父の施設探しに母まで入院して
(九月十五日)
母の体調が依然悪い。今日は佐倉ステーションの人が、十時半に佐野病院まで父の面接に来る予定だ。それに私も立ち会わなければならない。その前にかかりつけのクリニックに立ち寄り、紹介状を書いてもらい、それを持って母を佐野病院の外来に連れて行く。そこに母を預けて、私は父の元へ行く。父は眠っていた。十三日に来たときも眠っていたし、最近は昼間寝ている事が多いようだ。起こされて大声を出さなければいいがと思いながら、父の寝顔をぼんやり見ていると、佐倉ステーションのスタッフ二人が病室に入って来た。声を掛けられて起きると、少し機嫌が悪く不審そうな顔をしていたが、何とか穏やかに二人の話しかけには答えていた。
その後、別室で佐野病院のケアマネと私が同席する中、看護師からの聞き取りが始まった。問題点はまず転倒の危険。センサーを設置してはいるものの、父はたまにそれをかいくぐりすり抜けて動き回るのだという。特に夜は時間おきに起こしてトイレに連れて行くようにしているのだが、自分で勝手に起き出すこともありスタッフを困らせている。前に膝折れしたこともあるので、介助は必要とのこと。
次に問題になったのは、服用されている睡眠薬。佐倉ステーションのスタッフがそれをしきりに気にしている。かなり強い薬らしく、うちではこれほどの薬を使っている人は他にいないし、睡眠薬の調整は施設では難しいのだと引っかかっている様子だ。佐野病院の看護師は、最近、昼夜が逆転しているので睡眠薬の服用はやむを得ない。それでも、夜中頻繁に起き出し脱衣、失禁がある。そのため、昼間に眠る事が多く、食事だ、リハビリだと起こされるたびに機嫌が悪く、時には大声を出したり抵抗したりという事がある。利尿剤の影響で頻尿になっているとも考えられるというが、それも心臓が悪いため、むくみがちなので必要なことなのだろう。
(大丈夫だろうか? 受け入れてくれるだろうか?)
私はひやひやする思いで彼らの会話を聞いた。看護師は「普段はとても紳士なんですよ」と、付け足しのように言ったが……。別れ際、佐倉ステーションのスタッフに「他に頼るところがないので、よろしくお願いします」と頭を深々と下げた。
その後、母の元へ行く。車椅子に座らされ点滴を受けながら、あちこち検査につれまわされていた。医師の話では、入院を勧めたが嫌だと断られた。はっきりと自分の意思をお持ちですと医師は笑いながら言った。
「心臓には一応異常はありません。何かあればすぐに言ってください。血圧が上がったり、下がったりは年齢的にも仕様がないでしょう」
うつむいたら胸が苦しいので髪が洗えないということに対しては、
「もしかしたら、バイパス手術を受けた血管が狭くなっているのかもしれませんね。ですが、この年齢ではもう手術は無理でしょう」と。
脳の検査でも年齢相応。認知症が中等度というのも年齢相応。体調が悪くなるのも年齢ゆえ。年を取るということはこういうものかと思う。午前十時過ぎから午後二時近くまで、長い点滴が続いた。それが済んで、父の元に母を連れて行く。
父はホールにいた。私の顔を見るなり、「散髪に連れて行ってくれ。あのT駅近くの」と言う。
(えっ?)
父を毎月散髪に連れて行っていたのは今の家の近所で、T駅近くというのはもう数十年前に住んでいた所の話だ。父はいつの時代に戻っているのやら。この佐野病院に出入りの理容師に二度ほどやってもらっているのだが、気に入らないらしい。
「外には行けないから、来てくれるように予約しとくからね」と何とかなだめすかし、佐野病院の理容師の予約を入れて帰る。母は父の辻褄の合わない話を横で聞いても、別に驚きもせず気にも留めていない様子だった。
(九月十七日)
昨日、佐野病院よりおむつが無くなりそうとの電話があった。排泄のリハビリのため、長く布パンツだったが、このごろは諦められたのか、おむつに戻っている。暑い最中、黄色や茶色に変色した臭いパンツの洗濯は大変だった。兄嫁が洗濯してケースに納めていたパンツは色を残したままだったが、私はそんなことはしたくない。まず汚れに洗剤を振りかけ予洗いして水で流し、漂白剤と洗剤に一晩付けてから本洗いし、真っ白に戻して返したものだ。
午後、着替えと買ったおむつを持って病院へ。父はホールの定位置にいた。今日は機嫌がよい。十一月七日を楽しみにしているのだという。その日は父の誕生日。毎年十一月に、兄の家で上の姪の誕生日と併せ、親戚が寄ってお祝いをしていた。姪たちがその話をしたのか、それとも、ひょいと自分で思い出したのか。「連れて行ってくれね」と何度もいう。私はあいまいに返事をしておいた。私に行くつもりは毛頭ない。向こうが連れて行ってやるのだったらそうすればいいし、私には関係ないことだ。
「苗を買っておいてくれ」とも言う。父は家の裏にわずかな場所だが畑を作り、夏野菜を栽培していた。それを思い出したのはいいが、驚くべきことを口にした。病院での食事に自分が作ったきゅうりやピーマンが出てくるのだという。
「わしが知らんと思っとるようやが、わかっとる。今日もきゅうりを刻んだのが出てきた。ここの調理師が勝手に使っとったい」
「……。おいしかった?」と聞くと、「うん、ここのは何でもおいしいよ」と言う。
「おいしいなら、いいじゃない」
「うん、使ってもらっていいとよ」
作話というのがこれだろうか。わざと作り話しているのではなく、全く思い込んでいるのだ。下手に訂正するのは混乱してよくないと何かで読んでいたので、調子を合わせたが、何だか悲しくなる。
(九月十八日)
五時前、佐倉ステーションより電話あり。
会議での問題点一つ目は転倒のリスクが高いこと。問題点二つ目は昼夜の逆転。この二つがネックになり、受け入れは無理とのこと。いかにも申し訳なさそうに弁解をする。いまさら弁解されても、決まってしまったことは仕方がない。
「そうですか。分かりました」
それだけ言って電話を切ったが、ショックで泣いてしまった。当てにしていた唯一のところだったので、もうどうしたらいいのか分からない。気持ちが治まらないまま、母に断られた旨告げる。母に動揺を与えてしまうことは分かっていたが、同じ屋根の下、隠せる状態ではなかった。しゃくりあげて泣く私を見て、母はどういう気持ちだったろう。
(九月二十日)
甥夫婦が子どもを連れて父を見舞った後、家に寄った。母は六月二十三日に倒れたときの父の印象しか残っていないらしく、呼びかけても返事もしなかったという話ばかりをした。
そのとき、母に優太の嫁がこう言った。
「でも、お祖母ちゃん。おかあさんが見舞いに誘ってくれて病院に連れて行ってくれたからよかったでしょ。お祖父ちゃんの様子が見れて。ちゃんと分かるようになっていたでしょ」
私は台所でそれを聞いて、ムカッとした。私がすでに母を連れて行って、父とも話をさせてやっている。私は母の具合のいいときを見計らってそうやってきた。暑い最中、兄嫁たちが頻繁に母を連れ出したおかげで、母の具合がここまでひどい状態になったのではないか。
(ここは、この人にはっきり言っておかなくちゃ)
優太の嫁が台所に立ってきたとき、私は言った。
「あのね、母の具合が悪くてね、きついきついと言うし。だから、連れ出さないでほしいのよね。後で具合が悪くなるからね」
彼女は私の顔を見て、「ああ、そうですか。綾子さんにはきついって言うんですね」とただ頷いた。私はこの頃から、彼女に何でも話をするのは考えものかもしれないと思った。兄夫婦とのいざこざに何やらこの人が関係しているのではと怪しんだのだ。介護保険の件にしても……。兄嫁と未樹とこの優太の嫁がどんなおしゃべりをしているものやら、分かったものではない。
(九月二十六日)
母、佐野病院にて診察。
嘔吐して食事の入らない日が続いていたが、とても病院に連れて行ける状態ではなかった。頭を少し持ち上げるだけで吐き気を催すらしく、起き上がれない。仕舞いには吐くものもなくなって、苦しそうにえずくばかりだ。救急車を呼ぼうかと言っても嫌がり、様子が治まるまで待つしかなかったが、今日やっとのことで連れて行けたのだ。翌日から訪問看護に来てもらえることになった。これで、これからは自宅で点滴を受けることができる。父の施設の相談に乗ってくれている当病院のケアマネが手配してくれた。
佐倉ステーションの断りはケアマネにとっても思いがけなかったようだった。また別のところを探しますからと慰めてくれた。彼女は私が倒れたら大変だからと、誰よりも私のことを心配してくれる。
(九月三十日)
二十七日から四日間、家に看護師が来てくれて母の点滴が続けられた。父のことだけでも大変なのに、母もこんな風で、どうしたらいいのだろう。週二回は佐野病院に父の洗濯物を取りに行き、家では母の看病をしながら山のような洗濯物と格闘する。どんなに腰が痛くても、どんなに疲れていても、私しかする人が居ないのだから仕様がない。
(十月二日)
母の具合が悪く、佐野病院に連れて行き診察を受ける。入院したほうがいいだろうとの診立て。
(十月三日)
午後、とうとう母まで佐野病院に入院した。何しろ、食事が入らないのが何日も続いているし、随分母も痩せたみたい。個室に入れたので、トイレに行くのは不安だろうからと、ポータブルトイレを置いてもらった。
(十月五日)
父受け入れの施設に松川園の紹介があり、面接に出向く。
ここも認知症対応の施設だ。隣接する大きな総合病院が母体で、もしものときは病院のほうに入院も出来る。佐倉ステーションのときのような病院での父の面接は無く、すべて文書でのやり取りで、詳細は佐野病院から伝わっているらしい。
初めて見たそこは暗く陰気なところだった。家から四、五十分も車で東に走った山のふもと。何しろ分かりにくく、何人もの人に道を聞き、やっとのことで着いてからも入り口が分からない。掃除をしていた人に聞いて、ぐるっと回って階段を上がって、更に右に左にと迷路のようなところを行く。途中、裏口かと思われる扉の上の両角にそれぞれ、左にからす、右にこうもりか何かの剥製みたいなものがぶら下げてある。何とも、気持ち悪い。一体何のおまじないだろう。
やっと玄関にたどり着き、松川園の支援相談員と面会。こうなったら、どんなに気持ちの悪い陰気なところでも仕方がない。わらにも縋る思いで、よろしくお願いしますと頭を下げた。ここに断られたら一体どうすればいいというのだ。
午後、佐野病院に。ケアマネに報告。彼女には、本当にお世話になった。
(十月七日)
松川園からOKの電話あり。ほっと一安心。良かった!!
連日、佐野病院の父と母の病室をはしごで見舞いだ。母に松川園OKの報告をする。母も安堵したようだ。思えば、佐倉ステーションに断られ、あまりのショックで私が泣いてしまってから、母の具合も最悪になったようでもある。母なりに心を痛めたのだろう。
(十月九日)
今週は松川園と、佐野病院内でも父と母の両方に行くのに、何とも忙しい。
丁度父の病室に行ったとき、いきなり父が起き上がって、トイレに行くという。センサーが設置してあるので駆けつけてくれるはずだが、同室の別の患者に一人掛かりきっていて、父の元へは誰も来ない。私もどうしていいのか分からない。
「あー、間に合わんやった。あーあ。ほーら、間に合わんやったろうが」
やっと来てくれた若い男性ヘルパーがカーテンを引いて、父のおむつを取り替え粗相の後始末をしてくれた。父の孫ぐらいの年の青年である。いくら仕事とはいえ、人の親のお尻を拭いてくれるのだ。私は申し訳ない思いで、彼に「ありがとうございました」と言って頭を深々と下げた。父の様子を覗うと、顔をしかめ目をぎゅっと瞑り、口を一文字に結び、ベッドに仰向けのまま微動だにしない。私は着替えをケースに収め、洗濯物を取り出して、そっと帰った。
父の便通を整えるため下剤を服用しているらしいが、調節が難しく、緩むことが多いようだ。父は粗相したのが悔しかったのに違いない。九十四歳まで、自分のことは自分でやってきた父だ。誰の世話にもならんと胸を張っていた父。我が家と庭をこよなく愛し、この先自分ひとりになったとしても兄夫婦のところに行こうとしなかったであろう父。それが今では身体が自分の思い通りにならず、失敗をし人の手を煩わしてしまうことが、きっと情けないのだろう。認知症の数値は徐々に上がっていて、今は一五ぐらいまで回復している。
(十月十三日)
松川園に契約の説明を受けに行く。今のところ空きがないので、もう一ヶ月くらい待ってもらうことになるという。
午後になって、母から佐野病院を退院するとの電話が入り、迎えに行く。医師はもう少し入院させたかったようだが、母が帰りたいと言うので、急遽退院となったのだ。父も母もよっぽど家が恋しいらしい。十日そこそこの入院だったのに、家までの帰途、「懐かしい、懐かしい」と連発する。
(十月十七日)
兄に家に来てもらい、松川園に提出する契約書の連帯保証人のサインをもらう。父が十一月の誕生日パーティのことを楽しみにしているので、どう答えたものか困っているという。ということは、彼らが先に言い出したのではなかったのだ。元より兄は、S市の家に連れて行くのは無理と見ているようで、父がおむつを替える様子を子供たちには見せられんと言った。
(十月二十日)
これ以上、母の認知症が進まないように、とにかくデイサービスを利用したいと思う。家の近くの睦み庵に見学に連れて行く。
環境の変化がいかに悪いかを、退院後の母を見て痛感した。自分の部屋の雨戸を閉めるのに、暗い中座り込んでいる。どうしたのかと聞くと、閉め方が分からないという。ストッパーをどうしたらいいのか分からないらしい。お風呂の焚き方も分からなくなっている。スイッチ一つなのに、驚いてしまう。また、それまでは、週二回ほどの炊飯は母がしてくれていたのに、どう炊くのか分からないと言ってやめてしまった。認知症が急激に進んでいた。
デイサービスは以前、別なところの一日体験に行ったのだが、「嫌だ。帰る」と言っているとの電話で、仕方なく迎えに行った。そこは曜日ごとにいろんな趣味を楽しむようになっていて、午後は講師が教えにやって来る。私なんかは、いろいろ学べていいなと思うのだが、母はもうそういうことに興味はないらしい。昔は編み物や刺繍など好きなことをやってきたが、いまさら何もしたくないそうだ。こちらは、母の認知症が進まないようにと懸命なのに。人の気も知らないでと少々腹立たしくなる。
今度の睦み庵はアットホームな、ゆったりとしたところのようで気に入ってくれそうな気配、かな?
(十月二十三日)
父がインフルエンザの予防注射を受けるというので、問診表を書きに佐野病院へ。
背が高く細身のベテランらしい看護師が受け付けてくれた。彼女はこの病棟の看護師長で、父が昼夜逆転しているので、昼間起こすと機嫌が悪く大声を上げ、暴力を振るうのだと訴えた。「私も引きました」という。どこまでの暴力なのか、ただ介護の手を振り払ったのがたまたま当たったのか、それとも積極的意思を持った暴力なのか? しかし、聞く勇気もない。
また、それ以上に驚いたことには、カーテンに便を塗りつけるのだという。父のベッドは部屋の一番奥の窓際にある。これも朦朧とした中でやっているのか、それとも、分かっていてやっているのか? 「しばらく、カーテンを外していました」という看護師長にただ、お世話をおかけしますと頭を下げるしかなかった。
(十月二十七日)
最近、父のお腹が緩みがちらしく、何とかいう防水の介護シーツを買い足してほしいと看護師が言う。今までも、その汚れたシーツが洗濯物と一緒に出されていたので、病院のものかと思っていたら、どうやら兄嫁が言われて買ってきたものらしい。どこで買えばいいか分からないので、兄に電話して頼んでおいた。