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(四)

 伯母の後ろ姿を目で追うこともできない私の前に、武田さんがそっと座った。帰るタイミングを逃してしまっていたらしい。

「政先輩、帰らないんですね」

 帰れない、のではなくて。そうニュアンスを含めた言い回しに、私は無言で頷いた。

 私の幼少の話をよく聞かせるくせに、親の話題は回避するという兄の事情を、武田さんなりに推測したようだ。

 私は正解を話さなかったけれど、本当の答えは兄しか持っていないから、そのままで良いと思った。

「兄にとっては、向こうが故郷になっちゃってるのかな 仕事があって、友達が居て、充実して、満足しているんでしょうか。田舎は、煩わしい事ばかりだから」

 震えそうになる声を必死に抑えて、できる限り自嘲気味に響くよう、意識する。幼稚な泣き言にならないように。

 あぁ、それでも無理かもしれないな。真っ直ぐに相手の瞳を覗きこむこの人には、どんな虚勢も無駄なのではないかとも、心のどこかで感じる。

「スエコさん」

 困ったような声音で、武田さんが呼び掛ける。ただそれだけで、その先に言葉は続けない。

  ……チカリ、チカリ

 胸の奥、揺らめく感情の波打ち際で、痛みを伴って煌めく何か。

  チカリ、

 神経を澄ませて、それが何であるのか探る。

 大切な、大切だと思う何か。目を反らし、それでも手離すことはできなかった何か。

 温かな記憶。戻すことのできない時間。

 みっともなくしがみついて、それに縋って、拭い切れない後悔と罪悪感とない交ぜになり、それでも

「兄さんに、帰ってきて欲しい。やっぱりこの街が一番だなって、言われたい。

 いつになってもいい、帰る場所をそのままにしておきたいんです」

 帰る場所はここにあるのだと、伝えておきたい。兄は、そんなもの、とうに求めていないのかもしれないけれど。

 どうしようもない意地だと解っている。それを、兄が察しているだろうことも解っている。だから私は兄の帰りを待つしかできない。

 兄が、「待たなくていい」と言うそのギリギリまでは、待っていたいのだ。

「…………」

 店内に、重い沈黙が流れる。

 気を遣ってくれたオーナーが、武田さんの食べ終えたプレートを下げ、淹れなおしたコーヒーを差し出す。普段はここまでしてくれない。尋常ならぬ空気を察してくれたらしい。うう、今日の私、役立たずだ。

 やがて、考えながらの風で、武田さんが口を開いた。

「どうしてかなぁ 僕らの仕事は――…… えぇ、僕を見て頂いてお分かりの通りなんですけどね。ある程度、休み希望は融通が利くんです。政先輩は有休も大分たまっているようなのに、まったく故郷へ帰りたがらない。そのくせ、妹さんから連絡一つないとぼやくんです」

「……兄、が」

 想像ができなかった。

 決して不仲ではないけれど、子供の頃からベタベタした関係でもなかった。

 今では互いに自立して生活しているわけだし、連絡と言ったって親の法要に関する程度。頻繁に伝えるような地元のニュースだなんて目立ったものは特にないし。

 むしろ、親の存在が唯一の繋がりであり、障害でもあった。

 考えてみれば、電話を掛けるのはいつも私で、兄の方こそ連絡一つ寄越さないではないか。

 呆れてしまい、全身から力が抜けた。

「故郷に帰る・帰らないって問題ではなくて、その、上手く言えないんですけど」

 故郷を持たない武田さんが、精いっぱいの言葉を探す。きちんと聞きとろうと、私は彼の瞳を見据えた。

「帰れる場所がある、って、思えるだけで、強くなれたりするものですよ。帰りを待ってくれる人が居るのなら、尚更です」

「待っている方は辛いんですよ」

「……先輩に伝えておきます」

 神妙に目を伏せる武田さんの様子に、今度は私が声を出して笑った。武田さんてば、自分は何も悪くないのに、すっかり巻き込まれてしまっている。

「それで武田さんは来てくれたんですか? 兄の代わり? それとも興味本位?」

「最初に話したでしょう、僕の目的は、これ」

 気を取り直し、人畜無害の笑みを浮かべて、武田さんはこの数日間でまとめたレポートを掲げた。つまり、自分たち兄妹ではなく、ごく個人的な興味を満たすため、この街へ来たのだということ。

 本当に本当に、家を訪れたのは、挨拶程度の気持ちだけ。

「……ははっ あはは ……そっかぁ」

 難しいことなんて何もなかった。

 どの答えがベストかだなんて、他人に決められるものじゃない。

 自分自身がそう言ったはずなのに、周囲からの声が怖かった。いつだって怖かった。

 全ては幻聴に過ぎない。私は私の、望むように生きていればいいのに。

「武田さんは、いつ、あちらへ戻るんですか?」

「……本当に、僕の話はどうでもよかったんですね。話しましたよ、有休は一週間。もう三日後には列車に乗ります」

「そう、……そっかぁ」

 裏表のない言葉を、笑顔で包んで伝える武田さんが、何となく眩しい。いいな。素直にそう思う。

「私も、行こうかな」

「……はい?」

「同じ列車で。兄さんが帰って来ないんだったら、こっちから行くってのもアリですよね」

 胸の中で、チカリ、煌めいて爆ぜる感情がある。

 いつも追ってばかりだった兄の背中。けれど、私だって小さな子供のままじゃない。

 歩み寄って駆け出して、その正面へ回り込んだなら、あの人はどんな表情をするのだろう?

 八年前、同じようにして兄の元へ向かった両親が、事故で他界した。その事がずっと、私の行動を制限していた。けれど、いつまでも縛られていたってどうしようもない。縛られる必要なんてないのだ。自分に枷を嵌めているのは、私自身なのだから。

 家族四人で過ごした暖かな記憶は嘘じゃない。けれど、戻らないことも、受け止めるべき現実だ。そして形は変わっても、兄妹であることに変化はない。

「向こうでの兄さんの話、たくさん聞かせて下さい」

 はっきりそう告げると、喜んで、と悪戯っ気たっぷりに武田さんは応じた。

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