焼け空を眺めていて、そこから記憶が途切れている。どうやら、知らない間に寝てしまったらしい。
にちがいでも起こしたのか、首が痛い。白い制服とスカートはなぜか乱れていて、制服のシャツの胸元からはすこしだけ下着が覗いている。
吐血した血はもうすっかり畳に滲みこんでいて、何だか赤く黒ずんでいる。咲は片手で頭を掻きながら、立ち上がると机に置いていたネクタイを片手に掴んで、キュッ!とネクタイを締める。
乱れた制服とスカートは軽く両手で叩いて直す。ここで、ある嫌な感覚を口に覚えた。
吐血した性で、口の中が血で染まり、真っ白だった歯が赤く色づいている。鉄の嫌な味が味覚に訴えてくる。
唾液も血が混じっているし、口内は最悪だ。咲はすこし苦そうに口元を歪めながら部屋を出て、洗面台の方に歩いていく。
蛇口を捻って水を出して、両手を合わせて水をすこし掬って口に運ぶ。数回嗽をして、口内の血をすべて洗い出す。
眠たそうな私が、洗面台の鏡に映っている。本当はもうスッカリ目が覚めているのだけど、寝起きの顔は酷いモノがある。
咲はそのまま洗顔をすると、部屋に戻って壁に掛けていた紺色のブレザーを制服の上から羽織る。
化粧はしない。化粧の技術がないからで、前に一度やって失敗した経験もある。
だけど、髪は束ねる。後ろ髪を首筋の方で下げたテールするように白いリボンで縛る。いつもは束ねたりはしないが、今日はすこし風が強いから、束ねた。
鞄は昨日学校に置き忘れたらしく、今日は手ぶらで登校する。高校の正式名称は星光国際高等学校、(略して星光高校)
朝食は食べず、準備をしたらすぐに玄関で黒いスポーツシューズを履いて家を出る。高校は途中まで病院に行く道を通るが、十字路を右折して真っ直ぐ歩いていけば、すぐに高校の正門が見えてくる。
高校の周りは高さ2メートルくらいの柵で囲まれていて、不審者が敷地内に入るとすぐにわかる。そのためか、早退する時は目立ちたくなくても、目立ってしまう。
正門を通った直後、突然後ろから背中を思いっきりぶっ叩かれる。
「いやー!今日も素晴らしい蒼天だね〜♪」
陽気で高い声が、背中を片手で摩っている咲は振り返る。同じ制服だけれど、ネクタイはしていない髪はライトブラウンでボブカットの女子が馬鹿に上機嫌で立っている。
「……果歩、お願いだから、背中を思いっきり叩かないでよ……本当に痛い」
「目覚めの一発だから、気にするな!」
かなりマイペースな口振りで、果歩は言いながら咲の肩を軽く数回叩く。
咲の碧い瞳は泳がせながら、並走するように横を歩いている果歩の横顔を見ながら、
(何で、毎朝背中を叩かれるんだろう……)
内心でそう思うと、ため息が漏れる。
正門から生徒玄関まで歩き進んで、コインロッカーのような下駄箱に靴を入れて、室内用スリッパに履き替えて、下駄箱を開くための鍵をロッカーから取り出して、鍵を閉める。
盗難防止のため、始業式の日に下駄箱をすべて、駅前のコインロッカーに置き換えられた。総額は60万円以上の赤字だったとかで、現在は財政難みたいだ。
果歩とは同じ2年B組の生徒で、中学校の頃からの友達だ。教室内は朝なのに騒がしい。
席に座って周りを見回してみる。親しげに話している男子生徒と女子生徒、同性同士で話している生徒、すぐに視線は窓の外に逸れる。
教室内より、まだ外を眺めていたほうが、マシな気がした。
蒼天の空には、雨を降らすような、天気を崩す可能性のある雲は一つもなく、薄い雲だけだ。
(今日の時間割は国語、現代社会、数学、科学、音楽、HRだから……)
不味い、何も浮かんでこない。気だるそうに窓を外を眺めている咲の前の席から、
「おはよう。窓の外なんか眺めていて楽しい?」
勇が話しかけながら、前の席に座る。
咲は窓の外を向いている視線を逸らさずに、
「少なくとも、教室を眺めているよりは」
素っ気無く答える。勇は『そう』と同じく素っ気無く言うと、
「昨日はありがとう。もうすこし遅く咲に腕を引っ張られてなかったら、今度は僕が輸血受ける羽目になるところだった」
感謝を言葉をシレッと口にする勇、どういう訳か、咲はすこし顔を赤くしている。
腕を引っ張った際、勇を自分の胸に押し付けた事を、鮮明に思い出してしまった。
「どうも……」
小声で言葉を返すと、机の上に置いている両手をグー、パー、と握ったり、開いたりを繰り返す。誤魔化しているつもりだ。
勇は手提げの鞄から、国語の教科書と大学ノートを取り出して、机の横に重ねて置いて、最初の授業の準備を済ませる。
そして、勇は後ろを振り返らずに、
「あ、そうそう。すこし前に廊下で朝倉達と話してたら、学校の近場に美術館が出来たらしくてさ、咲は日曜日に用事とかある?」
暇か、と咲に訊ねた。
どこかの路地裏の入り口には、『立ち入り禁止』と書かれた黄色いテープで封鎖されている。
薄暗い路地裏の冷たいアスファルトの地面は乾いた赤い血痕が干上がった池のようになっていて、白いシートで包まれた物体が転がっている。
シートに包まれているのは斬首された女性の死体。そして、カメラのシャッターを押している鑑識と、刑事のような風貌全開の渋いおじさんが佇んでいる。
「奇怪な死体だね〜こんなに、綺麗に首を落とされた死体を見たのは、初めてだ」
「そうですね、普通の刃物では、こんな風には殺せませんよ」
刑事の言葉に、鑑識は反応するように言葉を返す。
「ああ、落とされた首の表情に、苦痛も恐怖もない。一瞬で首を切断出来て、痛みを感じない程鋭利な刃物なんて、実際にあるモノか?」
路地裏の壁に背中を預けながら、刑事は鑑識に訊いた。
「あると思いますが、到底、持ち運べない代物ですよ。レーザーなんかで切断したんなら痛みは感じないと思いますが……」
鑑識の答えを、刑事は途中から代わりに言う。
「それだったら、切断面に焦げる。だが、この死体にはそんな跡はないから、レーザーの可能性は皆無。とりあえず、この女性の身近の人物や出来事を探って、犯人を捕まえるさ」
「それしかありませんからね」
鑑識は最後の一枚になったカメラのシャッターを押しながら、刑事の言葉に賛同する。
咲は窓の外から視線を前の席に座っている勇に向ける。
「日曜日は暇だけど……突然なに?」
「実はさ、その美術館はオープンして数日間、無料でさ。金払わないで見られるから、朝倉達が日曜日に行かないか?って話になったんだ。咲も行くよね?」
勇は咲の質問に答えると、最終確認としてもう一度訊いてくる。
「良いけど……」
咲はすこし首を頷かせて、線の細い声で答えると、勇はニコリと微笑む。
勇の笑った顔を見ると、妙な安心感を覚える。
――と、ここで8時15分のチャイムが鳴り響いて、それからすぐにクラスの担任が出席簿を持って、教室内に入ってくる。
担任の名前は霧島紅葉って名前。霧島は黒板の真ん中のすこし前方にある机の中間に立つと、よく通る何だか弱弱しい声で、
「メガネ君、号令お願いします」
机の上に出席簿を置きながら言う。そして、真ん中の一番前の席のグルグルメガネを掛けた男子生徒が立ち上がり、
「起立!」
咲以外の生徒はみんな席から立ち上がる。
「早朝から夕方まで全力一発!」
どこぞの生徒会長が考えた意味不明の挨拶を、咲以外の生徒は皆、やる気のない声で合唱する。
「着席!」
メガネ『本名・関西光世』君は変に甲高い声で言うと、生徒全員が着席する。
咲は毎朝、この挨拶の光景について、
(馬鹿みたい……)
呆れながら内心で思う。霧島は、はい、と短く言うと教室内を見渡して、出席簿に黙って記入していく。
まだ、席替えなどを行っていないから、見渡せば出席状況がわかる。そのため、名前を呼ばない。
出席簿の記入が終われば、すぐに本日最初の授業がスタートする。
午前の授業は適当にノートに書き写して、説明を聞いて過ごす。もちろん、授業内容は記憶していない。
高校生活で一番楽しくない時間は、授業中だろう。将来あまり役に立たない無駄知識を勉強する必要性はあるのだろうか?例えば護身術なんか、痴漢対策の勉強をした方が実用的で、勉強する価値があるのではないかと、たまに思う。
昼休みはいつも、学校の裏庭で過ごしている。西校舎の裏の裏庭には、一組の青いペンキが塗りなおされたベンチと、日よけ代わりになる大きな針葉樹が数本植えられている。
咲はベンチの背凭れに背中を預け、両手を膝の上に置いて、スースー、と微かな寝息をたてて、気持ち良さそうに寝ている。
針葉樹から微かに漏れる木漏れ日は、地面に水溜りになっている赤い液体を照らしている。
裏庭は咲のお昼寝スポットであり、唯一のプライベートな空間であり、吐血して人目に付かない場所で、寝る前にはここで一度吐血している。
この場所での吐血は、もう既に習慣であり、癖のようなモノになっている。人間の体は食事などを行う毎に、血や脂肪、エネルギーなどを作る活動があり、余分に増えた血はこうして、裏庭で吐き出す訳だ。
一日一回こうして吐血すれば、すこしは吐血するタイミングは操作出来る。
本当におかしな体質だ。
風がすこし吹きぬけて、咲のすこし長めの前髪を揺らした。一時の一番穏やかな時間……。