(一)
潮風渡る北海道の一観光都市で、私は生まれ育った。都市とは名ばかりで、田舎染みた港街だと思うのだけれど、幸いなことに観光に来るお客様は「レトロで素敵ね」なんて好意的に受け取ってくれている。
物は云いようだな。その前向きな思考は、是非、見習いたいと思いながら、海岸を見下ろすカフェで私は働いている。
週に一度の休日の朝。
けたたましいチャイムの音と共に、私は目を覚ました。
小さく呻き声を上げながら、手元の携帯電話で時間を確認する。午前八時。宅配便が届くような時間ではない。
ご近所付き合いと言っても、すれ違えば挨拶を交わす程度。こんな時間に訪ねて来るような友人にも心当たりはない。そして、すぐさま対応できる身なりでもなし。
私は寝返りを打ち、そのまま居留守を使うことに決めた。
軽く開けていた窓から、朝の涼やかな風が滑りこんでくる。季節は初夏から夏へと頃合いを変えていて、きっと今日も暑くなる。そんなことを考えながら、まどろみの淵を楽しむ。
……さん、スエコさん!
しかしその甘ったるい気分も、風と一緒に舞い込んできた男の声で霧散した。
「お留守ですか、スエコさーん!」
スエコ、そう私を呼ぶ男性は、身内以外に居ない。
反射的に跳ね起きて、寝ぐせだらけの髪も気にせず、窓を大きく開け、外を覗いた。
「あ、スエコさん」
見下ろした先、玄関の前で、やたら人懐っこい笑顔の青年が、連打するチャイムの指を止めて、こちらを見上げてきた。
その姿に見覚えは無い。声の時点で解っていたことなのに、落胆してしまう。
「……どなたですか?」
私は二階の窓から、寝起きで掠れた声で尋ねた。
「お兄さんの、……政さんの、会社での後輩です」
朝の爽やかさを体現するかのように、彼は歯切れよく答えた。
年の離れた兄といえば、故郷であるこの街から列車で三時間ほどの都会で暮らしている。
両親が亡くなってからも、年に一度の法要にさえ滅多に顔を出さないような人。
スエコ、と。私を呼ぶのも、今はそんな兄しかいない。
甘く懐かしい、幼い記憶が甦り、チクリと胸を刺す。
「どういった、ご用ですか?」
「連休で立ち寄ったものですから、ご挨拶をと思いまして。」
連休……ゴールデンウィークの連休をずらしたのか、盆休みの前倒しか。いずれにせよ、今は完全にイベント事のない平日だ。
兄の会社の詳細は知らないし、兄からそんな後輩が居るとも聞いていないし家に来るとも聞いていない。とはいえ、この時間ならば兄は出勤途中だろうから確認の電話をかけるのも憚られる。
私は一つ唸り声を上げ、肩上で揃えた髪をかきあげる。短い直毛のくせに絡まりあって恰好がつかないのは、この際、仕方がない。
「十分、待ってください。待てますか?」
「あ、はい、それはもう」
返事は声だけで確認し、私は自室の窓を閉めた。
こんな時間じゃ、近所には営業している喫茶店もない。
女の一人住まいに初対面の人間を上げるのは気が進まないけれど、昔の呼び名を知っているような人なら、大丈夫……たぶん。
「いざというときは、頼むよ」
着替えを片手に部屋を出ると、ドアの前で丸くなっていたキジトラ模様の飼い猫が、気のない声を返した。
簡単に身支度を整えてから猫へ水と餌を用意してジャスト十分。私は玄関のドアを開けた。
「おはようございます。お兄さんに会社でお世話になっています、武田と申します」
「兄が……お世話になってます 安藤季です」
兄はシステムエンジニアとして、IT関連の企業に勤めている。デスクワークがメインの部署だと聞いていたが…、そんな職場に似つかわしくない体育会系の体躯の青年に、私は僅かながら気圧された。窓から見下ろした時には気づかなかったが、縦にも横にも大きい。連休で訪れたと言う割に荷物が少ないことから、旅慣れた印象を受ける。
小ざっぱりとした身なりと、人好きのする笑顔が、威圧感を薄れさせていた。
「すみません、寝起きなので珈琲くらいしか出せないんですけど」
「いえ、こちらこそ急に押し掛けたものですから。……その、お兄さんから聞いていませんでしたか、今回の事」
「えぇ……」
何も。そう続けようとした時、ジーンズのポケットに突っこんでいた携帯が震えた。
このタイミングでまさか、と思ったけれど、案の定、兄からのメール着信だった。
「……。たった今、来ました」
「あっはは、相変わらず酷いな、政先輩」
「相変わらず……ですね。」
幼い頃から、思い立ったら即行動・少しでも貯めておけば即忘却。そんな極端な人だった。
進学のため故郷を離れると決めた時も、そのままそこで就職を決めた時も。結婚を決めた時も、直前で破談となった時も。
いつだってあの人は、一人で生きている。進んでいる。周囲は後からついてくればいい、そんな背中で進んでいく。
そして私は、いつだって追いかけることもできずに置いてけぼりなのだ。
そんな兄は、今も変わらずにそのままの姿で働いているというのだろうか。武田さんの言いようが可笑しくて、肩から力が抜ける。
「どうぞ、上がってください。」
今度こそ、私は真っ直ぐに武田さんを見上げた。
「あ、でも、お仕事は」
「今日は、定休日なんですよ」
そうか、私が仕事へ出る前に一言だけ、というつもりだったのか。それにしたって、微妙な時間ではあるけれど……
丁寧なのか、間が抜けているのか。
初対面で簡単に判断するのは甘いかもしれないが、それでも悪い人には思えなかった。
「武田さん、出身はどちらなんですか?」
珈琲カップの用意をしながら、尋ねる。
用句に問題は無いのだが、どこかおかしい発音が気に掛かっていた。道内でないことは解るが、あとは西とも、東北ともつかない。それら全てを少しずつ搔い摘んだようなイントネーション。
来客用の椅子に腰かけていた武田さんは、軽く首を捻る。
「出身。出身ねぇ。就職前だと秋田が一番長いかな。あ、大学なんですけど」
親が転勤の多い職業だったので、故郷らしい故郷がないんです。そう付け足した。
ちなみに、就職先は仙台で、一年目で大阪へ転勤となり更に翌年は名古屋、その後、今の場所へ飛んで来て以来、兄と同じ部署で働いているということだった。
大卒で就職して……。指折り数えて計算して、自分より年上であることに驚いた。三十を越えている。せいぜい、一つや二つの誤差だろうと踏んでいた。若々しい、というより、もはや幼いに近い顔立ちとなるのだろうか。
「ですから、先輩からこの街の話を聞くのが、すごく楽しくて。以前から、是非、訪れたいと思っていたんです」
笑みを絶やさず話を続ける武田さん。私は思わず、カップを取り落としそうになった。
「兄……、話すんですか?」
「えぇ、それは勿論。スエコさんの話もよく」
ガッシャン
今度こそ落とした。
「スエコさん?」
驚いた武田さんが腰を上げるが、大丈夫と制し、落としたカップを流し台へ持ってゆく。我が家には高価で華奢な食器は存在せず、床に落としたくらい、なんてことはない。
「嫌っているんだと、思っていました」
「え?」
「兄です。この街も……この家も、私の事も」
「まさかぁ」
武田さんが直ぐに否定するところをみると、本当に兄は、楽しい思い出を話して聞かせているのだろうか。それとも無理やり美化しようとしている?
「僕は兄弟が居ないから、とても羨ましく思っていましたよ」
「そうですか……」
「そういえば、ご両親は?ご旅行にでも?」
「え? ……」
「先輩、スエコさんの話はたくさんするんですけど、親御さんの話題が無いんです。
聞いても、いつもはぐらかされて。あのへそ曲りを育て上げたご両親にも、是非挨拶をしたかったのですが」
開いた膝に両手を乗せて、身を乗り出す彼の表情に悪意など微塵も感じられない。へそ曲がり、と実の妹を前にして評する様子にも、含みは一切感じられず、そして妹自身もあの人の曲がった部分を承知しているものだから聞き流してしまう。
あぁ、兄さん。あなたって人は。
許していない?悔んでいる?何を考えているのか分からない。背中を向けられたままじゃわからない。
「両親は、他界しています。八年前、交通事故でした」
そこで、ようやく武田さんの顔から笑みが消えた。
「兄が、それを気にするような神経の持ち主だったら、それはそれで安心しました」
逆に、今度は私が表情を和らげる。それは本心から出た言葉だった。
珈琲を差し出しつつ、そこから無理やり話の方向を変えた。
連休と言っていたから、どのくらい滞在するのか、その間、何をするのか。
すると再び、彼に明るさが戻る。むしろそれが本題だったのだと告げる。
「スエコさんは、ずっとこの街に住んでいらっしゃるんですよね」
「えぇと、まぁ」
一年間、関西の専門学校へ進学したけれど、六月の時点でご当地の暑さに白旗を上げ、就職は地元に決めた。それきり、私はこの街から出ていない。就職当時は職場の近くに一人暮らしをしていたが、親の死をきっかけに、実家へ戻ってきた。だから、この家は、一人と猫一匹で住むには些か無駄が多い。
「僕、郷土資料館を巡り倒したいんです。
オススメの場所とか、効率のいい順序とか、ご指南いただけますか?」
それはまた、年の割りに、珍しい趣味だ。
もっとも、「歩く・観る・食べる」が基本行動の街である、正しい選択だとも思えた。
特定の故郷を持たない武田さんは、故郷というものに憧れ、まとめて有休を取っては旅行の先々で郷土史を学ぶのだという。
インターネットや図書館で下調べをして、あとは現地の風を感じる。そうすることで、なんとなく、そこに息づく思いを汲みとるのだ。熱っぽく、そんなことを語る。
「浪漫ですよ、浪漫。特に、この街は面白い」
「あぁ。異国情緒がどうとか、言われますものね」
私は関西の学校へ通っていた頃、寮住まいだった。つまり、現地外の学生たちが集うのである。笑ったのは、神戸横浜長崎、それぞれの出身の子たちも、地元のキャッチフレーズが同じ、「異国情緒のあふれる街」だったこと。
使い回されたフレーズは、どこへ行っても効果抜群であることが可笑しかった。
「いえいえ、そこではありません。スエコさんは、幕府介入以前の、こちらの歴史をご存知ですか?」
「……は?ばくふ?」
全くもって予想外の切り込みに、私は言葉を失った。
「視点が変われば事情も変わりますでしょう。
この土地は、日本史においても一つの要だったのだと思っているんです」
「要、ですか」
「日本史なんて持ちだすと、大袈裟ですけどね。北海道も中心地まで行くと、開拓の話しかない。いえ、もちろんそれだけではありませんけど、歴史としての花形はそこでしょう。いかに厳しい大地を切り拓いたか。新しい歴史を築きあげたか。それはそれで結構です。ですが」
あぁ、私は何か、いけないスイッチを押してしまっただろうか。武田さんの熱い語りが止まらない。
「切り拓いたということは、切り拓かれた側が存在している、そういうことです。そしてなにより、始まりはこの土地だった」
「……ここ?」
「古い文献にも出てくるように、この辺りは本土との交易の玄関口でしたから。それがやがて、国の統治する藩として確立するんですけどね。僕としては、それ以前、和人とアイヌが混在していた頃の事を知りたいんです」
玄関口。
天然の良港と言われるこの港街は、よくそう表現されてきた。
日本海を駆け巡る北前船、そして鎖国から開国へ。自分の知る、この街の華やかさと言えばその辺り。
それよりもっと古く、となると……
「武田さんの知りたいようなものは、この街の資料館では手に負えないかもしれません」
長いこと、この街に暮らしてきたが、藩史以前を扱う資料館となるとアイヌ民族や土器の時代まで飛んでしまう。
混在時代の資料……など、あっただろうか?
華々しい、まばゆい思い出。都合のいいことを美化して、大切にして、辛いことには目を伏せて。
……それは
何のことだろう。誰の、ことだろう。
喉を通るコーヒーが普段より苦く感じる。
「それはそれで、興味深いですよ。勝者が何を遺そうとしたのか、それも歴史の側面ですから」
「勝者?」
「歴史は常に、勝者と敗者に分かたれる。勝者は、敗者の記録を消し、自分に都合のよいものに作り替え、後世へ伝える。自分の権勢が続くようにね」
「そういう……ものでしょうか」
「そういうものなんですよ。誰だって、自分に都合の悪いことは消してしまいたい。正当化したいものですからね」
自分に、都合の悪いこと。
「誰だって、……だなんて、そんな、ひと括りに」
「あぁ、言い方が悪かったのならすみません。僕の個人的な見解です。気になさらないで下さい」
ただまぁ、そんな裏事情も覗きたくて、どんな形であれ資料があるのなら僕は知りたい。武田さんはそう結んだ。
「一週間……。結構、滞在なさるんですね」
「長期滞在用の宿は、政先輩に紹介して頂きました。ここです」
宿のホームページを印刷してきたものを、武田さんは取りだした。この家からも徒歩圏内の、海岸沿いにある民宿だ。観光地区の足掛かりに、良い立地である。
「大したおもてなしも、情報提供もできなくてごめんなさい」
「はは 謝らないで下さい。唐突に押しかけたのはこちらです」
「どうぞ、良い旅を。何もない街ですが、のんびりしていって下さいね」
せめて掛けてやれる言葉はこの程度だ。
私も明日から仕事だし、もう連絡を取ることも無いだろう。
「えぇ。それでは。」
初めての街だろうに、揺らぐことなく真っ直ぐ進む背中を見送りながら、私はようやく起きてから何も食べていないことに思い至った。
居間へ戻ると、猫はすでに出窓で昼寝体勢へ入っている。来客があると落ち着かない性格なのに、武田さんの事は無害と判断したようだった。
遅い朝食を済ませたら、友人の元を訪ねよう。話を聞いてもらいたい気分だった。




