リハビリの期間は一律三ヶ月?
(七月二十三日)
兄嫁が電話をしてきて、父の見舞いに一緒に行きましょうと母を連れ出した。例の件は知らん顔だ。親展で出しておいたのだが、昨日の兄の様子では自宅で怒鳴りまくったと思われる。だから、兄嫁も分かっているはず。なのに、一体どういうつもりなのか? 私は会いたくもないので、玄関に出ず部屋に閉じこもる。母は夕べ、電話のそばで兄の怒鳴り声を聞いたはずなのだが、最近は忘れ方がとみに激しい。日赤に連れて行ったときに父がせん妄の状態でかわいそうなことをしたと思い、その後、母自身の具合も悪くなって、佐野病院転院後は父のところにはずっと私一人で行っていた。それなのに、兄嫁に誘われると嬉しそうに付いて行っている。なんだか、母に裏切られた気持ちで情けなくなる。
(七月二十四日)
兄嫁が昨日見舞いに行っているのに、洗濯物には相変わらず知らん顔で放ったままだ。全くの見舞い客然ではないか。
同室の患者の奥さんが「昨日、お母さんが女の方と一緒に見えてましたよ。」というので、「ああ、あれは兄嫁です。見舞い客です」と言いながらポリバケツから洗濯物を取り出していたら、察したのだろう。
「どこも同じです。したものじゃないと分かりません」と言われた。母より少し若いぐらいのおばあさんだから、夫の世話はかなり大変だろうと思うが、息子夫婦は別に住んでいるらしく一人でこなしているのだ。夫の病状は父より悪く、一週間ほど早い入院だったが、いまだに寝たきりで声も出ない状態だ。
しかし、果たしてどちらがいいのだろう。勝手に動こうとする父のほうがよほど手が掛かり、問題を起こしている様子なのである。
リハビリ担当の医師から話を聞く。転院した当初、排尿のリハビリをするのでつなぎの介護服は必要ないと言った、あの少々男性っぽい女医だ。あの時は「うん。すぐ歩けるようになりますよ」という言葉に、希望を抱き心強く思ったものだ。
左側、気付きなし。視野狭窄と、そして感覚がないらしい。なので、夜間、尿意を催すと、自分で尿瓶を探すのだが分からず、混乱して裸になり、至るところに失禁し、歩いて女性の部屋の前に立っていたりするという。カルテを覗かせてもらったが、毎日のように下半身裸、下半身裸という文字があちこちに見られる。情けない。
おむつが嫌で外すのだろうから、布パンツにしてみてはどうかと、スタッフの話し合いが持たれるという。洗濯が大変にはなるけれど、下半身裸になって恥を晒すよりいいと思い、パンツに同意しておいた。
「病院としては治療としてすることはなくなるので、後は自宅でということになります」
これまで頼もしく思っていた女医の言葉に心の底で落胆した。家族の状況も聞かず、何でこうも突き放した言い方が出来るのかと思った。ちょうど、ケアマネージャーが居合わせたので、施設をお願いしたいと言った。しかし、空きがなければ入れないので、一、二ヶ月先の話になるだろうが、紹介はしますからとのことであった。父が発症してから約一ヶ月。佐野病院はまだ二週間にしかならないのに、なぜ退院ばかりを迫るのか。途方にくれる。
(七月二十六日)
父は随分動けるようになって、話もする。すでに車椅子ではなくなっている。しかし、自分だけで歩こうとして膝折れしたという。以来、介護スタッフがジャージのパンツの後ろを掴み、必ず付き添って移動している。本人も昼間は分かっていて、一人では歩こうとしない。が、夜は駄目らしい。相変わらず、センサーマットが敷かれ、ベッドの脇には柵が設けてあった。
ベッドの横に小さなサイドテーブルがある。その上に小型テレビが置いてある。父がベッド脇の柵の隙間をかいくぐって降り、サイドテーブルの引き出しの中を何やらごそごそ探している。看護師がやってきて、尻餅をついている父を「あら、あら」といいながらベッドに戻そうとする。今度は柵が邪魔になって、重たい父を抱え上げるのに苦労している。隣のベッドとの間は狭く一人がやっとなので、私は手の差し伸べようもなく、見守るだけだ。
テレビを観たくてごそごそしていたらしく、テレビカードとイヤホーンを買ってきて、その使い方を看護師に教えてもらう。父はこれでテレビが観られると嬉しそうな顔をした。
はくおむつから布パンツに切り替わっているが、うまくいくかどうか……。自宅に引き取るよう言われても、排泄がこのままじゃ、とても無理だと思う。訪問看護があるとはいえ、夜間来てくれるわけではないし、夜中に頻繁に、ひどいときは三十分おきに尿意を催す父を、そのたびに介添えしてトイレに連れて行くなんて、体力的にも私にはとても無理だ。夜は寝せておかないと具合が悪くなる病弱の母と私で世話ができるはずがなかろう。三人共倒れになるのは目に見えている。
看護師がリハビリ担当の女医から自宅は無理だろうと聞いていると言った。それなのに、何で私には自宅でと言ったのか理解ができない。病院は治療の終わった患者をとにかく早く退院させて、次の患者を受け入れたいのだろう。
父は私の顔を見るたびに家に帰りたいと言う。
「どうやって帰れるね? お父さんを抱えて、どうやって帰ればいいと?」と、私はいたまれない思いになる。持ってきた着替えをケースに収め、洗濯物をバケツから取り出したら、そそくさと帰る。父のその言葉を聞くのが辛いから。
母は母で、父の状態が全く認識できないらしく、「お父さんはいつ帰って来られると?」と聞く。
「お母さん。夜中にお母さんの横でさあ。一時間とか三十分おきにお父さんが起きてトイレに行こうとするのを抱えて行ける? おむつをしていても、それを自分で剥がして、あちこち失禁したらどうする? それが毎晩よ。お母さん、面倒見れる? 私は無理」
母は赤い目をして、首を横に振る。
また、しばらくすると、母が言う。
「お父さんはそのうち帰ってくるんやろう?」
「お母さん。お父さんが裸になって近所をうろついたりしたら、どうする?」
かわいそうだし、私もその都度辛い思いをするが、分かってもらわなくてはならない。母が父はもう引き取れそうにないと理解するまで、どれだけ繰り返さなくてはならないのだろう。介護疲れで自殺したり、無理心中したりというニュースが耳に飛び込む。私の脳裏にも横切ってしまう。父を自宅に引き取れば、どうなるか? 分かりきっている。
ここから、私はしばらく日記に記すことを止めてしまった。そして、病院に行くのも止めていた。辛い日々だったから。兄と兄嫁は入れ代わり立ち代わり、父の見舞いに母を連れ出した。私は母に洗濯物がベランダのバケツの中にあるから、彼らに持って帰ってもらってよと何度も言ったので、それが伝わったらしく、やっと彼らはそうするようになった。週に二回、平日は兄嫁のパートの休日、そして、土曜か日曜は兄の休日が母を誘い出しての父の見舞い日だ。
私が病院に行くときは具合悪そうにして腰を上げない母が、彼らの誘いには嬉しそうにいそいそと付いていくのが、たまらなく情けなく孤独だった。兄たちは私が彼らの仕打ちにいたたまれなくなって、この家から出て行ってしまうように仕向けているように思えてならなかった。父に「こんなことがあったよ。どう思う?」と泣きついていきたい思いだが、すでにそれを受け止めてくれる父でもなく、母に対する恨みさえ芽生えて一人鬱屈した気持ちに沈んでいた。
あの電話以来、私は二人を許せず、部屋に閉じこもって出て行かなかった。彼らもそれを承知していたのだろう。いつも玄関先で母を迎え、帰りには、門の外で母を降ろした。
また、ある日、兄が母を送ってきて、玄関に洗濯物を入れた袋を置いて帰った。私は無性に腹が立って、なんでこんなことをするのかと母に詰め寄った。母は厚子さんが町内会の役員か何かで忙しいらしいからという。私は母に、「見舞いに行った者が洗濯物を持って帰るべきじゃないの」と言った。人の気持ちを逆なでするのもいい加減にしてほしい。
そして、更に私の気持ちをズタズタにする出来事が起こったのだ。
八月に入ったばかりの暑さ厳しいある日のこと、兄嫁が母を連れ出したまま、何時になっても帰ってこない。普通ならば夕方には戻っていたのに。行く先は病院だし、まさか、町中で母を放り出すことはないだろうし。門前で車から降ろされて、玄関までのほんの短い距離ではあるが、途中で倒れているのではあるまいか、と何度も窓から外を覗いてみた。とうとう暗くなって、これはS市の彼らの家に連れて行ったなと確信した。八時か九時をまわっていただろうか、電話してみると、澄ました声で兄嫁が出た。「お母さんは?」と聞くと、母も明るい声で出て、あっけらかんとここに泊まるという。私はプッツン切れた。
「お母さん、何で何も言わずに行くの? どれだけ心配したと思う? 泊まる用意はしていったの? そのときに何で言わないの?」
母は「ごめんね、言わなかったかねえ」と言いながらしょぼんとした様子だったけれど、私は怒りが治まらなかった。怒りをぶつけるべきは兄嫁だったのだろうが……。
次の日の夕方、兄嫁が送ってきて、門のところで母を降ろしている。兄嫁の「じゃ、また来週」などという声が聞こえる。母は気まずそうな様子で玄関に入ってきた。
その後、聞いた話によると、二階の部屋も空いていることだし、S市の彼らの家に来ないかと言われたらしい。ところが、次の日は早朝から兄嫁はパートに出、兄も仕事に出て行き、母は一人で留守番させられたのだ。頻繁に具合の悪くなる母が二階に一人きりでどうなるというのだろう。階段を上り下りしてトイレにいく母の姿を私には想像も出来ない。母が泊まることなどめったにないことなのに、パートぐらい休めばよかろうにと思う。昨夜の電話で、何も言わずに向こうの家に行ったことを私が責めたにもかかわらず、母は一人きりで考えたのかもしれない。本当に心配し、世話してくれるのはどちらの方かと。結局、母は住み慣れた家のほうがいいと答えたそうだ。
そして、そんな母の連れ出しもたったの二週間ほどで雲行きが怪しくなった。兄嫁が何やら忙しいといって回数が減ってきたのだ。結局、父の洗濯物は私がするというスタイルに戻った。
そんなゴタゴタの間も私は多忙だ。早く、次の受け入れ先を探さなくてはならないのだ。脳梗塞で倒れた場合、リハビリの病院は三ヶ月で出される決まり。その後は介護老人保健施設へ三ヶ月。そして、自宅に帰ることになるが、自宅での介護が難しい場合は、介護老人福祉施設つまり特別養護老人ホームに入所するという仕組みらしい。生身の人間、一人ひとり状況は違うはずなのに、そんなに計算どおりうまく行くものかと思う。
父の場合、問題が多いのでなお難しい。ケアマネージャーは父の状態では、認知症対応の介護老人保健施設でないと受け入れてもらえないという。あちこち打診してくれているが、特に自分で勝手に動き回るので転倒の危険が大であることと、例の脱衣がネックで断られているらしい。どこも夜のスタッフが少ない事情があり、エレベーターなどに鍵が掛かるようになっていないと受け入れは難しいというわけだ。その中で二箇所受け入れてくれそうなところがあるので見学に行ってほしいという。併せて、老人ホームの見学、申し込みもするようにとはいうものの、ケアマネはホームをさらさら当てにしていない様子だ。ホームはなかなか入れるものではないらしく、運よく空きが出ればという話で、何箇所か駄目元で申し込みをしておけばいいでしょうという具合だった。
(八月二十日)
ケアマネが受け入れてもらえそうだと言っていた二箇所の施設に午前、午後と分けて行く。午前中に行った佐倉ステーションというのは、昔からある隣の精神病院の併設で認知症対応になっている介護老人保健施設で、たぶんOKでしょうと言われて行ったところ。すべては病院から内容は渡っているはずなので、脱衣のことも正直に話したが、感触は良かった。そのうち、父の面接に出向くという。
午後には佐野病院の近くの介護老人保健施設に行く。特別認知症対応にはなっていないらしいが、電話では悪い感触ではなかったそうだ。施設の相談員がにこやかに館内を案内してくれた後、事務所で話をするうち、脱衣のことを言ったとたん、彼女の対応が激変した。さも汚らわしそうに、「うちはご覧の通り、女性が多いので受け入れられません」と言った。前もって聞いていたはずではなかったか。こちらも身を硬くして言った。
「自宅では無理、施設も受け入れてくれない。それではどうしたらいいんですか」
彼女は気の毒そうな顔になって、老人ホームもいろいろありますから、そちらを探されたらという。すぐにホームに入れるのなら苦労はないし、とうに探しているしと思いながら、早々に施設を後にした。その足で、佐野病院へ。ケアマネに報告する。断られた二件目については、「電話で伝えてはいたのですが……」と申し訳なさそうな顔をした。
佐倉ステーションのほうは感触が良かったのでまだしもだったが、それでも帰りの車の中で情けなくて涙が出た。たぶんだと思うが、父にわいせつ行為をしているつもりはないのだろう。日赤から佐野病院に移ってからは、看護師に妙なことをする様子はない。夜間尿意を催した父は、便器を探しても朦朧としてか視野狭窄のためか見つけられなくて、間に合わず漏らしてしまったり、見つけても不自由な手でうまく出来なくてこぼしたり、混乱してトイレに行こうとして、汚したおむつが気持ち悪くて剥がしてしまい、ついでに汚したパジャマの上着も脱いで真っ裸になって……。夜間少ないスタッフが駆けつける前に、真っ裸のまま、左半側空間無視の父はかすかに見える右側へ右側へと訳も分からずさまよって……。
女性の部屋の前に真っ裸になって立っていたというが、病院も施設も女性の部屋のほうが多いのだ。女性のほうが長生きなのだから。父は決して女性の部屋を探しているわけではないと思う。隣のその隣の部屋も女性の部屋じゃないか。かわいそうに、混乱してか朦朧としてか、不自由な手足と目で……。
しかし、赤の他人が見ると、ギョッとするのも仕方はない。私も初めて聞いたときには、父も壊れてしまったとショックを受けたのだから。
(八月二十四日)
特別養護老人ホーム二箇所に見学、そして申し込み。
ホームの相談員に認知症のことを話すと、八十歳過ぎれば多かれ少なかれ認知症にはなりますよと慰め顔で言われた。なので、別に支障はないと。ただ、男性が全体の一、二割なので部屋数も少なく、なかなか空きも出ないとのこと。二年も待つ事があるとも聞く。
(二年も……)
気が遠くなる思いだ。それまで、どうすればいいのだろう。それに、介護度の重い順に受け入れるらしい。父は要介護四と認定されてはいたが、最初は期間が半年で見直しとなる。身体の動きとしては日々良くなっているので、介護度は軽くなる恐れがありそうだし、父の番が回ってくるのはいつのことやら……。しかし、数打ちゃ当たるかもしれない。その他二箇所に申込書を郵送した。
(九月二日)
先週は母の具合が悪く、兄嫁の誘いを断った。ゲエゲエ嘔吐し、何も受け付けなくなり、数日寝込んだ。酷暑の最中に、あなたたちが母を連れ出すからだろうと言いたい。その挙句、母の看病をするのは私なのだ。すると、兄夫婦はピタリと父の見舞いさえも止めてしまった。どういうつもりなのか、さっぱり分からない。
今日はかかりつけ医にもらっていた紹介状を持って、佐野病院で母の脳の検査を受けさせた。拒否し続けていた検査だったが、最近は具合が悪いので自分でも不安になったのだろう。認知症がかなり進んでいるのではないかと心配だったが、かかりつけ医での診察では長谷川式の一七だった。まあ、中等度といったところ。しかし、一緒に住んでいるからこそ分かることがあるというものだ。母の介護認定の結果は要支援一であったが、デイサービスを嫌がって何も利用できないでいる。
(九月三日)
佐野病院での母の検査結果をかかりつけ医から聞く。年齢相応の脳の萎縮があり、過去の軽い脳梗塞の後も見られるとのこと。結局は、まあ、年齢相応でしょうという結論だった。それを聞いて、母はすっかり安心している。「脳は何とも無かった。立派なものと言われた」と。自分に都合よく解釈し、その言葉だけしっかり記憶している。私は立派なものとは聞いていないが……。母はその後、アルツハイマーの進行を唯一遅らせることができるかもしれないという薬が追加された。
(九月六日)
兄夫婦が家にやってきた。母の様子を見に来たのだろう。
あれから後、母は相変わらず良くない状態だ。母は自分の具合が悪いのは父の事を心配してのことだと言う。しかし、私と兄たちの仲が険悪なのも母に悪影響を与えているだろうと思わずにはいられない。兄妹げんかをしている場合でもないだろうと一時休戦のつもりで、私のほうから兄に電話をし、以来、母の様子や父の施設申し込みの経緯などを報告してきた。兄は電話で「おふくろをこちらに引き取り、おやじはこちらの近くの施設に入れようと考えている」と言っていたが、母は絶対嫌だと言っている。
兄に検査結果を見せる。兄がそれを兄嫁に渡そうとすると、彼女はすでに同じものを見たと言った。先週、佐野病院で母のことを医師から聞き出したらしい。母は兄たちにも「脳は何とも無かったよ。立派なもんと言われた」と言っている。兄嫁は無言のまま、検査報告書の内容の箇所を兄に指差している。兄はうなずきながら母に、「前に心臓の手術をしたときも、医者に言われたとったもんね。塊が脳に飛んで、脳梗塞になることもあるって。これにも脳梗塞の後があるて書いとうしね」しかし、母は聞く耳を持っていない。年相応という言葉をいい意味に解釈している。母の年相応は八十歳半ば相応の萎縮した脳ということなのだろうが……。
兄嫁は終始無言で不機嫌そうな顔だった。兄嫁とはガチャンと電話を切られたあの日から、一切話をしていない。謝る気もないらしい。