母の混乱ぶりは見るも耐え難く
(十月八日)
父の葬儀には喪服を着るのだと言い張った母だが、なかなか起きてこない。葬儀場では午前九時からお斎があるのだが、もう間に合わない。兄嫁にはその時間に行けるかどうか分からないとは言っておいた。しかし、喪服を着るなら、もうそろそろ起こさないと葬儀にも間に合わなくなると思い、声を掛けてみた。布団の中から母はだるそうな声で「今日はどこかに行くとかね」と聞いた。
(えー。まさか)と驚きながらも、まだはっきり目が覚めていないのかもしれないと思い、しばらく待った。
「今日は何があるとかね」
「お母さん、昨日通夜だったでしょ。喪服を着るって言ってたでしょ」
「え、誰の通夜って? うーん、誰かねえ?」そういって、頭を抱えている。
「夢を見たとよ。誰かが焼かれようと。その人が全然熱くないよと言うと。えーと、あの顔は誰やろうか」
私はショックを受けて、たまらず泣き出した。何より一番の衝撃だった。
「誰か言おうか?」
「ちょっと待って。誰やったかねえ」
私はひいひいと声を上げて泣いた。横でこれほど私が泣いているのに、それでも気がつかず考え込んでいる母の姿を見ながら、悲惨すぎると思った。
「お父さんでしょ、お母さん」
「ああ、そうか。そうやった」
喪服は夕べのうちに小物などもすべて用意して、母は試着までして、壁に掛けてあった。しかし、それももう間に合わない。通夜に着ていった黒の礼服を着てもらって、ようやく時間に間に合った。
葬儀が済むと、棺の中にお供えの菊花をちぎって皆で納めた。棺に納まった父の顔は昨日は穏やかだと思ったのに、今日は何だか歯をむき出しているように見えた。時間が経つと硬くなり萎縮していくせいらしい。
車に分乗し、火葬場に移動する。火葬が済んで出てきた骨と灰だけの父の姿。むなしさを感じた。これが人間の最期の姿か。葬儀社の担当者が順に親族を呼び、ここはどこの骨ですという説明をしながら箸を差し出す。親族一同が順繰りに骨を取り上げては骨壷に納めていく。私は涙が止まらなくなった。嗚咽しそうなほどだった。三順目に呼ばれたとき、担当者が椅子に腰掛けて泣きしきる私に気がついて、大丈夫ですかと声を掛けた。皆がいっせいに振り向いた。私はハンカチで顔を抑えながら立ち上がったが、そのとき未樹の三歳になる女の子の視線を感じた。この子は赤ちゃんのときから笑わない、人をじぃーと見つめる子だった。未樹に似たその冷たい視線にすーと涙が引いた。
ここは腰の骨ですと担当者が言った。ああ、父が痛い痛いと言っていた腰かと思った。私は心の中で呼びかけた。
(お父さん、身体の悪いところ全部焼けて無くなったね。内臓を蝕んだにっくき癌細胞も、脳神経を圧迫した血腫も、長年辛い思いをした腰痛も何もかも。そして、パンパンに膨れ上がった心臓は役目を終えたんだよね。良かったね。もう、痛くも辛くもないよね)
骨壷に納まった父と遺影と法名軸を抱え、火葬場から葬儀場に戻る。それから続けて、初七日法要だ。最近は葬儀の当日行うことが多いという。兄嫁が子供たちの分や、飲み物などを追加していた。通夜ぶるまいのような大皿ではなく、テーブルで洋食のコース料理だ。昨日も鳥のから揚げなどが出ていたようだが、今日も肉や魚が使われている。いまどきは精進料理じゃないんだと驚いてしまう。食事が済んで、そろそろお開きの時間が近づいた。
兄嫁が寄ってきて、遺骨はそちらで引き取られるだろうから、お位牌をもらいたいと言う。思いがけない言葉に、私は言った。
「でも、そちらに仏間や仏壇があるし、お墓もそちらのだし。こちらのほうはお位牌だけもらいたいんだけど」
すると、兄嫁は非難の目をして「ええっ? 喪主はお母さんでしょ」ときつい声で言った。兄嫁は、今度は母に聞いた。
「遺骨はそちらで引き取られて、法要もそちらでされますよねえ」
すると、母はにこやかに「いやー、もうお別れはしたし……」と、全く家に連れて帰る気はなさそうだ。
兄嫁は「えっ?」と言って、向こうに行ってしまった。兄と相談しているようだ。母が拒否したのが意外だったらしい。戻ってきて、「S市で四十九日をするとなるとお母さん来られる?」と私に聞く。
「それは無理」と首を横に振って答える。母の様子を見れば、分かるだろうに。彼らも無理だと思うから、「お母さん、来られる?」などと聞くのだ。
兄が向こうのテーブルから怒ったように大きな声を出す。
「霊園の近くの寺ですればいいんじゃないか!」
葬儀までは甥姪の配偶者たちとその子供たち全員が揃っていた。しかし、二人の姪の夫たちは、仕事があると途中で帰ってしまっている。身内しか残っていない中で、しかもお酒も一人で飲んでいたし、このままじゃ切れるかもしれないと恐ろしくなってきた。
つまり、兄たちは四十九日の法要も寺の手配も霊園の手配も、そしてもちろん費用もすべて、こちらに押し付けようとしているのだ。その霊園は距離的には彼らの家よりうちのほうがやや近い。だから、家でするにしても、寺でするにしても、とにかくこちらに何もかもさせようとしているのがひしひしと感じられる。しかし、この二日間の母を見れば分かるはずだ。母はもう何も出来やしない。「喪主でしょ」というがそれは名前だけでいいじゃないか。母を哀れに思うなら、長男として代わりにしてやってもいいはずだ。なのに、実際は私がすることになるのを百も承知で、すべてを私に押し付ける腹なのだろう。それにしても、私を入れないと言ったその霊園の手配まで私にさせようとする彼らは、何て厚かましいのだろう。
しかし、父をたらいまわしするようなのもかわいそうだし、兄がまた逆上しそうなのも怖かったので、抵抗はすまいと思った。
「お母さん、お父さんも家に帰りたいだろうから、連れて帰ろう」と母に言うと、母はそれでもなお「もう、お別れしたからいい」と澄まし顔だ。それはいいのだが、遺骨と遺影とお軸と、そして母を連れて、私一人でどうやって帰ればいいのだろう。
兄嫁がまた兄のところに行って相談している。しばらくして、またそばにやってくると、「一人で大変なら、私と京次さんがついていくけど」と言う。冗談じゃない。兄が家に来るなんて、それこそ恐ろしい。私は首を振る。
「いい」
優太が手伝ってくれないものかと思い、そっと目で彼を探す。彼は食事のときは隣の席だったのに、いつの間にか向こうのテーブルに行ってしまって、遠巻きに見ている。
(それも、無理か……)
この日、優太の嫁が子連れで来ている。彼女は妊娠中で体調が悪く、本当は今日来るはずではなかったが、無理して来てくれた。優太は大事な家族を早くつれて帰らなくてはなるまい。私はつっと席を立って、部屋を出、葬儀社の担当者に相談した。遺骨だけを母に持たせて、遺影とお軸は下に置いても構わないということだった。
部屋に戻ると皆が母を取り囲んでいた。母は承服していない顔だった。そんな母や皆を無視して私は言った。
「遺骨だけお母さんに持ってもらえばいいそうだから、車に積むのを手伝ってくれる?」
「いいよ。もちろん」と真知が明るい声で言った。ほっとした顔をして優太が骨壷をいそいそと風呂敷に包んでいる。
お供えされていたお花や果物の大半は姪たちに分け、残りを持って帰ることにした。軽の後ろの荷台に葬儀社から会員に渡されるというテーブルや大きな箱詰めなどや、お花や果物を皆で詰め込み、そして箱の上に遺影を置いた。兄も手を貸してせっせと運び込んでいる。フロントにお軸を横たえた。母の膝の上には遺骨が乗せられた。
皆が見送る中、暗くなりかけた道路へ出る。しばらく走ってから不意に気が付いたのか、母が驚いたように後ろを振り返って言った。
「えっ? 誰もついて来んと? 誰か後ろに乗っとうかと思うとった……」
「そうよ。誰も来んよ。いいよ、私が全部するから」
「まーあ。誰も来んと!」
母は目を丸くして驚きの声を上げる。二日間、憔悴してふらつく母を皆で代わる代わる両脇から抱えて寄り添ってくれた。その彼らがいつの間にか居なくなっていたのだ。兄たちは人前だけと分かるが、優太にしても、親がいる間は何もできないんだなと思った。そう、誰も当てにはできない。当てにした私が間違っていた。
家に着くと、私は大忙しで車から家の中に何往復もして荷物を運び入れた。父と母の部屋にテーブルをセッティングし、遺骨を置き、遺影を飾り、葬儀社にもらった箱から色々なものを取り出して、ろうそくを灯し、線香を上げ……。
なぜか、母はそれを嫌がり、応接室に飾ったらと言う。
「応接室は洋間だし、ソファーとテーブルでいっぱいでしょ。置くところがないもの。お父さんはずっとここに寝ていたんだから、ここでいいじゃない」と言っても、しつこく応接室にと繰り返す。
「応接室は無理よ。見てみたら?」
母は応接室を覗きに行って、無理と分かったらしいが、なおもぐずぐず言い続けた。なぜこんなに嫌がるのか、分からない。遺骨が気味悪くて、同じ部屋に寝るのが怖かったのだろうか? 七十年近くも連れ添った夫なのに……?
(十月十五日)
週明けから私は忙しかった。遺族とは悲しんでばかりはいられないのだと初めて知った。区役所に数々の手続きに行かなくてはならない。区役所の中でも、市民課、保険年金課、納税課。書類が不備だとまたあっちの課、こっちの課と行ったり来たりだ。そして、保健福祉センターに社会保険事務所。病院の支払いと葬儀社の支払い。その合間を縫って、整体へ。
何より驚いたのは、葬儀の次の日から贈答品の会社や仏壇屋が入れ代わり立ち代わりやって来たことだ。何で分かったのですかと聞くと、葬儀場の前を偶然通りかかりましてと皆判で押したように言う。電話も次から次と掛かってくる。更に、宅配便でカタログが勝手に送られてくる。一週間で計十件を越えた。私は嫌になって、すべて断った。いい加減にしてほしい。
今日は午前中に病院の支払いに行き、午後は葬儀社から集金にやってきたが、香典返しもここに依頼することにした。なので、いろいろな売り込みはここから情報が漏れたわけではないようだ。それでは、火葬場から漏れたのか。何々家という立て札はあったが、住所・電話番号までなぜ分かるのか? まだ区役所への手続きはしていないうちからだ。いや、火葬許可を取りに葬儀社が代行で行っていた。では、区役所で情報が漏れたのか? 真相は分からないが、何とも資本主義の弊害だと思う。人の気持ちを無視して商魂たくましく売り込みだけを急ぐのは、全く逆効果としか思えない。
(十月二十七日)
母をもの忘れメンタルクリニックに連れて行く。前から佐野病院の紹介状をもらっていたが、やっと落ち着いたので母の状態をはっきり検査してもらおうと思ったのだ。父が亡くなったことで認知症が急速に進んだようにも見えた。
母はMRの検査を恐る恐る受けていた。結果は来週に出るということで予約して帰った。
(十一月五日)
この日の午後、もの忘れクリニックに結果を聞きに行く予定だったが、昼近く母がトイレで倒れてしまった。
突然、ドンと大きな物音がした。えっと思ったが、その後シーンとしている。何だか、胸騒ぎがした。行ってみると、トイレの戸が半開きになっている。そこから、母の足裏が見えた。
「お母さん! どうした?」
完全に意識がなく、真っ青な顔で仰向きに倒れこみ、便器と壁との狭い間に挟まっている。脈を測ってみようとしたが、よく分からない。父が倒れた日のことが脳裡を掠める。
(まさか……)
震える手で受話器を手にしたが、何番に掛ければいいんだっけと頭が真っ白になっている。
(えーと、警察は一一〇番だから、えーと、救急車は。ああ、そうだ。一一九だ)
「母がトイレで倒れています。呼んでも返事しません」
涙声になって訴えた。電話口で息はありますかと聞かれたが、分からない。待ってもらって、見に行った。
「お母さん! お母さん」と呼ぶと、目をうっすらと開けた。よかった。生きていた。
電話口に戻って気が付きましたと言うと、あれこれ母の病状を聞くので答えている間に、母は這い出てきて廊下に突っ伏している。敷布団を敷き、母を寝かせた。救急車が来て、応急処置をし、佐野病院に搬送することになった。普段着のままだがいいやと、急いで靴下だけ履き替え戸締りをして外に出た。あまりに慌てふためいている私を見かねたのか、救急隊員が声を掛けた。
「命に別状はありませんから、大丈夫ですよ。保険証は持たれましたか? 戸締りと火の始末はいいですね」
私は頷いて、急いで救急車に乗り込んだ。
佐野病院では担当医が待ち受けていた。点滴と検査を受けた。幸い、脳梗塞ではなかった。トイレで倒れるのは高齢者に多いのだという。自律神経の失調で一時的に血圧が下がるらしい。頭も打ってはいないようだし、入院もしないでいいだろうということで数時間後、帰宅した。
(十一月十二日)
倒れたため一週間延ばしになっていた母のメンタルクリニック行きの日。結果を聞きに私だけが行くことになっている。
やはり、MR検査で母がアルツハイマーであることがはっきりした。これからも進行していくだろうと医師に言われた。長谷川式では一五という。母が書いた時計の図を見せてもらったが、長い時間かかって書いたのだという数字があちこち妙な具合に固まっていた。これまで、壊れていく母の様子を不安な思いで見続けてきた私には、最後通告を受けたようなものだった。
「もう、諦めました」
すると、女医は穏やかな口調で、訂正するように言った。
「受け入れるのですよ」
(受け入れる……?)
何かにも書いてあった。『諦める』のではなく、『受け入れる』。しかし、それは家族の、特に子どもの気持ちからは離れたものだと思う。
私は昔から、あまり親に相談しない、割と自立心の強い子どもだった。自分のプライバシーを大事にする、親にとっては内緒事の多い、甘えない、そんなかわいげのない子どもだったろう。しかし、親が壊れて初めて、気が付いた。私にも親を当然のように頼る心があったということに。権威というか、支えというか、親というものは本来そういう絶対的なものがあるのだ。当たり前に頼りにすることも、日常の些細な話し合いさえも一切出来なくなって、その『絶対的』なものを意識して捨て去らなければならなくなった。それには、まず『諦める』ことが必要だった。もう、以前の母ではないのだと殊更に自分に言い聞かせなくてはならない。母は今、私に頼り切った生活をしている。私がいないと、一日として過ごせないだろう。立場は全く逆転してしまった。
治療としてはすでに去年から服用している薬しかないが、これは進行を遅くするだけで治すわけではないこと。いずれ、効果があるかもしれない薬が使用できるようになるだろうとのことだった。後は、デイサービスを週三回利用できればいいのですがと、優しそうな女医は言った。今現在、母の要介護度は要支援の一である。デイサービスは週一回しか行けない。区分変更の申し込みをすれば、介護度が上がるというので、包括に相談してみることにした。