(五)
エピローグ
「帰ったよー」
「おかえりー って、え? は? ……うん、おかえり。」
相変わらず営業意欲が感じられない洋菓子店へ、私は一週間ぶりに顔を出した。店主は少し驚いて、それから大きく驚いて、ようやく落ち着いて言葉を返す。
「なんだ、帰って来たのか」
「兄さんに会いに行っただけだよ。そりゃ帰ってくるよ」
心の底から不思議がる河野の様子こそ不思議である。首を傾げながら、私はカウンターの定位置に座った。
週に一度の来店ペースはいつもと変わらないけれど、今回はその間ずっと、兄の元へ身を寄せていたことを河野も知っている。
「武田さんと一緒に向こうに行く! なんて切り出したから、ついに安藤にも春が来たとばかり」
「それはない。武田さん、故郷なしだもん」
「どういう意味だ?」
「一ヵ所に定住なんて出来ない人。逆に私はこの街から離れられない人。」
「遠距離だっていいじゃないか」
「どうして、無理やりそっちに持って行きたがるかな」
そんな選択肢、私だって思いつかなかった。河野の想像力に驚きながらも、私の声音は自然と不機嫌な色になる。
「お前の口から男の名前が出るなんて珍しかったから、気に入ってんのかと思った」
「それはそれ、これはこれ、でしょ。確かにね、良い人だよ武田さん。次の約束しちゃった」
「次?」
「この街の資料、ここだけじゃ物足りないらしいよ。秋にでも連休とって、今度は東北に行くって言ってた。津軽・下北をレンタカー借りてグルリだって。詳しく解ったら教えてもらうの。河野も、街の歴史に興味持ってたでしょ」
「……安藤、お前、そういうことこそ、自分の足を使えって」
「同類に言われたくないわよ内弁慶」
「誰が同類」
そこまで言って、互いに顔を見合せて笑った。この話題は、ここまでにしておこう。
「パティシエさん、今日のオススメはなんですか?」
「ん、季節のフルーツを包んだクレープ。抜群に合う紅茶を淹れてあげよう。待ってなさい」
「はーい」
私は椅子の下で足をバタつかせながら、良い子の返事をする。
帰って来たんだな。
都会の空気もたまにはいいけれど、私にはやっぱり、潮風が良い。
洒落たカフェもいいけれど、流行りのスイーツも悪くないけれど、勤め先で飲む珈琲が好き。河野の作る洋菓子が好き。この街で過ごす飾り気のない休日が好き。
「故郷を離れるのは、故郷に帰ってくるためなのかもね」
シュンシュンと音を立てるケトルを眺めながら、私は誰に言うでなく呟いた。
耳には、向こうで会った兄の声が残っている。
『迎えに来てくれてありがとう』
少し困った風に、それでもちっとも厭そうではなかった。武田さん曰く、照れていたのだそうだ。遠くの親戚より近くの他人。武田さんの方が、よほど兄を理解しているようで、何だか悔しい。
嫉妬はさておいて、そんな所が、私達は血の繋がった兄妹なのだと感じさせる。予想外の展開に弱く、それでも強がって平静を装うのだ。バレていないと思っているのは当人同士だけ、というのが実に性質が悪い。
考えてみれば、兄が暮らすのは都会なのであって、田舎街暮らしの私が観光がてら遊びに行ったって不思議はない。けれど、私は八年間、拒み続けていた。
両親の事故を引きずっていたこともある。
兄が帰ってくるのが先。そんな意地も張っていた。きっと、兄も同様の思いを抱えていて、帰郷はできないけど遊びにおいで、の一言を切り出せなかったのだ。
意地っ張りで不器用な、似たモノ兄妹。
妹の私が先に気づいたのだから、来年こそは、帰ってきて欲しいな。盛大に出迎えてあげよう。
「どうぞ。渋みが少なめのスリランカティーでございます」
花のような香りが目の前に差し出され、そんな思考を中断させる。
「ヌワラエリヤだね。 良い香り!」
私の反応を見て満足そうに、河野は目を細めた。
「昨日、安藤のとこのオーナーさんが届けてくれた」
「本当? なんだ、そっちだって仲良しじゃない」
「馬鹿言え」
美人さんのオーナーは、私の兄よりも年上である。そこらの男性より男前な性格だから、女々しいところのある河野にはお似合いだと思うんだけどな。
茶化してそう話すとキツく睨まれて、それから黄金色のクレープをカウンターに乗せてくれた。
「美味しそう ……あ」
はらり。フォークを片手に皿を見下ろしたところで、私の肩から猫の毛が舞い落ちて、クレープの上に着地した。
「お客さん、後乗せのクレームは困りますよ」
「しないよ。やだなぁ、来る時に散々、払ったのに」
どれだけ気を配っても払いきれないしつこさは、私の故郷への執着に似ている。そう考えると、なんだか可笑しかった。
「可愛い猫が居る限り、やっぱり私はここから離れられないね」
「それは結構なことで。」
気まぐれな猫のような河野は、肩をすくめて応じた。
チカリ、波打ち際で輝く金貨。
遠く離れた場所から視認しかできないそれの正体が何であるか、私は解ったような気がした。




