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やっと施設に入所。父の拒否反応は激しく

(十月二十九日)

 松川園の入所が十一月十四日に決まった。迎えは来ないので、こちらで何とかして連れて行かなければならない。佐野病院の退院は前日の夜。病院の夕食を済ませて、ぎりぎり七時ぐらいまで大丈夫ですよとケアマネが言う。一日のうちで一挙に退院と入所というわけにはいかないらしく、一晩は自宅に泊まることになっているという。何でそういう決まりになっているのやら分からない。

 松川園で必要となる諸々を揃える。持ち物にはすべてフルネームをつけるようにとあるので、父の上着や寝巻き一枚一枚に刺繍で下の名前を付け加え、下着やタオルなどにはマジックで書き加えた。規定数に足らないものは買い足し、荷物は小さめの衣装ケース二個と、大きな紙袋二つにもなった。

 当日の段取りをいろいろと考えてみる。六月に父が倒れてから、押入れに押し込んだままの父の布団をまず取り出して干さなくては。おむつの処理のためのビニール手袋や濡れテッシュに消毒液、防水の介護シーツにポリバケツに……。朝食は簡単にパンと野菜サラダにしよう。ケアマネは何を食べさせたらいいかと悩む私に朝一食くらい食べさせなくてもいいですよと明るく言ってくれた。松川園には午前十時までに入り、入所手続きがあるので、そのときに必要な書類を漏れがないかチェックする。

 それにしても一泊する以上、そして、これら荷物と父を抱えて私一人では絶対無理に決まっている。ケアマネもそれは分かっていて、一日のうちに直接移動できればいいのですが、と言っていたがやはり駄目なようであった。


(十一月四日)

 父が「もうすぐ十一月七日やね。連れて行ってね」と笑顔で言う。

「私は行かないよ。向こうから迎えに来るやろう」と逃げた。

「あんたは行かんとか?」と少し寂しそうな顔をした。

 兄たちと一度は険悪な状態になったものの、そうは言っても兄とは血の繋がった兄妹でもあり、母の具合も慮って父母のことを通じて話をするようにはなった。しかし、兄嫁との仲は回復していない。連絡もすべて兄に直接している。「ガチャン」と電話を切られ、その後母を連れ出し続けたあの仕打ちをどうしても許せない。一言の謝罪の言葉もないし。いや、彼女は悪いことをしたとは思っていないのかもしれない。人の心を解さない、そんな人だ。


(十一月五日)

 母の診察で佐野病院へ。その合間に父のところに着替えを持って行く。

 同室に新しく入った患者のそばに、いつもその奥さんらしき人がピタリと寄り添っている。周りに人が居ても全く気にせず、夫の顔をいとおしそうに撫でている。

「ひげが伸びたねえ。剃ろうかねえ」と電気かみそりを夫の頬に当てる。老夫婦二人だけの世界に浸っているようだ。行くたびに同じ光景を見る。何とも、あわれ。


(十一月十日)

 佐野病院に洗濯物を取りに来るのも今日が最後だろう。同室の患者の奥さんが私に声を掛けてきた。

「お父さん、ホールで楽しそうにしてありましたよ」

「ああ、そうですか。でも、昼間寝ている事が多くて、起こすと機嫌が悪いそうです」

「あー、さっきちょっと大きな声を上げてありましたね」

 この人の夫は父より一週間ほど早く入院したのに、最近になってやっとベッドから離れられるようになった。これからどうするのかと聞くと、まだ入所先が決まらないという。

「本当はもっと早く退院させられるんでしょうが、よく長いことおらせてもらいました。これからは、ここの病院内にあるショートステイと自宅とを行ったり来たりします」

「父は夜が大変なものですから。自宅ではとても」

「うちもですよ」

「……」

 返す言葉もない。私だからこそ、施設探しに奔走できたが、母だけではどうにもならなかったはずだ。ケアマネは紹介してくれるだけで、実際の見学や申し込み、手続きなどはすべて家族が動かなくてはならない。そういえば、ケアマネが私に言っていた。「チャッチャッと動いてくれるから、助かります」と。年老いた奥さん一人では、そうはいくまい。これからの老老介護はさぞや大変なことだろうと、心が痛んだ。

 父も結局、施設が見つかるまで四ヶ月ちょっと入院していたことになる。最初から退院を迫られ続けて、心休まることがなかった。松川園はずっといてもらってもいいのだという。月々の施設代がかなり高くつくのだが、そんなことは言っておられない。受け入れてくれるだけで、何ともありがたいことだ。父が長生きして、預金を取り崩して無くなってしまえば、そのときはそのとき。家を担保に借金すればいいじゃないか。


(十一月十三日)

父、佐野病院退院。

 夕食が済んだ頃を見計らって迎えに行く。今日は家に一泊し、明日朝松川園に入所となる。私一人では無理なので、兄がこちらに来てくれるか、それともS市の家で一晩世話してくれないかと、期待はしていなかったが一応頼んでみた。やはり、いい返事ではなく、結局、兄にこちらに泊り込んで手伝ってもらうことになった。今日は仕事で遅くなるので、病院の迎えには兄嫁に行かせるという。明日のことも最初は健康診断に行くことになっているからと渋っていたが、代わりに優太君に来てもらえないかと聞いてみると、「子どもまで巻き込みたくない」という。

(巻き込みたくないって。それ、どういう意味? 孫が祖父母のお世話をすることが悪いこと?)

 彼らの口から飛び出す言葉に驚く事が多々ある。結局、兄は都合をつけたらしいが、今日は仕事で遅くなるからと、病院へは兄嫁が来ることになったわけだ。

早目に行って、退院手続き、荷物の整理をしているうちに、七時を過ぎた。病院のスタッフが何だか迷惑そうな顔になってきたとき、やっと兄嫁が姿を現した。すでに外は暗く、かなりの雨が降っていた。彼女が運転してきた車は最近買ったばかりという大きな新車だった。乗り口が高いからと気にしながら、看護師に手を貸してもらって父を乗せている。私は自分の軽自動車に荷物を載せて後を追う。

 夜遅く兄がやってきて、お寿司を買ってきたと拡げている。こちらは父を迎えに行く前に食事は済ませているし、明日の事も気になるし、母の具合も心配で、二人とも早く寝せたいのだが……。十二時を廻ってもなお、母まで興奮してか、いつまでも四人で話をしている。

「お母さん、大丈夫? 早く休んだほうがいいよ」と声を掛け、ふと見ると、母の為に買い置きしていた、母が寝る前にほんの少量飲むワインを勝手に見つけて、栓を抜いて飲んでいるではないか!

「明日は早いし、車の運転もあるんだから、酔っ払ってもらったら困るんだけど」

「俺が酔っ払うと思うか!」

 兄は法律が厳しくなる前まで、平気で飲酒運転していた。私は自分自身全く飲まないし、酔っ払いが大嫌いなので、そんな兄が理解できない。心の中でやれやれと思いながら、兄に父の夜の世話を頼み、念のため準備した尿瓶や、おむつを始末するためのポリ袋などの説明をして、私は部屋に引っ込んだ。

 母の寝床は応接室にテーブルや椅子を片隅に寄せて用意していた。元の父母の部屋に父の寝床、その横に兄が寝る布団を敷いた。この日まで、必要なものをあれこれかき集めて衣装ケース二個に紙袋二つに詰め込んで準備万端整えてきた。その上、二人が泊まるというので、父のと併せ、三組の布団を干したり、乾燥機をかけたりして大変だった。そんな苦労へのねぎらいもない。まあ、私のことはいい。しかし、病気の父母を労わることもなく、夜遅くまで病人を付き合わせてワインを飲んでいる兄と兄嫁には、心底呆れてしまう。


(十一月十四日)

朝、簡単にパン食の準備をする。兄はすでに起き、居間でテレビを見ていた。兄嫁は部屋でまだ寝ている。兄は一睡もしていないという。布団の上で尿瓶を使えばいいように、防水シートを敷き用意をしていたが、父がトイレに行こうとするものだから、その都度抱えあげて連れて行ったのだそうだ。夜中に三度起きたという。病院に聞いていたより回数が少ないが、眠りに着いたのがそもそも遅かったのだから、結局一、二時間おきだったということだろう。ベッドと違い、腰の悪い父を布団から抱き起こすのは大の男でもかなりの重労働だ。介護の大変さが身に沁みたに違いない。夜中、父が急に大声で、「家の様子が違う!」と叫んだらしい。今の家は四十年ほど前に建てたもので、それ以前はT駅近くに住んでいた。もしかしたら、昔の家のことしか覚えていないのかもしれない。

 最近は私が病院に行っても、昼間は眠ってばかりいた。起こすと機嫌が悪く、大声を出したり暴力を振るわれましたという看護師の話も聞いていたので、無理には起こさなかった。なので、松川園のことは何も話せないままだった。どうやって理解させたらいいのか分からなかったし、松川園に行くのを拒否されるのが怖かったのだ。昨夜佐野病院に迎えに行ったとき不思議そうな顔をしているので、退院して明日は施設に移るからとは話しておいた。しかし、分かったのやらどうやら……。

兄と朝食を簡単に済ませた頃、兄嫁が起きてきた。私が父の食事の用意をして、部屋に持っていくと、兄嫁はさも自分で用意をしたかのように、父に寄り添い食べさせ始めた。父が「うん、おいしい」と言うと、「よかった!」といいながら笑っている。勝手にさせておいた。

 家を出る時間になったので、兄嫁には家に残ってもらって、兄と私と父の三人で兄の車で行こうと思っていると言うと、兄嫁も一緒に行くという。

「厚子を残さないかん、何か理由があるとか?」と聞く。つまりは、松川園で解散してそのまま帰りたいらしい。一人残す母のことが頭をよぎったが、仕方なく、私も軽を出すことにした。

 母はまだ寝ている。昨夜は相当興奮していたし、かなり遅くまで起きていたようだから、大丈夫だろうかと気になりつつも、行ってくるからねと声をかけて家を出る。

彼らの新車に父を乗せ、私も軽を置いているところまで乗せてもらった。乗り込むのに苦労するぐらい大きな車だ。駐車場で降りるとき、足が地面に届かなくて飛び降りた。足が短いから届かないと笑いながら言ったが、内心こんな大きな車を買う気が知れないと思った。少なくとも、年老いた親を病院などに送り迎えできる車ではなかった。兄は百九十センチ近い長身で最近はメタボの大男、兄嫁は更にメタボで二人一緒だとかなりの威圧感がある。この大きな車は二人の体格相応と言ったところか。私のほうはというと、十五年以上前に買って乗り続けている愛車の軽で、分かりにくい松川園まで先導した。

松川園は三階建てで一階は一番状態が悪い入所者が入るフロアで、上に行く順に軽くなる。まず、父は二階に入ることになった。今までに二回来たが、そのときは分からなかった。今日はあちこちで絶え間なく「あー」「うー」と奇声が聞こえ、暗澹たる思いに襲われる。

看護師や栄養士、ケアマネなどと入れ代わり立ち代わり面談があり、契約書などを取り交わす。着いた時から不服そうな顔で周りを見回していた兄嫁が聞かれもしないのに「昔の人だから、気難しいところがありますよ。軍隊に行っていた人ですから」というのに、若い男性の看護師が「えっ、軍人だったんですか?」。

 心の中で、ため息をついた。要らんことを言わないでほしいと思う。当時は民間人が嫌でも戦争に駆りだされたのだ。もちろん父は職業軍人ではなく、無理やり召集された被害者なのだ。これから世話になる、戦争なんて知らない若い人たちにわざわざ言うことはなかろうに。

看護師が書類をめくりながら、「暴力を振るわれていたと聞きましたが……」と言う。すると、兄嫁が「それは対応の仕方に問題があるのであって、私どもは暴力とは思っていません」と言った。私は何人もの看護師やヘルパーから聞いている。二十四時間交代で世話をしてきた人たちからの報告なのだ。たまに見舞いに行くぐらいの人が何を言うかと絶句する。全てを知りながら受け入れ、介護をしようとする人たちに印象を悪くして、何の得があるというのか。他は断られるところばかりで、やっと見つかった受け入れ先なのに、私の苦労など意にも介さず、要らず口ばかりをと腹が立つ。だから、今日はこの人に来てほしくなかったのだ。

手続きが済んで、ホールに座っている父のもとに行く。「えらい、待たせたねえ」と文句を言いつつ、一緒に帰ろうとする。診察か何かを受けにきて、終わればまた家に帰れるとでも思っていたのかもしれない。

「お父さんはここでお世話になるとよ。また来るからね」と、不服そうな父を置き去りに、兄たちとも別れ、松川園を後にする。ここは、高速の入り口のすぐ近くで、兄たちにとっては前より便利で距離も近くなるはずだ。


(十一月二十日)

 松川園では水、土曜がお風呂の日だが、洗濯物を取りに来るのは一週間か二週間に一度でもいいですよと言われ、気になりながらも六日ぶりに行った。相談員から入所以来父の機嫌が悪いので来てもらえないかという電話も入っていたが、私自身疲れが溜まっていたし、正直松川園に行くのは憂鬱だった。

 私の顔を見るなり、「やっと来たか」と、ベッドに寝たまま頭だけもたげて言う。相当ご機嫌斜めだ。よくも今までほったらかしにしておいたなみたいな、さあ、帰るぞと言わんばかりの勢いである。耳の遠い父に分からせるには、こちらも大きな声を出さねばならない。まるで、けんか腰みたいだがやむを得ない。

「どうやって、お父さんを抱えられると? お母さんも具合悪いし、私とお母さんじゃ世話できんでしょ」

 兄なら抱えてもらえると思ったものか、「京次は仕事を辞めんとか!」と大きな声で叫ぶように言う。

「まだ、家のローンがあるから、辞められないって」

「ああー! 何て?」

 若い女性相談員は恐れをなしたのか、部屋を出て行ってしまった。

「何で、家に帰れんとか。こんなところに放りっぱなしにしてから!」

 積もり積もった不満を爆発させるように大声で食って掛かる。どんなになだめすかしても聞き入れない。しまいに、情けなくなって、「ごめんね。ここでお世話してもらうしかないから」と、泣きたくなるのをこらえて言う。

 相談員から電話で聞いていたのだ。入所後、かなり父が荒れていると。周りがうるさくて、食事をする気にならんとハンストらしきこともしているという。確かに、意味不明で叫んでいるお年寄りがいっぱい居る。これは入所の日に、私自身長居ができないくらい気が狂いそうなほどのいたたまれない思いがしたから、よく分かる。他の入所者に比べれば、それに気が付くだけ父はまだましということか。人の会話が聞き取れないはずの耳の遠い父が、そういう声だけ過敏なほどに聞こえているのが不思議でもある。

 帰るころには「もうしばらく、我慢しようかね」と、少し穏やかになった。


(十一月二十六日)

 母を松川園に連れて行く。父がどういう所に入っているのか、妻として知っておくべきだろう。二階は「あー。うー」の大合唱が気持ち悪いだろうから、四階の大ホールに連れて行く。普段は使われておらず、誰も居ないのでゆっくり出来る。父母二人をソファーに座らせて、私は着替えを置きに二階に降りる。

 看護師に父の様子を聞いた。佐野病院ではおむつだったが、また布パンツになっているようだ。夜は早めに声を掛け、トイレに誘導するという。とにかく、周りをうるさがり、食事を拒否しているらしい。病院でもそうだったが、食事は皆でホールに集まってする。父は元々、皆で一緒にというのが嫌いな人なのだ。

 四階のホールに戻ると、父もにこやかな顔で母と談笑していた。帰りには「わしも帰る」とも言わず、スタッフに導かれて部屋に戻っていった。

 それにしても、母はふらつきが激しく、横から支えないと危なっかしくて仕様がない。エレベーターが来るのを待つ少しの間さえ立っていられず、しゃがみこんでしまう。これには、松川園の相談員も「大丈夫ですか?」と心配そうに声を掛けた。


(十一月三十日)

 父の洗濯物を取りに行く。周りがうるさいの、目が見えないのと愚痴を聞かされるばかりだ。家の近くのかかりつけの眼科に手術をしてもらえば見えるようになると、信じているらしい。

「ここは目薬をさすだけで、何もしてくれん。薮医者じゃ」

 緑内障のほうの眼はすでに薬も不要となっている。脳梗塞の後遺症である半側空間無視は、眼を手術したって治るはずもない。何と言われても私にはどうしてやりようも無い。父の訴えを聞くのが辛くて、私は用事を手早く済ませると、そそくさと帰ってしまう。

(ごめんね。お父さん)

 帰りにこれは一体何なのだろうと、裏口の黒い物体を見上げてみる。やっぱり、カラスとコウモリの逆さ吊りだ。気味が悪いったらない。



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