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「折半しよう」 その言葉に心は凍り付いて

 十二月に入って、私は日記も松川園に行くのもお休みした。兄たちとの話し合いで、ひと月ごとに交互に洗濯を受け持つことにした。この月はあちらの洗濯当番月なのだ。佐野病院に転院早々から施設はまだかまだかとせっつかれ、父と母の世話に加えて、兄たちからはひどい仕打ちを受け続け、心身ともにくたくたになっていた。松川園に父が入所できて、やっと一息つけた。これでひと月ゆっくり休める。

 十二月のある日、兄夫婦が上の姪の未樹と孫をつれて松川園から家に立ち寄った。未樹は実家のすぐ近くに住み、ほとんど毎日のように実家に入り浸っている。彼女は夫の両親と反りが合わないらしい。兄が甘やかしていて、来ないと孫かわいさに自分から呼び寄せるという。夫も一緒に夕食を食べて帰るので、食事代が大変なのだと兄嫁が嘆いていると優太から聞いたことがある。妹ながら、未樹は何を考えているのか分からないとも言っていた。一番下の真知は夫の両親にかわいがられ、家まで買ってもらっているらしい。

 その未樹が非難めいた目をして、自分の知り合いが勤めている老人ホームのほうがいいのじゃないかと言い出した。自分たちが行ってもちゃんと分かるし、松川園はお祖父ちゃんが入るところじゃないようにいう。

「でも、S市の施設に移ったら、もう私は世話しに行けないよ」

 私の体調は私自身にしか分からない。今でさえ、精一杯だ。それに、私の自動車は十数年前に買ったきりの貨物の軽で四ナンバー。高速はとても怖くて走れない。

 父が倒れるまで年一回、十一月に皆が兄の家に集まり、父と姪の誕生日祝いをしていた。私はアパートに一人住まいのころから、実家まで行って父母を乗せて下の道を一時間半かけて走り、送り迎えしていた。私の軽の後部座席は足がつかえるほど狭く、後ろの荷台のほうが広かった。父が疲れると言い出し、それからは兄たちに送り迎えさせていた。確かに、兄たちが父や母の見舞いにやってくるのも大変かもしれない。しかし、大きな車で高速を走れば1時間も掛からない。向こうは全員が免許を持っていて、交代の人数にも困らない。それに、父が倒れるまでは年に一、二回しか来なかったし、父が倒れてからも、休みで用事がない日だけ月1回来るくらいのことだった。それがS市のホームとなれば逆転し、世話すべき主体は私から兄嫁に移るだろう。

「どうする? 私が聞いてみようか?」と未樹が兄たちに相談している。

「でも、あそこも今すぐ入れるわけじゃないらしいよ」と兄嫁が言う。

「家に引き取られるんじゃない」と未樹が言うと、これには兄が「しかしなあ、お前。毎晩大変ぞ」と反論した。夜の世話の大変さを彼は体感している。私は言った。

「みんな、倒れるよ」

 未樹の言葉は結局、部外者の無責任でしかない。兄も兄嫁も今のところ部外者でいるからこそ、横槍を入れられる。実際問題として、自分たちが世話するとなると二の足を踏むに決まっている。

 その後、佐野病院のケアマネに聞いてみた。

「老人ホームって、コネで入れるんですか? 姪が知り合いのところに聞いてみると言っているんですが。S市ではあるし、介護認定もどうなるのでしょう」

「たまに、ケアマネの家族が早々に入っていることがあって、あれっと思うことはあります。が、原則ありえません。でも、お兄さんに分かってもらうためにも、申し込みだけはできますから、させておくのもいいんじゃないですか」

 そこで、私は彼らのなすがまま、放っておくことにした。

 また、甥一家が来たとき、甥の嫁がこう言った。

「看護師さんと話をしたんですけど、何でこんなところに来られたんでしょうかねと言われました」

 彼女の言葉にはいつも違和感を覚える。やっとのことで入れた施設なのに。どの看護師が言ったか知らないが、他に引き取るところがなかったのだ。それを言うと、彼女はうなずき「他のところは断られたんですよね」という。

「うちに引き取るのは無理よ。毎晩、頻繁にトイレに抱えて連れて行くなんて」

「そうですよ。無理ですよ」

 分かっているのなら、変なことを言わないでほしい。姪や甥の嫁たちは、兄嫁の話しか聞いていないわけだ。それで、こういうことになるのだろう。兄嫁を囲んで、どういう話をしているかが目に浮かぶ。きっと、皆で「あんなところに入れてから」などと、松川園に入れた私の非難をしているのだろう。それなら、自分たちの家に引き取ればいい。そんな気はサラサラないくせに、彼らは余計な口だけ出す。

 思い返せば、色々なことに思い当たる。いつまでも兄たちと不仲のままでは母の具合にも影響すると思い、兄に父や母のことを連絡するようになってから、あるとき、兄が電話で言ったことがある。

「おふくろをこちらに引き取ろうと思う」

 そのときはまだ、父を自宅で引き取ることができるかどうかと思案していたころだったから、私は聞いた。

「そう……。お父さんも?」

 すると、「おやじは施設に入れる」と兄は迷わず即答した。

 それから後、父の施設が見つからず、母の具合もますます悪くなった頃、兄が言った。

「おやじをこちらの施設に入れようかと思う」

「そう……。お母さんは?」

「おふくろも施設に入れる。二人一緒に入れるところはないかな」

(ふーん……?)

 父と母とでは介護度が全く違う。当時、父は要介護四、母は要支援一だった。入れる施設も違う。何も分かっていないなと思った。それに、母を施設に入れるのはまだ早かろう。本人はどれだけ嫌がっていることか。かわいそうに。以前は母を引き取ろうと思うと言っていたのに、口ではそう言いながら、本当は二人とも施設に入れるつもりなのだと思った。そして、私一人きりにして、この家から追い出そうとしているのかもしれない。あの時も私は一人で悩んだ。独りになって、わずかな貯金でいつまで生活できるものか。果たしてこの年で、仕事に就けるものだろうかと。ともかく、なるようにしかならない。兄たちがS市のホームに申し込み、父も母も向こうに行ってしまうなら、それはそれでいいやと、覚悟を決めるしかない。

 そういえば、あれは随分昔のこと。まだ母も若かったころ、姪の結婚式に着る留袖を借りるその予約に行ったときだと思う。式場に向かう車の中で、ある建物を指差して兄嫁が言った。

「お母さん、あれが脳病院ですよ。年取って呆けたら、あそこに入れてあげますから、安心してください」

 私は耳を疑った。母はどう受け取ったのか、無言だった。あの頃からすでに、二人は親の世話をする気など、毛頭なかったに違いない。それなのに、父がやっと入所できた施設の、文句だけを言うのは止めてほしい。

 入所したばかりの頃は父が周りの奇声に拒否反応を示して、食事をホールで皆と一緒に取らなかったりして大変だった。父の誕生日はドサクサに紛れて過ぎてしまったが、父は何も言わなかった。それに対しての不満などもあったのかもしれなかった。心の中で謝るしかない。相談員に再三お願いして、一番軽い三階に十二月の半ばごろ、やっと空きが出て移らせてもらった。そこでは奇声を上げる人もなく、それからは、落ち着いて問題を起こさなくなった。

 半年後の介護認定の見直しで、父の介護度は要介護四から三に軽くなった。認知症の数値も一八に上がり、母の一七を追い抜いてしまった。


 大晦日、十二月の最後の日に松川園経由で兄と未樹が家にやって来た。そして、十二月の最後の分の洗濯物をドサッと置いて帰ったのだ。私は十一月三十日に洗濯物を取りにいって、十一月の当番をきちんと果たした。そして、兄たちがもし間を空けても父が困る事がないように、着替えを多めに置いてきた。今回も、正月明けに取りに行っても充分なはずだった。なのに、何で向こうの番の洗濯物をわざわざこちらに持ってくるのだろう。正月早々、乾きの悪い冬場に洗濯物を部屋中に広げろというのか。S市の家なら四つも五つも部屋があるし、そもそもそっちの番だろう。と、思いながらも怒りをぐっと胸にしまい、黙って受け取った。三が日が済んでからと、臭いがしないように包んで、押入れ深くしまいこんだ。


 一月十五日は母の誕生日なので、お寿司を取ろうと思っていた。しかし、また始まったのだ。例の嘔吐が。もう吐くのも無くなっているようなのに、苦しそうにいつまでもウエーウエーとやっている。佐野病院に連絡を入れ、次の日から訪問看護に来てもらい、点滴を受けることになった。

 その日、未樹から電話が入り、今から来るという。いつも彼女は突然、そして丁度昼時にやってくる。母は具合が悪くて寝ているからと断ると、何やら不服そうな声で電話を切った。彼女は年末から年始に掛けて何度も家に来た。今まで年に一度も来ない年もあったのに。母は彼ら孫たちが来るたびにお小遣いを渡す。

 そのころまで、銀行の出し入れや支払いのための振込みなどは私の役目だったが、ひと月分のお金は母に渡し、買い物の都度必要額を母からもらっていた。一月のある日、買い物に行くためお金を要求すると、無いという。まだ、万札が数枚残っているはずだったが……。聞くと、孫たちが来るたび、万札を渡していたのだという。驚いた。

「そういえば、お母さん。ついこの前も同じ人に何度もやってたみたいだけど、あれ、万札だったの?」

「ああ、そうやったかね」

 お小遣いをやるのは別にいいが、生活費が無くなるようでは困る。これから先、父にどれほどお金が掛かるか分からないのだから。今も、父の施設の支払いのため、毎月預金を取り崩しているところなのだ。以後、私がお金の管理をすることを母は承諾した。



(二〇一〇年二月二十八日 日曜日)

この日のことは一生忘れることはないだろう。そして、兄とは二度と会いたくもない。

 父が松川園に入所した当初、片道四、五十分かかるようになったので、父の洗濯物は施設のクリーニングに頼もうかと思った。しかし、汚す量によってはクリーニング代が月二、三万円にもなるとのこと。月十万以上かかる施設費に加えて、それはかなりきつい。もしかしたら、これから先もまだまだ父は長生きするかもしれない。どんなに節約しても、わずかな貯金は二年ほどで底を突いてしまうだろう。なので、兄にクリーニング代だけでも半分持ってもらえないかと聞いてみた。しかし、「そんなお金はない。家のローンがまだ十年も残っていて、こんな大きな家を買ったことを後悔している」と彼は言った。兄嫁が洗濯すると言っているからというので、それでは洗濯を月交替にしようと提案した。そうしなければ、結局私がすることになってしまうのは今までの例で目に見えていた。

 そして、二月は彼らの当番だった。今日は二月の最後の日。私には悪い予感があった。兄が先週の洗濯物を抱えて持ってくるのではないか? 今月も去年の大晦日と同じ展開になるのではないかと思っていたのだ。案の定、兄が松川園の帰りに家に寄るからと電話を掛けてきた。やっぱり、持ってくるつもりだ。一度は我慢して何も言わず受け取ったが、今回ははっきり言ってやろうと思った。玄関に入るなり、洗濯物の袋を当然のように私に渡そうとする兄に、「何で、こっちに持ってくるの? そちらの番でしょ」というと、兄はものすごい形相で怒り狂った。

「おまえやー、来る早々、何でそんなことを言うか!」

 そして、掴みかからんばかりにして私を追いかけた。何と言って怒鳴られたか分からない。あまりの激昂ぶりに、私は吃驚して一目散に台所に逃げた。母が、病弱な母が泣いて止めた。

「洗濯物はおまえのために持ってきてやったったい。親の面倒見るとは当たり前やろ。おまえは寄生虫や。親の年金を食いつぶしやがって。なあーも働かんで。若いころからずっとそうや。」

 何を言う。四年前に家に戻るまで、一人でアパート暮らしをしたが、働いて一人で生きてきた。実家に借金などしたこともない。借金したのは兄のほうではないか。

「何や! おまえのその辛気臭い顔は。お母さん、こんな奴と一緒じゃ楽しくなかろう。こいつを家から出して、うちに来いや」

 そして私に、「おふくろは引き取るから、この家を折半しよう」と言った。

(えっ? 折半?)

 父は施設に居るとはいえ、まだちゃんと生きている。この先、状態が良くなって、家に帰ることができるようにならないとも限らない。しかも今現在、病弱の母と妹の私が住んでいる家ではないか。その母の前で折半しようなどとよくも言えたものだ。あまりのことに驚き声が震えたが、勇気を奮って言ってやった。

「折半するって?」

「ああ、折半しよう」

「それなら、五百万返してやってね」

「何の証拠もないのに、何を言うか!」と、またまた逆上し大声で怒鳴り上げた。

 父の洗濯物が入ったずっしりと重そうな袋を振り回し、私に向かって投げつけた。すんでのところでかわしたが、腕に当たった。母が割って入り、兄に取り縋るようにして泣きながら繰り返した。

「やめて。やめて。もうやめて」

 昨年の夏、この五百万円の話が出たときには、何も借りた覚えはないと言った。それきり、私も言うのはやめていたし、兄のほうもそのままうやむやにするつもりだったのか、一切口にすることは無かった。ところが、今日は少し考えて、こんなことを言い出した。

「百五十万くらい借りたかもしれんが、返したはず。二百万の墓を買って、それで相殺したつもりだった」

 その墓というのは、もう十何年も前に兄が買った霊園のお墓のことだ。大勢の兄弟の末っ子だった父は本家の菩提寺の納骨堂には入れてもらえない。それで兄が用意したものだが、長いこと空のままで、年一、二回父母を誘い出して掃除に行っていたものだ。私も二年前か、兄たちが誘いに来て病気上がりの父が行くというので、心配で付いて行き一緒に草むしりしたことがある。病弱な父や母をわざわざ連れ出さなくてもいいのにと思ったものだ。しかし、その相殺の話は初耳で、父母からも今まで聞いたことがない。少しは辻褄を合わせるべく思い付いたものか。

 そして、言った。

「お前は墓には入れんぞ」

 何と、情けない話だろう。こんな人たちと一緒の墓に誰が入るものかと思った。

 その後も、鬼のような形相で私に罵詈雑言浴びせ、何度も掴みかかりそうになり、そのたびに病弱な母が、おいおい泣きながらとめてくれた。

「もう、帰って!」

「何言うか! ここは俺の実家ぞ」

(実家の前に、ここはお父さんとお母さんの家でしょ)と言いたいが、言葉にならない。

「お前の顔やら、見たくもない。声も聞きたくない。もう、こいつとは関係修復不可能や」

 その後もさも憎々しげに、散々ひどい言葉を投げつけられた。しかし、帰り際には何を思い直したのか、「話し合いには応じろよ」と捨て台詞を残して帰っていった。一体、どういう『話し合い』を持ってくるつもりなのか。

 身体の震えがしばらく止まらなかった。見上げるような大男から隣近所に響くような怒声を浴びせかけられて、その挙句、「話し合いに応じろよ」という捨て台詞。恐怖に震えながらも、あまりの理不尽に対して屈したくなく、負けん気で反発をして見せたものの、言いたいことのこれっぽっちも言えなかった。こんな恐ろしい経験は生まれて初めてだった。

「怖かったねえ、お母さん」というと、母も「昔はあんな子じゃなかったが……」と目を真っ赤にし、まだ怯えた顔をしている。よくぞ、病弱な母が身を挺してとめてくれたものだ。母も相当の恐怖を感じたはずなのに。もしも母が居なかったら、私は半殺しにされていたかもしれない。

 兄が激昂するきっかけとなったのは父の洗濯物だが、「これは勘違いだった」といって、結局持って帰った。全くつまらないことから今日の修羅場が始まったのだが、そのおかげで兄も本音を、何とまあぼろぼろと出していったものだと思う。すべてが繋がった気がする。

(そうか、お金が欲しかったのか)

 彼らの目当てはお金だったのだ。この家を売り払って、お金を得たかったのだ。

 思い返してみるに、去年父が倒れたあの日から彼らの実家に対するもくろみがなされてきたに違いない。それとなく感じてはいたが、やはりそうだった。あの兄嫁の仕打ちは、私が何もかも嫌になって、家を出て行くように仕向けるものだったのだと確信した。父も母も施設に入れ、邪魔な私を追い出し、この家を売るつもりだったのだ。

 彼らの生活は昔から贅沢なものだった。兄嫁はブランド物が大好きで食事も贅沢なものを食べているようだった。大きな家のローンがあと十年も残っているのも驚きだが、更にローンか現金かは知らないが、今までにも数回新車に買い替え、最近も大きな新車を購入したばかりだ。それに、兄の飲み代はかなりらしい。それでもう一軒家が建つくらいだ、と兄嫁が嘆いた話を優太から聞いたことがある。兄は定年前に早期退職で退職金を早く手にし、その後再就職したが、まだ六十四歳だ。この先もずっと、ローンの返済を続けるのが大変なことに今頃になって気付いたのかもしれない。でも、すべて自分たちが好きでやってきたことだろうにと思う。父が倒れて、母も認知症と病弱というのをこれ幸いと、現金を手にしたくて触手を伸ばしてきたに違いないが、全く勝手すぎる。「折半しよう」なんて、よくも言えたものだ。兄は私を寄生虫と罵ったが、自分たちはハイエナか狼じゃないか。

 お墓にしたって、名義は兄になっているかもしれないが、父からの借金で買ったというなら、それは父のものだろう。兄に妹を入れないなどという権利が一体どこにあるのか。しかし、こちらだってお断りだ。狭い墓の中にあんな暴力男と一緒に入るなんて御免被る。

 夜、思い悩んだ私はふと小学校時代の友達を思い出し、電話を入れた。彼女は不動産の仕事をしていて、きっと弁護士か司法書士か知り合いがいるはずだと思い付いたのだ。私一人で解決できる内容ではない。母はただおろおろするばかりで、何も頼りにはできない。彼女は話を聞くと、法律的にも折半なんて出来ないはずだし、暴力はいけないよねと言った。そして、早速知り合いに相談するからと言ってくれた。胃がきりきりと痛み、食事ものどを通らず、一晩中一睡も出来なかった。


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