逃げ出したい…、でも父と母のために戦おう
その後、友達が人を紹介してくれて、その人たちが対策を練ってくれた。すぐにでも兄が何かもくろんで話し合いを申し入れてくるのではないかと、私は気が気ではなかった。友達は家の権利証と実印、印鑑証明書を銀行の貸し金庫に預けるか、家のどこかに隠しておくようアドバイスした。私はいろいろ考えた末、部屋の奥深くしまい込んだ。どんなに家中ひっくり返しても絶対見つかりっこないところ。もし、兄が私の留守中に勝手に家捜しでもすれば、警察に通報するつもりでいた。
一週間もすると、母はあの日何があったかをきれいに忘れていた。泣いたことだけ覚えていると言った。あれほどの出来事をまさか忘れるなんて……。いつ忘れたのかは分からない。次の日だったかもしれないし、丁度忘れたころに私が聞いたのかもしれない。感情だけは残るらしい。なんとも、情けなかった。
「これこれ、こういう事があったでしょ」と一から繰り返さなくてはならない。思い出すたび、心臓は早鐘のように鳴り、涙が溢れるのだ。
ここから、私の戦いが始まった。
友達が紹介してくれた人は長年大手銀行に勤め退職、今は十人ほどの成年後見人をしているという高崎氏だった。初めは、私自身が成年後見人になってはどうかと言われたが、表には立てるはずがない。私はこれから先、金輪際兄たちに会うつもりはない。何より恐ろしい。高崎氏も「これは簡単な問題ではなさそうですね」と言い、親身になって考えてくれた。そこで、父も母も認知症とはいえ、まだ完全に物事が分からなくなっているわけではないので、父と母に遺言書を書かせるのがいいだろうということになった。高崎氏の知人である司法書士の斉藤氏に遺言執行人になってもらうことにした。公式の遺言書を作成するには証人二人が必要で、それには両氏がなってくれることになった。
司法書士の斉藤氏のところへも直接出向き、兄との経緯を説明した。母が病弱の身で兄の暴力から身を挺して守ってくれたことを話しているうちに涙ぐんでしまった。
「お兄さんは何か病気ですか?」という斉藤氏に私は目を瞠った。
「いや……。どうでしょうか?」
「脳の病気で激昂し暴力的になる場合がありますよ」
ああ、他人が聞けばそういう風に考えるのか。やっぱり普通ではないのかと思った。私はすべての結果には原因があるという言葉を信じている。こうまで兄に憎まれ怒鳴られ、苦しめられる原因は自分にあるのではないか。悪いのは私のほうではないか。こういうことをされるほど悪いことを私はしたのだろうか。そういう思いで、私は私自身を責めてしまう。しかし、斉藤氏のこの話を聞くと、自分を責めることはなかったのかもしれないと思う。
「本当は何もかも放り出して逃げてしまいたい思いなのですが、それでは父や母がかわいそうなので……」
「そこまで追い詰められた気持ちでいるのなら、急いで遺言書を作成しましょう」
私は焦る思いで戸籍謄本や印鑑証明などを区役所に取りに行き、登記簿謄本を法務局に取りに行き、固定資産税の納税通知書などの書類を用意した。端から物事を忘れ去っていく母には、今までの彼らの言動をまとめて書いたものを何度も見せては説明し、このたびの対処法の必要性を説いた。
しかし、父にはどう言えばいいだろうか? ただでさえ耳の遠い父には、大声で叫ぶように話さないと駄目なのだ。ましてや認知症の父に理解させるには繰り返し話さないといけないかもしれない。大勢人がいる施設の中でプライベートなことを話したくはない。そこで先ず、松川園のケアマネにすべてを話した。父母の生存と人格を無視して家を売ろうとする兄たちを許せないと言った。彼女は「病院のほうでもそんなことがありました。施設としては立ち入ることはしませんが、部屋は提供します」と同情して言ってくれた。
父母に遺言書を作成してもらう日が四月一日と決まった。最初は施設と自宅と二箇所に公証人と司法書士と証人と三人出張してもらうことになっていたが、松川園の施設長らは園外でやってほしい様子で、隣の病院の食堂ではどうでしょうかなどと言う。耳の遠い父に理解させるには大声で話さなくてはならないのに、人の出入りがある食堂で出来るわけがない。松川園の家族相談室の一室でも貸してくれていいはずなのに。どうやら、兄を危険人物と見、面倒なことは避けたい様子なのだ。非協力的な人たちに頭を下げる気にもならず、私は父を自宅に連れてくることにした。二往復で三、四時間掛かる。しかし、私が頑張ればいいことだと覚悟した。
四月一日の前々日、兄嫁から電話が入った。二月のあの日、兄は怒りが治まらないまま帰っただろうし、手には私に渡すつもりだった父の洗濯物の袋を持ち帰ったのだ。兄嫁が経緯を聞かないはずがない。それなのに、その後も澄ました声で電話を掛けてくる。私はいつも無言で母に代わっていた。そして、この日も何も言わず母に取り次いだのだが、何やら花見の誘いのようだ。母は嬉しそうな声で、「うん、じゃそのときにね」と返事をしている。
母に誘いを断るように言うと、そんな私のかたくなな態度にどうしてかと私を責める口調で聞く。私はうんざりする思いで、あの日のことを繰り返し話さなければならない。あの日が再現される。思い出すたび、恐怖が甦り鼓動が早くなる。情けなくて悔しくて、また涙がにじむ。本当は忘れてしまいたいのだ。母のように忘れられたらどんなにいいだろう。すべてを放り出して、どこかに独り行ってしまいたい。しかし、それでは父と母がかわいそうだと思う。私が何とかしなくてはならないのだ。どんなに辛くても、母に分からせる必要があった。母が誘い出されて、四月一日がおじゃんになるようなことがあれば、今までの苦労が水の泡だ。
「お母さん。向こうに連れて行かれて、具合が悪くなったりしたら、もう私は迎えに行けないからね。そのまま施設か脳病院に入れられてしまうよ。それでもいい?」
「……」
「お母さんがねえ、向こうがいいと言うなら、それでもいいよ。私はひとりになってもお父さんのためにこの家を守るからね」
最後にようやく、母は理解する。
「そうそう、昔からね。この家を売ろうとしていることは分かっとうと。私も施設にも病院にも入りたくないけん、向こうには行かんよ。この家にじっとしとくたい」
そして、母は「身体の具合が悪いから。行けんよ」と断りの電話を入れていた。
四月一日当日、父は突然松川園から連れ出されて、きょとんとした様子だった。いつもは裏の駐車場から入らなければならないが、今日は病院側から入り、正面玄関に車を乗り付けた。父を乗せて表通りを走る。通りには桜が満開だ。父は嬉しそうに窓の外を見ている。そして、家の杏は花が咲いたか、実は生ったかなどと聞く。家や庭のことを思い出している様子だ。
「いっぱい咲いたよ。もう、とうに花は散ったけどね。まだ実が生ってないのよね。今年は生らないままかもしれない。今はね、海棠が咲いてるよ」
「海棠? ああ、花海棠ね。そうか、そうか」と懐かしそうな声で言う。この調子じゃ、もしかしたら話が通じるかもしれないと思い、あの忌まわしい二月二十八日の、家を折半しようと言った兄の話をした。車の中だから、助手席に座る父の耳元に大きな声で話が出来る。すると、父は理解したのだ。
「家はわしの宝じゃ。家は売らんぞ」と明快な口ぶりで言った。
公証人や司法書士の斉藤氏にも父はきっぱりと言い放つ。
「息子が何か言うて来ようらしいが、家は売りません!」
遺言書にも虫眼鏡で一字一字辿りながら、しっかり確認して自筆でサインした。いろんな事態を想定し、念のため母にも遺言書を書いてもらうことになっていた。父のサインが済むと、隣の部屋に敷きっぱなしの母の布団まで二人がかりで父を担いで移し休ませた。一度座り込んでしまうと立ち上がらせるのに苦労するのだ。高崎氏が手伝ってくれたが、父と彼と一緒に布団に倒れこんでしまうほど力の要る大変なことだった。
布団の中に落ち着くと父は言った。
「これで安心して、いつでも死ねるね」
「そんなこと言わずに、長生きしてよね」
疲れたのか、母の遺言書作成の間、父は一眠りした。そして、公証人たち三人が帰って行った後、父と母と久しぶりの団欒のひと時を過ごした。
遺言書が完成して一安心。もし、彼らから何か言ってきても、突っぱねることができる。そして、何より嬉しかったのは、あの後松川園に来た兄に父がはっきり言ったらしいこと。
「家は売らんぞ」
兄はちょっといさかいがあったとだけ言って、後は黙っていたという。私は思う。兄は土下座してでも謝るべきじゃなかったかと。全くこのたびの兄の振る舞いは、どうしても許せない! 勝手に親の財産を奪うのは、親に対する虐待に当たると何かで読んだことがある。父から勘当されてもいいくらいだ。それでも、父にとってはあんな人でも息子は息子らしく、「仲良くしなさいね」と私に優しい声で言う。
(仲良くなんかできるもんか)
松川園はすべて諒解しているので、その後は私に協力的だった。四月は兄たちの当番月だったが、洗濯物を取りに来ても渡さないように頼んだ。連絡先は第一に私。そして第二は高崎氏を代理人に立てた。もう兄たちには何も頼まない。私一人で父と母を守ってみせる。
思い返せば、私は四年前に実家に帰ったのだが、それまでの長い間、父と母は二人だけでこの家で生活してきた。随分前、兄たちがS市に家を建てた頃から、一緒に住まないかとの誘いがあったらしい。しかし、父は自分が建て、手入れをしてきた家と庭をこよなく愛し、離れる気など昔からこれっぽっちも無かった。父が九十歳代になり、母が八十歳を過ぎても、二人とも介護の必要もなく、人の世話にはならないと強い自負心を持って生きてきたのだ。
優太が兄嫁の実家の関係の仕事に就き、結婚すると兄嫁の実家近くに住むようになったとき、父は「みんな、向こうに行ってしもうた」と嘆いた。
いつだったか、兄夫婦と実家で顔を合わせたとき、私はほんの軽い気持ちで兄嫁に言った。
「みんな、向こうに行ってしまったって言っているよ」
すると、突然、兄嫁が振り向きざま私に言った。
「悪かったね」
心が凍った。思いもかけない、ドスの利いた凄みのある声だった。それまでも、あけすけに言うところがあり「えっ」と思うこともたまにあったけれど、彼女は細かいことは気にしないおおらかな人なのだろうと好意的に解釈してきた。私はただ、父や母が寂しい気持ちでいることを代わりに言ってやりたかっただけなのに……。
そもそも、兄たちが兄嫁の実家に近いS市に家を建てたから、その子供たちも皆その方面で結婚し就職し、父母が寂しい思いをさせられることになったのだ。せめて、こちらの近くに家を建ててくれればよかったのにと思う。私が実家に戻ったのも、年老いて病弱になった二人が心配で、それまでの気楽なアパート暮らしをやめたのだ。近々、入院や介護が必要となるかもしれないことも心の底で覚悟していた。
三月以降は毎週松川園に洗濯物を取りに行き、母の世話と家事一切、そして四月一日への準備にと忙しく過ぎた。その四月一日も無事済むと、一応の落着を見たせいか、私自身の身体に変調を来たしたのだ。まず、歯痛がどうしようもなくなり、歯医者通い。それが治ると、首や肩、更に背中から腰から痛くてちょっとした動作で悲鳴を上げるようになった。私は元々薬や病院が大嫌いだ。父と母は病院に連れて行くが、自分自身のためでは医者に掛かった事がない。だが、そうは言っていられなくなった。近くの整形外科に通いだした。レントゲンを十数枚も撮られ、牽引が始まった。そもそも近代医学不信の私は牽引に対して恐怖感がある。
「牽引で寝たきりになった人がいると聞いたことがあるんですが」と恐る恐る医師に言ってみたが、その医師は「そんな話は聞いた事がない」と言った。
首と腰の二箇所を牽引した。首は座った姿勢であごをベルトにのせ上に引っ張る。腰はベッドに仰向けに横たわり、腋の下と腰をベルトで押さえて上下に引っ張る。首の三度目かであごがおかしくなった。それで、首の牽引は止めてもらった。すると、五月三十一日、六度目の腰の牽引で大変なことになった。夜中に左腕が痛くて痛くてたまらなくなったのだ。
六月二日のこと。左腕の痛みを訴えると、「では、腕のレントゲンを撮りましょう」という。
(えっ、また?)
「もうレントゲンはいいです。原因は分かっているんですから」
私の言葉に医師は妙な顔をして牽引をやめ、代わりにホットパッドとやらをした。こんなに温めていいのかなと思ううち、ズキズキしてきた。
その夜のことだ。一晩中、あまりの激痛に悲鳴を上げ続けた。眠れないまま夜がやっとのことで明けたのだが、左腕は身体から数センチ離すことも出来ないほどの状態になっていた。無理な牽引をし、更に冷やすべきところを温めたからに違いなかった。
(あの薮医者め)と思わずにいられない。近くの整体のチラシが入っていたのを思い出し、藁にも縋る思いで治療を受けた。あれほどの激痛が次の日には少し和らいだ。が、左腕は突っ張ったまま曲げることもできず、服の脱ぎ着さえままならなかった。本当にひどい目に遭ったものだ。
こんな有様で運転が出来るわけがない。私の軽はマニュアルで、ギアチェンジをしなくてはいけない。左腕は言うことを聞かなかった。ちょっと力を入れても痛みが走る。これでは、父のところへも行けやしない。無理して運転すると事故に繋がりそうだった。やむを得ず、父の洗濯物は松川園のクリーニングにお願いした。少々高くつくが、この際仕方がない。
(六月二十五日)
五月の二十七日から行けなくなっていた父のところに久しぶりで顔を出す。父は不満げに、「えらい、長いこと来んやったね。ほったらかしじゃ」と目いっぱいの非難をした。
「ごめん。あちこち痛くて、腕が上がらなくなって運転が出来なかったからね。まだ痛いんだけど、やっとのことで来たとよ」
天の助けか、数日前老人ホームからの引き合いが来たのだ。空きが出たので、松川園に父の面談に来るという、今日がその日なのだ。願ってもない話。少々の痛みは堪えて、面談の立会いに来た。約束の時間にホームから二人のスタッフが部屋に入ってきた。朴訥そうな男性相談員と大柄な元看護師のケアマネージャーだ。父も穏やかに話をしていて不都合はなさそうだった。松川園のスタッフからも聞き取りをしていったが、それが一番心配ではある。
(七月九日)
楠木ホームから受け入れの連絡があり、今日の午前十時半に松川園に迎えに来る約束であった。早めに行って、荷物をまとめる。父は何で前もって言ってくれなかったかと文句を言った。前以て一度ホームに行ってみて、どんなところか確認したかったのにと。
「ごめんね。急に決まったから」と逃げたが、選択の余地はこちらにはないのだ。この松川園は家から遠く、費用も高く、私自身の体力も限界だった。ホームに入れるのは願ったり叶ったり。父が気に入らないから行かないなどと言い出したら大変なことになる。何とかスムーズに移ってもらわなくては。
「ホームは随分家に近くなるからね。私も楽になるし、お母さんももっと来られるようになるよ」
「そうね。そしたら、わしも家にちょっと帰ったりできるたいな」
「……。そうやね」
「皆に挨拶せんといかんったい。名刺も作りたかったとになあ」
何やら、名刺を作って配りたかったのだそうだ。しかたなく、この住所のホームに行くからねと男性相談員にもらっていた名刺を父に渡した。父はそれを持ってスタッフに付き添われ、ホール内を回っている。
そうこうするうちに相談員が迎えに来た。父はその車に乗せられ、園の相談員や看護師などスタッフが総出で見送ってくれた。私も後を追って楠木ホームに向かう。そこは自宅に程近い山の麓にあった。会議室で、いろいろな手続きとスタッフの紹介が行われた。父も同席した。耳の遠い父はただ黙って座っていたが、最後に「お父様も何かありましたら、どうぞ」と大きな声で話しかけられ、おもむろに言い出したことには驚いた。それまで一度も口にしたことのなかった、自分は軍隊にいた云々という言葉だ。何で、今頃になってそんなことを言い出したのだろう。
部屋は二人部屋で、隣の老人にケアマネが父を紹介している。父よりもだいぶ若い人らしい。
「小松さんは九十四歳になるのに、歩けるんですよ」とケアマネが言うと、「ああ、そうですか。歩けるんですか……」と言って嗚咽しだした。彼女は慌てて、「泣かないでいいですよ」と言っている。私が挨拶すると上半身を起こして挨拶を返してくれた。優しい人なんだと安心した。松川園でも父は気難しくて、なかなか同室の人たちとは仲良く出来ず、その悪口ばかり聞かされたものだ。
父がここで落ち着いてくれたらと願いつつ、ホームを後にする。