風に乗って魂は天高く…さよなら、お父さん
(十一月二十二日)
明日は父の四十九日。
これまで、準備万端整えてきた。香典返しは明日配送されることになっている。近所の分はすでにまとめて届いていた。
葬儀の直前やっとのことで間に合って、よろよろとする母を連れて席に着き、悲しみにくれている私の横に兄嫁が来て、香典のお返しをすぐにしないといけないとか、お花がお粗末だったので追加したとか、あれは自分の実家の母たちがくれた花輪だとか、子供たちが果物を追加してくれたとか、何度も何度も繰り返し聞かされた。葬儀自体の費用は一切出す気はないのに、体裁ばかり気にする人だ。こちらは飾り物の追加とか頼みもしないし、嬉しくもない。そんなことは今言わなくてもいいだろうにと、気分が悪かった。葬儀の後、香典返しのことを葬儀社の人に聞くと、四十九日の翌日着くようにすればよいと分かって、それを後日兄嫁から電話が掛かったときに伝えると、向こうもあとで聞いたらしく、「うん、そうだってね」と平然と言う。全く、あんなときにしつこく言わないでほしかった。
四十九日は二十三日にすることになったということは、手紙で知らせた。その中に、兄嫁の関係の香典返しをそちらでしたいのなら、こちらに預かっている香典は誰が幾らでと明細を付記した。しかし、「そちらのほうで一緒にしてほしい」と後で電話が掛かってきた。霊園への申し込み。僧侶への依頼。お布施、お膳料、お車料の用意。そして、法名軸はこの後過去帳になることを住職から教えてもらい、仏壇屋に買いに行った。それに住職から書き入れてもらえることになっている。初めてのことで、戸惑うことばかりだったが、あちこちに聞きながら、結局これら全てを私一人でやってきた。
夕方、兄嫁から電話があった。前に出した手紙には『当日の法要は午後二時に霊園にて部屋を借りて行い、それが終わってすぐ納骨となります。内々で済ませたいと思うが、そちらの関係への連絡はお任せします』と書いておいた。
電話の向こうから兄嫁が探るように言う。
「納骨が終わると……?」
はっきりと口にしないが、どうやら、その後食事をするのでしょと言いたいふうだ。そのことは母も言った。しかし、もう兄たちと食事を共にする気はない。別に絶対しなくてはならないものでもなさそうなので、中途半端な時間をこれ幸いというわけだ。もし、どうしてもしたいのなら、兄たちが手配すればいいだろう。
不服そうに間を置いてから、更に兄嫁が言った。
「お位牌はこちらでもらえるんでしょ」
「いいえ、浄土真宗ではお位牌じゃなくて、過去帳ということなんだけど、それはこちらでもらいます」
すると、兄嫁は「ええっ、話が違う」と何度も言う。
(何が、「話が違う」よ。違うのはそっちでしょ)
「母が居る間はこちらにもらいます。私一人になれば、すべてお渡しします。前にそちらでも作ろうかと言っていたでしょ」
そう言うと、黙ってしまった。葬儀の日の初七日の食事も済んだ頃、お位牌だけもらいたいと私が言ったとき、兄嫁は「えっ、こちらも欲しいんだけど。そう? それじゃあ、お位牌をもう一つ作ろうかしら」と言いつつ、兄のところに相談に行ったようだった。最終的には、遺骨もお軸も母と私が引き取ることになったわけだが……。
父が亡くなったあの日、病院に遅れてやってきて、しくしく泣きながら「何もかもさせて、ごめんね」と言った、あの兄嫁の言葉は一体何だったのか。その後も全て何もかも押し付けて、挙句の果てに「お位牌を寄越せ」とは! 「話が違う」とは!
(一体、この人は何なの!?)
目を合わそうともしない兄と妹の間を右往左往して、仲を取り持つかのようにしていた兄嫁に、少しは氷も解けるのかなと気を許しかけた瞬間もあった。が、しかし、やっぱり駄目だ。この人の性根はこんなもの。きっとあれは嘘泣き。演技でしかなかったのだ。
電話を切ってからも、無性に腹が立って仕様がない。勝手すぎるでしょと言いたい。母がまだ居るのだ。母が生きている限り、過去帳はこちらに置くべきだろう。欲しいのなら、向こうでも作ればいい。どこまで親を蔑ろにすれば気が済むのだろう。
(十一月二十三日)
やっと、四十九日の法要の日が来た。
先週、前もって霊園に行って下見しておいた。何時くらいに家を出れば、丁度よい時間に着くのか。どの道をどう行けば間違いなく行けるか。父の遺骨を抱えて、道を間違えて遅刻などすれば、大変なことになる。少し、早めに行って、手続きもしなくてはいけない。いろいろ持参すべきものをチェックして、特に遺影は途中でガラスが割れてしまうようなことがあっては縁起が悪いと思い、ダンボールとガムテープで動かないようにした。
家には整理タンスの上にごく小さな仏壇が置いてある。昔、母方の祖父が手作りしてくれたのだそうだ。中には、生まれてすぐに亡くなった長兄のお位牌があった。六十数年前の白木のものだから、すっかり黒ずんでいる。住職にお願いして、このたび父と一緒に過去帳に記載してもらうことにしている。古いお位牌はお寺に納めてもらえるという。
遺骨と遺影とお軸と、それに仏壇屋で買っておいた過去帳と長兄のお位牌と、昨日葬儀社が届けてくれたお供えのお花と……。霊園の手続きに必要な印鑑と住職に渡すお礼と……。忘れ物がないように、チェックにチェックを繰り返す。早めに出ようとしたが、母の用意に時間が掛かり、ギリギリの出発となってしまった。その霊園は隣の市の町外れにある小高い丘の上を切り開いたものだった。父や母は数年前まで毎年一、二回、お墓の周りの草むしりのため兄たちに連れ出されていた。二人が病気がちになって後は、誘わないようにと私が何度か断ったりもしたが、父が倒れる年の春も誘い出されて行ったはずの母は全く覚えがないらしい。くねくねと山道を登っていくのに、驚いたような顔をして「へえー、へえー。こんなところにあるとね」と、初めて来たようなことを言う。そうして、何とか霊園の管理事務所に丁度いい時間に着いた。
事務所で火葬許可書を提出し支払いをして、手渡された領収書を見ると、宛名が『小松京次』になっている。母の名前で作り変えてもらうように頼むと、係りの人が妙な顔をする。私は腹立たしい思いで言った。
「この人はお金を出しませんから」
父の入院から施設から葬儀まで、一切お金を出そうとしなかった兄なのだ。兄名義のこの霊園の申し込みさえ私に任せきりだ。お金を出すわけがない。手続きも終わり、住職も到着して、過去帳に記載してもらっていたとき、兄夫婦と優太と小さなひ孫二人がやってきた。
先日、下見に来たとき、お墓の掃除と準備は霊園側でするとのことだった。帰りに、ふと気になって行ってみた。見晴るかすばかりの広大な霊園だ。随分前に買ったものだから、区画番号の一桁台の一区画にただ一つ、小松家の墓は草茫々の状態であった。空のまま残っていたのはうちだけだったのだろう。家に母を残している私に時間の余裕もなく、兄嫁が電話で当日早めに来て草むしりすると言っていたしと思い、そのまま帰った。果たして、彼らは早く来て草むしりしたのやらどうやら。どうも、そんな様子には見えないが……。
法要が終わり、納骨のためお墓に。
住職がとてもよくしてくださった。霊園の人によると、法要を済ますと納骨前に帰ってしまう宗旨のところもあるそうだ。住職が遺影やお軸を飾り、前に骨壷を置き、そして私と優太でお花を供え……。しかし、そうこうするうちに強い風が吹き荒れた。とても、ろうそくは無理だったが、何とか線香に火をつけて、一人一人手向けた。母はあまりの強風に身を縮め寒そうに青ざめて、霊園の事務所から運んできたパイプ椅子に座り込んだまま動けない。風は母の薄くなった髪を容赦なく巻き上げている。母は蒼白の顔で目を細め、その激しく吹きつける風に必死に耐えるだけで立ち上がることもできない。やむなく、私が代わりに母の分も線香を手向けた。住職は母の様子を見て、「お経も短めにしましょう」と言われた。済むとすぐに優太に頼んで、震え上がっている母を私の軽に乗せてもらった。住職にはお布施などを渡し、お軸と遺影を預け、深々とお辞儀をして御礼を言った。いまどきの僧侶は気軽なもので、丁度今から葬儀社に行くところなのでついでに返しておきましょうと、遺影の額まで預かってくれた。ひょいと荷台に置くのに「割れませんか?」と心配して聞くと、「ああ、これはプラスチックですから」と笑った。
(何だ。厳重にダンボールに入れなくてよかったのか)
住職は軽自動車を自分で運転して去っていった。
実はこの住職は昨年のあの事件があった際、私自身独りになったときにどうなるのだろうと不安を抱え、人に紹介してもらって相談に行ったそのお寺の住職なのだ。事情を聞いてくださり、その際にはそのお寺で永代供養をしてもらうことになっている。なので、この霊園にはもう来ない。父には悪いが、お墓参りはしないからねと心の中ですでに話してきた。
父の葬儀では兄たちに任せたので、葬儀社が手配した僧侶が来たのだが、何もかもこちらに押し付けられることになって困ってしまい、住職に相談をした。快く引き受けてくださり、本当にお世話になった。こんなことなら、葬儀の初めからお願いすればよかったが……。
「郷山霊園の納骨までこちらがすることになりましたので。私は入れないお墓ですが」
「ああ、その霊園なら私もよく行きます。そこの部屋を借りて法要をすればいいでしょう」
すべての事情を知っている住職はどういう思いで兄たちを見たのだろう。そういえば、初めてお寺に行って話をしたとき、初めはにこやかに笑顔で応対していた住職が次第に痛ましそうな顔になって言ったものだ。
「お兄さんは何かの病気ですか? これからも施設や病院にお金がかかることでしょうし。家はそのためにも売れませんよ」
住職の高齢の母親も入院中で、兄弟が交代で世話しているという。施設に入れず、《胃ろう》をすればこのまま病院に居られるというので、そうすることにしたのだそうだ。私はそのときはじめて《胃ろう》というものを知った。《胃ろう》とは脳卒中や重度の認知症などで口から食事が取れなくなった際に、胃に穴を開けて流動食を流し込み栄養管理を行うことだという。嚥下が出来なくなった患者の胃に穴を開けて、液体栄養剤を入れる管を取り付け、栄養分を流し続けるのだ。
「そこまで、しなくてはいけないものでしょうか?」と聞いた。
「しかし、家族としてはそうするしかありません」
私も病院で体験したように、病院での治療を拒めば退院を迫られるのだ。しかし、引き取ってくれる施設もすぐには見つからない。それに、「命に係わりますよ」と責められれば、家族の立場としては拒否することができなくなる。死んでしまってはかわいそうとも家族は思う。そうして、本人の意思は不明のまま、延命治療が施されることになる。しかし、それって治療じゃないだろうと思う。治らないじゃないか。悲惨な状態をただ長引かせるだけじゃないか。それどころか、更に悲惨な状態にしてしまう。もし、その患者に意識があれば、それを本心から望むものだろうか。私だったら叫ぶだろう。
「こんなの嫌だ! 静かに死なせてくれ!」と。
『かわいそう』とは一体何だろう。死んでしまうのがかわいそうなのか。こんな悲惨な状態で生きた屍にしてしまうことのほうがよっぽどかわいそうではないのか。
『延命』というが、命とは何なのか。人は命をもらってこの世に生まれ、そのときが来れば命を失う。定められているのであろうその死期を『延命』と称して、近代医学は人の医療技術を持って延ばそうとする。沢山の管を身体に挿入し、意識もない人間を植物と化してしまう。もうすでに、人の出生を操作してきた人類は人の死も操作しているのだ。こう考えてくると、何だか恐ろしくなる。人はいずれ死ぬ。それは当たり前のこと。自然と穏やかに老衰で大往生する。それこそ、すばらしいことなのじゃないか。
だから、私は十年前から尊厳死協会に入り、父と母も最近になって入会させた。父母は前々から延命治療は嫌がっていたから。死ぬときはころっと死にたいと言っていた。もう高齢だから、病院もそこまでしないだろうとも言っていた。しかし、最近は違うのだ。病院でも施設でさえも高齢者に延命治療をしている。現に、楠木ホームにも《胃ろう》をした寝たきりの入所者がたくさん居たのだ。こんな不幸な高齢者ばかり増やして、一体長寿の国と誇れるのだろうか。今は『自然死』ではなく、『不自然生』が溢れている。
人は最後まで人らしくありたい。死に様こそ生き様だと思う。自分の意思さえ示せない状態で、人の手を煩わせて下の世話までされて、挙句の果てはスパゲッティ症候群で生きながらえるなんて、真っ平ご免だ。それは人間の『生』ではあるまい。
住職から《胃ろう》の話を聞いた後、テレビなどでその実態を知った。高齢者の場合、しばらくすると寝たきりのまま全く意識もなくなり、悲惨な状態になってしまうという。つまり、植物状態だ。それを広めた医師自身が今では後悔していると言っていた。やはり、今の医療はどこか間違っていると思ったものだ。
小柄で気さくな住職は親切なことに、母がお墓の前で座るパイプ椅子まで小脇に抱えて運んでくれた。兄嫁は連れてきた小さな孫二人に手を取られて、何の役にも立たない。
兄嫁が帰り際、「この後は?」と懲りもせずに聞く。私は元気よく「帰ります」と答えた。すると、「墓石の横に書き入れるんじゃないの? あれはどうなるの?」と言う。
(そんなの知るもんか)
「私は知らないよ。ここの人に聞けば?」
そう言って彼らを残し、そそくさと母と二人、車で霊園を後にした。納骨のときに吹き荒れた突風はいつの間にか治まっている。
帰り道、私は何度安堵の声を上げたことだろう。ため息と共に。
「あー。済んだー。やっと、無事に終わったー」
「そうやねえ」
「あー。よかったー。全て滞りなく、終わったね!」
「ほんとやねえ」
「あー。ほっとしたー」
「そうやねえ」
母は相槌を打つのが上手だ。しばらく走っては安堵の声を上げる私に、母はその都度相槌を打った。葬儀から納骨まで、ちゃんと済ませた。これで、私の役目は果たした。
納骨のとき、あのろうそくに火も灯せない強風を吹かせたのは、父だったのだろうと思う。父はきっとあの旋風に乗って天に駆け上ったに違いない。今後、私はお寺にお参りに行くつもりでお墓参りはしないので、お墓に手を合わせたとき、父の遺骨にさよならとお別れをした。父は心を合わせれば、これからはいつでも私のそばに来てくれる。四十九日の今日まで一日も欠かさず、お供えと線香を上げた。手を合わせて、成仏してください、極楽浄土に往生してくださいと祈った。母はたまに線香を上げていた。こちらに遺骨を持ってきて良かったと今では思う。母は毎日父の遺骨と大きな遺影を見ることで、現実を認識できただろう。
昨日、司法書士の斉藤氏に電話を入れた。諸手続きの進行具合を兄たちに会う前に聞いておきたかったのだ。不動産の変更手続きは済んだとのことだった。では、兄からも委任状はちゃんと返っていたのですねと確認するとすぐに返送されてきたとのこと。父が遺言書を残していたとは初めて知ったはずだ。驚いたに違いない。父の遺言書を前に、兄たちは一体どういう話をしただろうか。人一倍体裁を気にする彼らだ。専門家が入ったことで、恫喝して奪うのは諦めたかもしれない。
今までは不安で母の病気や認知症の進み具合も知られたくなかった。これ幸いと毒牙を剥いてきそうだったから。しかしもう、これで安心だ。どんなに彼らが勝手に家を処分したいと思っても、出来やしない。これからは、母と二人穏やかに暮らせる。母が亡くなるときは兄が喪主だから、向こうがどのように言ってくるかは分からない。が、納骨まではちゃんとしてやろうと思う。後の墓参りはしない。私が一緒には入れないことは母も承知のはずだから。
「兄たちがこの先どんなに悪かったと謝ってきても、絶対一緒の墓に入るのは、こちらから御免被るから。あんな狭い中でボコボコにされたくないもの。だから、お母さん。何も言わないでいいからね」と釘を刺している。
それを聞くたび、母は「もう、どうしてそんなかねえ」と、ただ嘆くだけだ。
我ながら、自分の心の矛盾には気が付いている。あの二月二十八日のあと、兄に一言でも「言い過ぎた。悪かった」と言ってもらいたかった。だからといって、許せたかどうかは分からないが、少しは傷が癒えたかもしれない。しかし、その後全く詫びの言葉は無かった。それどころか、兄の態度を見れば、その後も私に対する憎しみは続いていたと思われる。これほど憎まれるようなことを私はしたのだろうかと、いつも自分を責めてしまう。人に相談するたびに、こんな目に遭う自分が恥ずかしく、情けなく、辛い思いをした。住職に相談をしたときも、自分の煩悩を曝け出すみたいに思った。しかし、仕方がない。理不尽には断固、立ち向かわなければならない。
通夜の前に、優太と未樹が写真を取りに来たとき、未樹との口論の中で、お墓の話をわざとした。私があのお墓に入る気がないことを、明言しておきたかったのだ。後で、兄たちとその話が出たはずだと思う。少なくとも、未樹から兄嫁には伝わったはず。それでも、霊園の手続きから納骨まで、何から何まで私に押し付けてきた。父のためにすることは厭わないが、彼らの性根が許せない。何と厚かましい人たちだろうと思う。母は「たった二人きりの兄妹なのに」と嘆く。私に言わせれば、そのたった一人の妹に、そんな仕打ちをしたことに良心の呵責はないのか。そんな兄に無性に腹が立つ。この先、どんなに謝られても、もうこの傷ついた心は癒えないし、あの墓に入る気は毛の先ほどもない。しかしそれでも、父や母が兄たちに対し、私のための抗議をしてくれていたら、どんなに嬉しかったことだろう。そう、抗議だけでもしてほしかったのだ。そうすれば、多少は気が晴れたかもしれない。しかし、すでにそれも諦めた。
庭の山茶花が満開だ。父がこよなく愛した庭には目白や名も知らない鳥たちがやってきて、いい声で鳴いている。私はクラシックが大好きで毎日のように聞くが、ときに鳥のさえずりを聞くと何にも勝る名曲だと思う。
今年もあと一週間になった。母は介護保険の区分変更で要介護一となり、週三回のデイサービスが可能になった。家に居るときは午前中十時近くまで布団の中で、遅い日は昼近くまで起きてこない。午後も食事以外はテレビを見ながらコタツで横になっている毎日だ。時々心臓がおかしいと訴えるが、最近ではもう少し生きられるみたいだと言い出した。デイサービス先では、楽しくおしゃべりをしているようだ。連絡ノートには、いつも笑顔で饒舌で……とある。多弁も認知症の症状のひとつらしいし、どんな作話をしているものやらとも思うが、本人が楽しくやっているのなら良しとしよう。
先月の初め、母がトイレで倒れたときには正直死んだのかと思った。まだ、父の四十九日も済んでいないのに何てことだ、と狼狽した。呼んでも答えない血の気のない顔はそうとしか思えなかった。あの時、もしかしたら父が連れて行こうとしていたのかもしれないと思う。寂しくて道連れに。
その日のうちに回復した母は、後日こんな話をした。二度も同じ夢を見たのだと。綺麗な景色のところに白い服を着た母の両親や姉たちがずらり並んでいた。その中で母の父親、つまり私の祖父がまだここに来るのは早いと言ったという。また、そこに父の姿はなかったと。あれは四十九日の法要の前で、そのとき父は母のそばにいたのかもしれない。そして、一緒に連れて行こうとしたのだろう。
あれから、母も落ち着いた。母が父の元に行くのもそう遠い日ではないかもしれない。来年には八十七歳になる。進行性のアルツハイマーと診断されて、この先どうなっていくのだろうと不安はある。せめて余生を楽しく穏やかに過ごしてほしいと思う。そして、母を見送る日までは私も頑張って生きなければと思う。それが済めば、私は誰にも知らせず、小さなアパートに引っ越して、この家は兄たちのかねての希望通り売り払い、折半することになる。それでいい。それから、もう誰にも煩わされることのない私だけの生活を、また新たに始めることにしよう。