10話 湯豆腐
「今年の修学旅行(学校主催の合コン?)の場所はハワイです」
担任の霧島紅葉が黒板の前で言った。
私以外の生徒はなぜか、歓声のような声を上げている。
教室内の状況を一言で表すのなら、『騒がしい』、の一言で済む。
やる気のない碧眼が、窓の外を眺めている。
6月になったので、制服は冬服から夏服に衣替えした。でも、ただ紺色のブレザーを脱いだだけで、あまり変わらないので、衣替えした気分は薄い。
本日の最高気温は知らないが、体感気温での予想は29度を表示している。
修学旅行は毎年場所を変える。
去年は沖縄だった……全校生徒で行くので、飛行機は3機に分割する。
いや、享年はほとんど貸し切りだった性か、飛行機代だけで経費を予想以上に消費したらしく、今年は多分、船で向かうのだろう。
昼休みの職員室前を通った時に聞いたので、知っているのだ。
今日は修学旅行の説明が終われば帰れる。
適当に聞き流しているだけ……そして、午後3時50分に終わった。
連絡のためのプリント用紙には、大きな2重丸の中に、『絶対!水着忘れないように!』と誰かの言葉が書かれている。
学校の帰り道に、咲はプリント用紙を両手でクシャクシャに丸めて、車道にポイ捨てした。
左右に分岐するいつもの道に差し掛かった時、突然眩暈のようなモノを覚えて、足がもたつきながら、近くのコンクリートで出来た壁に手をついた。
口からポタポタと赤い血が零れる。本日2回目の吐血だった。
1回目は起きてすぐの事。久しぶりに布団を敷いて寝たから、いつも壁に凭れて寝る癖が悪い方向に働いたんだと思う。
白い制服の袖で口を拭う。
袖は白から赤に変色して目立ってしまうが、絵の具を零したと思えば気が楽になる。
<<聖殿内部>>
「はぁ!?何で俺が人間の監視なんかを!」
大きな斧を肩に担いだ少年が、不満を叫んだ。
「俺だって何かと面倒事があるからさ。『斧の鬼』って呼ばれてるお前には丁度良いかもしれんしな」
ギターを持った男性は面倒そうに頭を掻きながら言う。
『斧の鬼』と呼ばれた少年はマシンガンのように、
「ふざけるな!人間を殺すならまだマシとして、何で人間を監視しなけりゃならないんだ!」
「おや〜?俺は知ってるぞーお前が聖殿の奥で猫を大量に飼っている事」
「なっ!何で知ってんだよ!?」
「人間はダメでも、猫は良いんだな〜?」
ギターを持った男性は嫌な含み笑いを浮かべながら言う。
これには、少年はそっぽ向いてしまう。
「なら、大丈夫だと思うぞ?あの少女は猫が好きみたいだから。それに」
「それに?何だよ」
「いや、監視してればわかってくる。それとな、絶対お前の斧とか剣とかは使うな。あの少女の事だから、返り討ちにしたら泣き続けて大変になるだろうし、殺し合いなんかになったら、確実に怪我はするからな」
はい?
「ゲホゲホっ!!」
伏見の家の台所の方から、咳き込んでいる声が聞こえる。
沸騰している鍋の中には、かつお節でダシをとった湯豆腐があり、咳き込んでいる咲の横では30歳後半の女性が愉快そうに笑っている。
この笑ってる女性は私の母親だ。
伏見の家で碧眼なのは咲だけで、伏見の歴史を辿れば、碧眼なのは過去3人だけだ。
咳き込んでいる理由は、帰ってきたら突然腕を引っ張られ、台所に強制連行されて、突然湯豆腐を口の中に飲み込まされて、その湯豆腐が気管に入った。
「あら?咲ちゃんは本当に詰まりやすい子ね」
この咳き込んでいる原因は母親なのに、顔はすごく馬鹿にしたような含み笑いだ。
咲は一度深く息を吐いて碧眼をジロリと細める。
捻くれた猫のような眼に、母親は引き攣った笑みを浮かべながら、
「も、もう、いいかしらね」
母親がそう言った直後、咲の口からゴポッと赤い血が零れた。
台所の流し場が赤い血で濡れる。咳き込みながら吐血している咲の背中を、母親は優しく片手で摩った。
咳き込んだのは大体10秒くらいで、口を押さえていた片手の手のひらは真っ赤に染まっている。
「咲ちゃん……本当に体には何ともないの?どこか痛いとこないの?」
母親の顔からはもう笑みはなく、真面目に心配しているようだ。
咲は手の甲で唇を擦りながら、
「……大丈夫」
そう短く言うと、何となく顔に安堵させるような笑みをすこしだけ浮かべて見せた。
ポン、と頭の上に手を置かれて、撫でられる。
「咲ちゃんは我慢強い子だったからね」
母親はそう言うと、ニコリと笑って、
「でもね、辛い時は我慢する必要はないのよ?痛かったら痛いと言えばいいし、辛かったら辛いと言えばいい」
変に説得のある落ち着いた声で言う。
そして、母親は何かを思い出したように。
「そういえば、そろそろ修学旅行よねー今年は水着を選ばせてもらうわよ〜♪」
怪しい含み笑いを浮かべながら、ふふふっ、と笑う。
咲は何も言わずに、ため息を吐いて肩をすこし落とした。