(三)
猫を飼いながら、食品に携わる職に就く難しさを、働き始めてから痛感している。
どれだけ気を配っても、猫の毛という奴は体のどこかに付着するのだ。
これといった制服のない店だったので、最初のうちは私服のまま働いていたが、髪の毛一本入れば大騒ぎと言う業界で、猫の毛が入るというのは論外である。
ランチタイムにそんな騒動があろうものなら、そのまま帰らせられることもあった。
自宅に「猫立ち入り禁止」の部屋を用意してみたが効果は薄く、今は職場のロッカーに仕事用の衣服をストックしている。こんなことをしているのは私だけである。
それでも猫を手放そうとか、職を変えようなどといった選択肢は出てこない。
どちらも私の生活に欠かせない、愛しい存在なのだ。「叶えるべき夢」ではないけれど、「譲れない大切なもの」ならば、いくつでも挙げられる。ふとその事に思い至り、胸の奥がくすぐったくなった。
これはこれで、私は結構、幸せなのだ。
それを「充実」と呼ぶのかもしれない。
チカリ。
着替えを終え、オープン前のカフェを掃除していると、窓から見える海岸に煌めく何かがあることに気づいた。
波打ち際で揺ら揺らしながら、時折、日差しを反射してチカリと輝く。
なんだろう。綺麗だな。
空き瓶か何かのゴミの類だろうか。
そう考えるのが現実的だけれど、どうせだったら金貨が良い。外国製の、キラキラしたの。
専門学校の卒業旅行で欧州へ行った時を思い出す。余ったコインは日本円へ換金せず、記念としてジュエリーボックスにしまってある。
「安藤さん、どうだった?」
「え、あ、なんでしょう」
ぼんやりと窓の外を眺めていると、不意に調理場に居たオーナーから声をかけられた。
Tシャツにジーンズ、頭には日本手ぬぐいを巻くという適当な格好の河野とは違い、こちらは女性ながらビシッと白衣を着こなしている。料理は趣味だが接客が苦手という彼女は、進んで調理場から出てくるということはほとんどない。せっかくの美人さんがもったいないと思うが、お陰で私は、長いこと調理補助兼接客役として雇ってもらっている。
「河野くん、お菓子、作ってくれそう?」
「あぁ……。うーん、やっぱり未だ、難しいようです」
「作り置きできるようなもので、売り切れ御免! でもいいんだけどな」
オーナーの専門分野は料理であって、菓子は一通り作れるものの手が回りきらないそうだ。
なので、私が河野から分けてもらったロールケーキを持ってきた時、「彼が欲しい」と開口一番に言ったのだった。それ以来、なんとか彼の菓子をこの店に置こうと画策しているが、河野の返事はいつも「ノー」である。
「焼き菓子類でも、作りたてが一番らしくて、冷凍保存は論外なんですって。適した設備があれば別ですけど」
そして一軒への卸だけで生活できるようなものではなく、かといって責任を負う身で仕事の掛けもちは無理である。長く続ける、という視点に立った上で、河野はそう回答していた。
「そう来るかぁ。そうなのよね。うーん、ますます欲しい」
観光地区の外れにあるこのカフェは、眺めは良いものの、客の入りは浮き沈みが激しい。
鮮度命の洋菓子を専門的に受け入れるのは、少し難しい。もちろん、作り置きできる類だってあるけれど、そんなラインナップじゃどこにでもあるオシャレカフェと差がなくなってしまう。
河野の略歴は、オーナーにも話しているから、無理強いできないことも知っている。それでも河野の菓子が良いのだと、カラリと笑って言い放つ彼女が、私は大好きだ。
チカリ。視界の端の波打ち際で、再び何かが煌めいた。
綺麗だな。
快活に笑うオーナーも、真っ直ぐな信念を持つ河野も。
そんなことを考えながら、私はカフェの外に出て、オープンの看板を出した。
晴天に、少しくすんだ白い外壁が映える。ちょっとアンティークな建物は、今日も素敵だ。
普段よりちょっと忙しいランチタイムを終え、カウンターの片隅で休憩を取る。
賄いを食べ終えようとした時に、来客を告げるドアベルが鳴った。
「すみませーん、何か軽く食べるもの、 って、あ、スエコさん」
「武田さん。いらっしゃいませ」
訪れたのはちょっと意外な人物。このカフェは彼が巡ると言っていた資料館関係からは離れた場所にあるけれど、観光での散策なら範囲内だ。
私よりも、武田さんの方が驚いていたのが可笑しい。そうか、カフェで働いている、というのは伝わっていても、それがどこかという情報は無かったんだ。そういえば、私も話していなかった。
「ランチタイムは終わりましたけど、こちらのセットなら用意できますよ」
「あ、じゃ、それでお願いします。えーと、珈琲は食前で」
「かしこまりました」
笑いを噛み殺しながら、調理場へオーダーを通す。それから珈琲の準備を始めた。
「資料、集まりましたか?」
狭い店内、他にお客もなし。カウンター越しに声をかけると、武田さんは視線を窓辺からこちらへ向け、先日と同じく明るい笑顔を見せた。
「そうですね。昨日で大体巡り倒して、今日は息抜きです。明日からは図書館に行ってみようかと」
「あぁ……。たしかに、あそこなら違った資料もありそうですね」
「調べる部分も、絞られましたしね」
「へぇ? この辺りの資料館も、お役に立ちましたか?」
意外だった。初めに聞いた限りでは、武田さんの欲求を満たすようなものはなかったように考えていたけれど。
「面白いようにね、一定期間の文献がすっぽり抜けているんです。後ろ暗いという自覚がはっきり見えて、良いですね」
「……良い性格をされていますね」
「よく言われます」
毒のない笑顔。けれど、毒気たっぷりの言葉。「悪い奴じゃない」という兄の評が脳裏を掠めて、馬鹿正直に信じてはいけない類の人なのだと認識を改める。
悪人ではない、でも善人でもない。そんなの、誰だって同じだ。良い人だ、と信じるのは、疑うのを放棄すること。何を考えているんだろう、と探るくらいで、きっと人付き合いは丁度いいのだ。
「勝ったの負けたの、そういった事に拘るのは、もうそろそろ終わっても良いんじゃないかと思うんですけどね」
淹れたての珈琲を差し出すと、さっそく口元へ運びながら、武田さんは呟いた。
「歴史は難しいなぁ」
だから解き明かすのが楽しい。推論であっても、自分なりの答えを見つけるのが楽しいのだと、武田さんはここ何日かで集めたらしい資料を開いた。
「私なんか、自分の歴史すら、どんなものなのか解りませんよ」
印象深い人生なんて送っていないもの。私が応じると、武田さんは「おや」という表情でこちらを見上げた。
「じゃあ、僕の方がスエコさん情報を多く持っていたりしますか」
「それはありません。兄の主観でしょう、絶対に偏ってます」
「ははは 確かに。先輩、スエコさんの可愛い話ばかりですもん」
「……。あの人、何を吹き込んでるんですか」
「話しましょうか」
「……遠慮しておきます。そして、他の誰にも話さないで下さいね」
武田さんの瞳の奥に悪戯めいた輝きを感じ取り、私は一歩、後ずさる。タイミングよく、ランチの出来上がりの呼び鈴が鳴り、私はカウンターへと足を向けた。
武田さんがランチを食べ終え、席を立った時だった。
カラン、とドアベルの音。
レジへ向かっていた私は、反射で首を捻り、「いらっしゃいませ」と声を出す。
「季ちゃん。久しぶり」
「……伯母さん」
親代わりに、何かと世話してくれる、父方の伯母だった。
「政くん、今年も戻らないんでしょう」
その一言が聞こえたのだろう、武田さんは一度浮かせた腰を、そっと下ろした。
「連絡が来ないところをみると、やっぱり今年も季ちゃんに押しつけようってのね」
「紅茶でいいですか?」
話の流れを切り、武田さんとは離れた席へ案内する。伯母はその事に疑問も抱かず、兄に対しての愚痴をこぼしながら椅子へ腰掛ける。振り向くと、オーナーが紅茶の用意をしながら、心配そうにこちらを見ていた。大丈夫です、と視線を返して、私は伯母の向かいの席へ着く。
身内に関することで伯母が来店する時は、空いている時間を理解した上なので、そのまま私が話し相手となることが許されていた。もちろん、途中で他のお客様が来れば話は別であるが。
「政くんだって、仕事が忙しいといっても、いい加減にちゃんと家の事を考えなくちゃいけない年齢だっていうのにね。全部押し付けられて、季ちゃんが可哀相よ」
「私が好きでやっていることですよ。あの家だって、まだまだ住めるし。元気にやってます」
「そうは言っても、あなたにはあなたの幸せがあるでしょう。居ないの?良い人。だったら伯母さんのね」
「ところで法要の日取りなんですけど」
強引に話を切り替えたところで、背後で吹き出す気配がした。武田さんだ。笑うところじゃありませんっての。
「兄は、ちゃんと連絡してくれていますよ。今はまだ、帰ることが出来ないって言ってました。仕事を抜きにしても、仕方のないことだって私も理解しています。……仕事に打ち込むしか、無いんじゃないかな」
「ほら、そうやって甘やかす」
「甘やかしてなんかいませんよ。もらう物はもらっていますから。」
また笑い声。もう!
「長男だとか家だとか……。もっとじっくり話す機会があったなら、それなりだったんでしょうけど、私たちの家の場合は、そんな暇もなかったし。なぁなぁですけど、しばらくはこのままでいいと思っているんです」
「そうやって八年でしょう?どんどん、戻れないところまで行っちゃうわよ」
「……考えてます。心配かけて、ごめんなさい。伯母さんに、お世話になってばかりなのに」
あぁ、この会話を河野に聞かせてやりたい。
柔軟? 順応? 八年掛けても、押し問答の内容は変わらない。
頑ななのは、私の方も、なのだろうけど。
だって、譲れない。譲れないし、無理強いもしたくない。古い風習を、無理やり押し付けないで。選択肢を減らさないで。
そう思う私は、やはり子供のまま、時間が止まっているのだろうか。間違っているのだろうか。
それきり私が俯いてしまったからか、伯母は紅茶を飲み終えると、法要に関しての打ち合わせだけ簡単に済ませ、立ち去って行った。




