リハビリのため転院した父、後遺症は色濃く残り
(七月九日)
午前十時、日赤に入院して十七日目、佐野病院に転院。それまで父は私の顔を見るたびに家に連れ帰ってくれと言っていたのに、今日は転院するのを看護師から聞いて理解していたらしく、私の顔を見るなり「あー、あのねえ、佐野病院に移るからね」と言った。
病院の車で迎えに来てくれたので、父と荷物を任せ、私一人で日赤の退院手続きを済ませて車で後を追い、そして佐野病院の入院手続きすべてを行った。
この日、朝から母の具合が悪かった。昨夜家の周りを人が歩いているような足音がした、何か変な臭いがする……などと言う。前に血圧が二〇〇まで上がり、寝込んだときと同じような状態だ。心配ながらも家に残し、日赤から佐野病院へ。帰ってきたら、更に具合が悪そうだ。血圧は一五〇台。睡眠導入剤を飲ませて休ませる。
母はこの年の二月から悪い状態が始まった。突然嘔吐を催し、床から起き上がれなくなり、数日食事を受け付けず寝込むのだ。近くのかかりつけのクリニックに何とかして連れて行き、点滴をしてもらうと治まるといった具合で、そういうことが数回あった。そのときも朝目覚めると、雨も降っていないのに、夜中にザアザア激しく降る音がしたと言っていた。それを聞いて、父が妙な顔をして言ったものだ。「何も降ってなかったがなあ……」
前から心配性な面があり、夜は睡眠導入剤を処方されていた。ところが、人からこの薬を飲んでいると呆けると聞き、それを信じて飲んだり飲まなかったりしていたらしい。最近、物忘れが激しいように思われるが、すでにその頃から認知症が始まっていたのだろうか。何かと募る不安による幻覚や幻聴、そしてこのたびは父の入院で精神的にダメージを受けたのかもしれない。
この間、兄夫婦は韓国旅行に行っている。気がかりではないのだろうか、楽しめているのだろうか……?
(七月十一日)
大量のおむつ、パッド、バスタオルなどを抱えて佐野病院に行くと、担当の看護師が待ってましたとばかり飛んできた。
「昨日の夜中にですね。ベッドからはい出されて、丸裸になってですね。ドアのところに立っとられたんですよ!」
父が夜間三十分ごとに尿意を催し、自分で服を脱ぎ、おむつも剥ぎ、真っ裸になって歩き回り、あちこちに失禁したのだと言う。更に、やせぎすの神経質そうな看護師が目を剥いて、矢継ぎ早に言う。
「転倒、転落の危険があるので、離床センサーや床にセンサーマットを設置させてもらいます。同意書にサインしてください。それから、裸になれないようにジッパー付きのつなぎの介護服を用意してほしいんですが」
私はあまりのことに困惑してしまった。
「つなぎの服ですか? どこで買えばいいんでしょう」
「介護用品を扱っているところにあるでしょう。ネットで売っているかもしれません」
戸惑いながら、同意書にサインする。
「思いのほかよく動けるので、これなら早々に自宅に引き取ってもらうことになるでしょう。それが無理なら施設を探してください。介護保険の手続きは?」
「介護保険ですか? いえ……。どこに行けばいいんですか?」
「区役所です。早急に区役所に行って申請してください」
日赤でも頻繁に尿意があり、その世話のため、昼も夜もナースステーションにおらされていたのだが、裸になるとは聞いていなかった。更に脳梗塞の後遺症で、左側の手足が不自由なうえ、左半側空間無視といい、左側の視野が欠けているらしい。なので、真っ直ぐには歩けず、右へ右へと行ってしまい方向が定まらない。元々、右目は緑内障でほとんど見えていないらしいし、左目も白内障が年々進んでいたのだ。それに半側無視が加わって、そんな状態で闇雲に歩こうとするから始末が悪いわけだ。
しかし、こんな状態で自宅に引き取れるはずはなかろうに。母は具合が悪いし、私一人で一体どうすればいいのか……。激しい衝撃に頭も混乱しそう。情けなくて情けなくて、涙が出た。とにかく、介護保険の申請をしなくてはいけない。
(七月十二日)
甥の優太が嫁と子どもをつれて佐野病院から家に立ち寄った。兄夫婦が旅行に行っている間、代わりに様子を見に行くよう頼まれたらしい。父がとても元気で、誰が来たかも分ったと母に話している。この嫁は元看護師だ。佐野病院の看護師から話は聞いているはずなのに、母を心配させないためか、何の問題もないかのように、すぐにでも引き取られそうに言う。しかし、昨日の今日で私は動揺も覚めやらず、自宅に引き取ることが果たして可能なのか、今は難しくてもこの先はどうなのかと逡巡していた。病弱な母の世話の上に、あの父の介護が私一人で、この自宅で出来るのか?
築四十年以上になる古く狭い家だ。ベッドに車椅子となれば、改修しなくてはなるまい。いやいや、とてもとても。少々の改修ぐらいで解決できるとは思えない。トイレも狭く、お風呂も洗面所も……。車椅子で行き来できる部屋や廊下ではなく、とても介護ができる状態になりそうにない。車椅子でなくなれば、もっと大変だろう。病院よりもずっと転倒の危険性は高い。不自由な身体で闇雲に動き回ろうとする父を二十四時間世話するなんて不可能だ。あれこれ、どう考えても、やっぱり無理。それに、もし父が真っ裸で近所を徘徊したら、なんてことを考えると暗澹たる思いになる。そんな私には、この嫁の言葉が他人事で上っ面の慰めにしか聞こえない。
で、脱衣と失禁のことを言ってやった。やはり聞いているらしく驚きもせず、黙ってうなずいた。つなぎの服のことも聞いていたらしい。こちらは大変な介護をすることになるかもしれない当事者なのだ。いくら、母がかわいそうだからといって、引き取り可能かどうかの検討は、私と母の切実な問題なのだ。今の状態のまま引き取れば、一番に倒れるのは母だ。母にも父の状態を分かってもらわなければ、私一人ではどうしようもない。上っ面の社交辞令なんか要らない。
(七月十三日)
月曜日午前中、区の社会福祉センターに介護保険の申請に出向く。ついでに母の分も申請する。
午後、パジャマやタオル、バスタオルなどを買い込んで佐野病院へ。韓国旅行の帰りに飛行場からそのまま立ち寄ったのだろう、兄夫婦が先に来ていて、父の枕元で話をしている。兄だけドアの近くに呼び、父の状態のあらましと介護保険の申請に行ったことを伝えた。
先に来ていた兄たちに看護師が父の洗濯物を渡していたのだが、兄は私に当然のようにその紙袋をよこした。日赤からずっと洗濯物は私がしてきたから、別に何も言わず受け取ったが、兄嫁はそばにいながら知らん顔をしている。ちょっと情けない。
病院からの帰り際、兄から父の様子を聞いた兄嫁は、不審そうな顔で「優太たちはそんな話をしてなかったけどねえ」と言った。彼らが旅行中の両親を心配させまいと話さなかったのか、後で話すつもりだったのかは知らない。しかし、私が嘘をつくはずもないし、その必要もないではないか。その言葉は一体何なのと言いたかったが、ぐっと胸にしまい込んだ。兄夫婦も一緒に母の待つ家に帰る。韓国土産の豆菓子をもらう。一粒つまんでみたが、硬いし美味しくも何ともない。総入れ歯の母は、手を出そうともしなかった。
(七月十五日)
脳梗塞の治療はほぼ済んだので、リハビリテーション病棟に移り、これから本格的なリハビリ開始だという。前につなぎの介護服を用意してほしいと言った看護師がいたが、リハビリ担当の医師の話では、排尿のリハビリもするからそれは不要ということだった。
昼夜の別をはっきり認識させるべく、夜間はパジャマに着替えさせ、一、二時間おきに起こしてトイレに導き、排尿を促すのだそうだ。なので、今まではパジャマだけでよかったものが、昼間はトレパンみたいな動きやすいパンツやポロシャツなどの部屋着が要るわけだ。タンスの引き出しや押入れの衣装ケースからかき集め、更に数枚買い足して、一枚一枚名前を刺繍する。下着はマジックで書けばよいが、部屋着は後で家に帰れたとき、刺繍ならば切って取れるからと思った。数人の看護師が刺繍を見て、感心してくれた。評判になっているらしく、父はそれを指差してちょっと自慢げな顔をした。
(七月十六日)
午前十時半、佐野病院にて父の介護保険認定調査。
役所の人が来て、父と面談、病院からの聞き取り、私にも聞き取り調査。脳梗塞の後遺症としてのいろんな症状の中で、気になるのは認知症。看護師の話では長谷川式で一〇だという。一〇はかなり重症らしい。調査員の人と話をしている横を、ホールに向かって父が看護師に車椅子を押されていく。父が看護師を見上げ、「ん、晩御飯?」と聞いている。まだ、午前中だ。思わず、調査員と顔を見合わせる。昼も夜も分からなくなっているのだろうか?
父はこの年まで頭はビックリするほどしっかりしていた。ところがつい最近、驚かされることが何度かあった。夜中、皆が寝静まった頃、物音がするので起きていくと、お風呂の前で父が服を脱いで呆然と突っ立っているのだ。とっくに風呂に入って寝床についた父がまた入ろうと起きだしたものの、部屋が真っ暗なのにおかしいと気付いたらしい。
「お父さん、お風呂にはさっき入ったでしょ」
「ん? お風呂よって起さんやった?」
「起こしてないよ。もう、皆寝てたんだから」と言うと、すごすごと寝床に戻るのだった。
また、食事ごとにゴロンと横になりそのまま眠る時間がますます長くなってきていて、私は母に冗談めかして言ったものだ。
「お父さんって、このごろ、朝寝、昼寝、夕寝、夜寝そして本寝してるよね」
そして夕方に目が覚めると、「ん? 昼ご飯?」と言ったりする。それもたまにのことだったし、寝ぼけているのかと別に気にしなかった。何しろ高齢だったし、父は元々無口で耳も遠かったので、コミュニケーションが取れているとは言えなかったかもしれない。なので、同じことを繰り返して言ったり、聞いたりする母のもの忘れのほうを心配していた。それが、とうとうこのたび後遺症としての認知症が父に出てしまったかと思うと気持ちが暗くなる。
午後は自宅で母の介護保険認定調査。母には前もって、正直に本当のことを言うようにと言っておいた。母はすでに二、三年前から買い物も炊事もすべて私に任せ、病院にも私が車で送り迎えしている状態。一人では外出できないようになっているのに、人には自分で何でもできると言うからだ。認知症の自覚もないようだが、かなり進んでいると私には思える。父の一年前、二年前の入院の話を、母は何も覚えていないのだ。驚いてしまう。N病院から日赤に救急搬送されたとき、母は父に付き添って救急車に乗ったのではなかったか。その話をすると、「あんたはよう覚えとうねえ」と感心したように言う。私はまだ六十歳。これで忘れていたら若年性認知症だろう。
調査員を門まで送って、母の前では言えないことを近所にも聞かれないよう、小声で母の状況を伝える。高齢者は自尊心が強く、自分を認知症とは認めたくないのだと分かっているので、とても気を使うのだ。
しかし、母のほうは非該当になるのではないかとちょっと心配になる。
(七月十七日)
洗濯物を入れて病室のベランダに出すのだという蓋付きのポリバケツと、パジャマの着替えを買って持っていく。入浴日は火曜、金曜の二回。それに合わせて週二回行かなければならない。一回の入浴に二枚のバスタオルを使うのだという。夜間、おむつを自分で剥がしてしまい、あちこち失禁するらしく、洗濯物も山ほど出る。
父が熱を出していた。午後は三十八度を越しているという。熱を出し、心臓がパンパンにはれ上がった去年のことを思い出した。更に平成十二年のことも。私がまだアパートに一人暮らしをしていたころ。夜、母が不安そうな声で父が入院したと電話してきた。私は何泊かの用意をして駆けつけた。翌日、入院時に必要なものをかき集め、足らないものを買い足して病院に持っていった。医師から父のレントゲン写真を見せられたが、大きく膨れ上がった心臓に目を見張った。病名は心不全と言われた。思いのほか、早くに退院したが、そのときから今に至るまで、父の心臓は慢性心不全という重い荷物を抱えていたのだった。最近は特に少し動いただけで、ハアハアと荒い息づかいをしていた。周りが思うほど、本人はきついとは言わなかったが。
(七月十八日)
あれから兄たちが佐野病院に行った様子もなく、何の電話もない。今日は土曜日。彼らが仕事を休んでいくことはないので、行くとすれば今日か明日しかないと思い、こちらから電話をしてみた。兄が出た。すると、明日から出張するので、その後しか行けないという。
「厚子さんは?」と聞くと、「仕事が忙しい!」という。兄嫁はスーパーのパートに行っている。
「親の一大事に、仕事休んででもすることでしょう。お父さん、昨日熱出してたよ」と言うと、兄が「仕事せんでどうするか」と大声で怒り出した。あまりにもひどく怒鳴りつけるので、「仕事、仕事、仕事って。それで韓国によく行けたね」と言って電話を切った。
その後しばらくして、兄嫁から電話が掛かった。
「お母さんに代わって」といきなり言われる。携帯のようなので、今どこかと聞くと、「車。病院に行ってきた」と投げやりに言う。それなら、先にこちらに来てくれたら着替えを持っていってもらえたのにと心の中で思いながら、母に代わった。
何を聞かれているのやら、母はチンプンカンプンの様子。
「えっ、看護保険? 通知が? ハガキみたいなの?」などと言っている。ははあ、介護保険のことかと電話を取り上げ、「介護保険なら、もう私が手続き取って……」と説明しようとする途中で、「ガチャン!」と電話を切られてしまった。
(何で?)
兄の携帯に掛けてみる。車で兄嫁と一緒だという。さっきは病院には行けないと言っていたのに、急遽二人で行ってきたらしい。訳の分からない母に聞かずに何で私に聞かないのかと言うと、どうやら仕事を休んででもすることだと言った私に腹を立てているらしく、また大きな声で怒鳴り出し、一方的に電話を切られてしまった。
電話の怒鳴り声を直接聞いていない母は、夕方兄嫁に電話をして父の様子を聞いている。
「さっきはごめんね」なんて、謝っている。謝る必要なんかないのに。これじゃあ、私だけが悪者だ。二人のご機嫌を取る母にも腹が立つ。私がいなかったら、あの二人が全てしなければいけないことだろう。もちろん、仕事を休み、韓国旅行はキャンセルしてだ。ならば、私は感謝してもらってもいいはず! あんなに憎々しげに怒鳴られるようなことを私はしていない。
胃がきりきりと痛くなって、夕食は作らず、母に自分で冷蔵庫の中を見て食べといて、と言ってストライキ。食事なんてのどを通らないし、作る気にもならない。赤の他人からも電話を途中でガチャンと切られることなんて、今までの人生で一度もなかった。兄嫁のあの仕打ちには相当のショックを受けた。兄の怒鳴り声にも心はズタズタだ。
(七月十九日)
着替えを持って病院へ。洗濯物がベランダのバケツの中にぎゅうぎゅう詰めで押し込められていた。この暑い最中に外に出されているのでひどく臭い。アンモニアの臭いなのだろうが……。これら洗濯物はいきなり洗濯機には入れられない。まずマスクとゴム手袋をして、次に一枚一枚拡げてみて、くまなく点検する。黄色くなったところは特に念入りに予洗い。白いものは漂白剤を入れ、一晩置く。そして、次の日に足踏みして汚れをきれいに落としたところで濯ぎ、洗濯機に入れて本洗いをするのだ。去年、父が入院したときもそうだったが、疲れが腰に響くのか、腰痛が出る。風呂場にしゃがみ込んでの洗濯はかなり辛い。
夏の間だけでもクーラーの効いた病室の片隅に置いてもらって、臭いがしないようにしてもらえないかと思い、病院の玄関横の投書箱に投函してみたが、その後も相変わらず炎天下に置かれていたものだ。
それにしても、どういう行き違いで兄たちはあんな言動を起こしたのだろう。一体私が何をしたというのか、それとも何か誤解しているのか。そこで、手紙を出すことにした。
前略
七月十三日、月曜日に区の社会福祉事務所に父、母の介護保険の申請に行きました。これは佐野病院に転院のための面談に行ったときに相談員の方からアドバイスを受けていたし、転院当日も看護師さんからも早々に行ったほうがよいと聞いていたため。申請が下りるまでに、一ヶ月ほどかかるとのこと。
七月十六日午前、佐野病院にて父の認定の調査立会い。午後、自宅にて母の立会い。
しかし、母は家に訪問されるのも、施設に行くのも嫌がって「どこも、何ともありません」。めまいはと聞かれて、「ありません」などと答えていたので、非該当の可能性大でしょう。
その前日に佐野病院に脳の検査を受けるべく連れ出そうとしましたが、頑として拒否。どうしようもありません。
たまたま、数日前にM大学病院の心臓手術何とか研究会から、その後検査に来ていない人へのアンケートが来ていましたが、「いつ、手術したかね? いつやったかねえ?」と言うばかりで、書こうともせず。最近は分からん分からん、難しいことは分からんと最初から投げる傾向にあり、仕方なく私がアンケートを読み上げながら書きましたが、「悪いように書かないで」と言うもので、そのようにして送りました。
こんなふうで、以前の母とは随分違ってきているので、母に何かを聞いたり、言ったりする場合は電話ではなく、対面で何回も分かりやすく話してほしいと思います。母が混乱するだけですので。
ところで、先日話しましたように、父の貯金は事あればすぐに消えてしまいそうな額で、これには母も愕然。「うちは貧乏なんやね」と言っていました。それでも、病院に持って行く服を探してみても、ろくなものもない、そんなつましい生活をして、毎月積み立てては定期にと、母に「あんたのためぞ」と言いながらコツコツ作ったなけなしの財産なんです。
これを父自身が使ってしまうことになっては、父も母もかわいそうなものと思わずにはいられません。日赤は退院当日、たった十六日間分ですが、十万円払いました。今後のことを思って不安も増すばかりのようです。
K市から帰るときに二百万、三百万、合計五百万円、父から借金されていると聞いています。父、母のために返してほしいと思っています。
父は日赤で私の顔を見るたびに、「母さんは元気にしとうか、ちゃんと食べようか?」
「京次は働きようとか? 給料はもらいよっちゃろうか?」
「京次は酒、タバコを飲むけんね。わしはやめたけど……」などと、いつの時代に帰っているのか、チンプンカンプンながら皆の心配ばかり口にしていました。父、母のためによろしくお願いします。
草々
この借金の話は四年前、私が家に戻ってから、母にしょっちゅう聞かされていたものである。兄たちが今まで仕送りも何もしてくれたことがなく、ほったらかしだったこと。昔、父がお金を融通してやったこと、そしてそれは兄嫁には内緒の話だったことなど、何かにつけ聞かされたものだった。いまさら返してもらうつもりもないのだというものの、これから先、父にどれだけお金が掛かるものやら。公的な施設は一年待ち、二年待ちとも聞くし、父の貯金は驚くことに有料の施設なら、最初の入居費にも足りないような額しかなかったのだ。
そういえば、韓国旅行に行く前、預金は下ろしとけという兄に後日、電話でこれだけしかなかったと金額を言うと、「そんなはずはなかろう。毎月の年金額から考えても、そんなはずはない」と、疑り深そうに言っていたっけ。母は勘違いしていて、隔月の年金の額を毎月もらっていると常々言っていた。兄もそれを聞いていて、相当もらっていると思っていたのかもしれない。
「家のリフォームに相当使ってきたみたいだけど」とは言っておいたが……。実際、一年前雨漏りがするので、屋根を防災瓦に総葺き替えした。それに百数十万円かかったことは兄も知っている。兄は不動産会社に勤めているので、業者を紹介してもらったからだ。それ以前も、外壁や下水管、床下扇風機など、私が戻る前にやったリフォームには怪しげなものもある。その業者の一つがその後警察に摘発されてもいる。父母が使用しているふかふかの羽毛布団は訪問販売で一組何十万円もしたという。全く、高齢者は狙われやすいのだ。以来、私が盾となって、訪問販売すべてを断っている。
この際、父母のために、はっきりしておこうと思って借金のことまで書いてしまったが、果たしてどう受け取るか。兄嫁には内緒の話とのことで、親展で出した。
(七月二十二日)
夜更けて兄より電話。
「五百万やら借りてないぞ」という。
「何の証拠もなしに言うな!」と、大声でまるでやくざのように怒鳴る。十一時を過ぎている。母のことを少しでも思うなら、こんな時間に掛けてこないでほしい。母も何事かと起きてきた。
「五百万、借りてないってよ」というと、母が代わって、入れ歯を外した口でもごもご「あのときに二百万でね、それから三百万ね」と言っている。もう一度私が代わると、母の言うことは認知症で信用できないようなことを言う。なので、私が言ってやった。「でも、昔のことははっきり覚えているよ」と。
それから、私が介護保険の手続きを済ませたことを病院で伝えたことを忘れているらしく、その話は優太たちから聞いたのだろうという。手紙に書いたとおり、ケアマネや看護師からの勧めで、とうに申請は済ませ、そのことは病院で兄に言ったはずというと、それに関しては「勘違いしていた。それは悪かった」と初めて謝った。
私が説明しようとするのに兄嫁がガチャンと電話を切った話になると、再び激昂し、何やら散々怒鳴り散らした挙句、「俺の女房の悪口を言うな!」と叫んで電話を切った。
何だか知らないけど……。《俺の女房》の悪口には怒り狂いながら、《俺の妹》の悪口は皆で言い募っているんだろうなと思った。兄は完全に向こうに取り込まれてしまって、すっかり人が変わってしまったと思うとため息が出る。
それに介護保険の件にしても、S市に住んでいる彼らが私を抜きにこちらの役所に休んでまで手続きに行けるはずもなく、何を焦って怒鳴りまくっているのか分からない。
借金に関しては、本心から返してほしいわけでもないので、いいけど。しかし、母は「おかしいね、おかしいね。関東から帰るときにね、お父さんが都合つけたのだけどね」ともぐもぐぶつぶつ言っている。兄の怒鳴り声には電話ながらも胸に痛く、きっと今日も寝付けない。