全ては父が倒れてから始まった
深い眠りの中にいた。
その淵から呼び覚ましたのは、けたたましい電話の音だった。二〇一〇年十月七日の早朝六時、父のレベルが落ちたという看護師のか細げながらも緊迫した声に、まだ回転の遅い頭はぼんやりと、どうしたらいいのだろうと考えた。
「どの位で来られますか」との問いに「うーん、寝ていたので……。三十分、いや四十分……」とやっとのことで答える。
「気をつけて来てください」と看護師は繰り返し言った。
母はまだ眠っている。八十六歳になる母、佐紀子は体調が悪く、朝が遅い。その母を起こして準備させてなど、悠長にはしていられない緊急事態に違いない。大急ぎで身支度を済ませ、声を掛けて家を出たが、母は理解したのかどうか。
街は白々明けで、車の通りも少なく、スムーズに病院に着いた。病院の中も森閑としていて、まだ機能していない。廊下には人影もなく、父の病室も分からない。二週間ほど前に救急で入院して以来、頻繁に部屋を移動させられていて、行くたびに部屋が変わっていたし、さて、どこに行けばいいのやら。
三階の廊下できょろきょろしていると、一人掃除をしている女性が「どうされました?」と声を掛けてきた。丁度そのとき、詰め所の奥から「小松さんが……」という女性の声が聞こえた。医師が駆けつけたばかりらしく、三人顔を合わせると無言のまま病室に向かう。父のベッドの周りには点滴などの医療器具も何もなく、一人ぽつんと寝かされていた。
「えっ、全部外されてる……?」
私は顔を手で覆って、医師のほうを見た。医師は父に手を差し伸べるでもなく、そばに寄ろうともせず、父の足元で突っ立ったまま、気の毒そうに私を見て頷いた。
「六時六分でした」という看護師の報告を聞くと、医師はそのまま私を残して部屋を出て行った。想像していたのとは全く違う。医師が手を取って脈を測り、瞳孔を見て「ご臨終です」と宣告する。そういう光景はなかった。全てが静止した冷たく無機質な空間に、ただぽつんと……。そこにはもう父ではない、すでに単なる物体と化した抜け殻が横たわっていた。私は呆然と立ち尽くした。これが父、小松満夫の最期だった。享年九十五。
(二〇〇九年六月二十三日)
父が脳梗塞で倒れた。
今日は月に一度の病院行きの日だった。昼食後、居間で父は横になって、テレビを見ていた。年とともにますます気が短くなっている父は、いつも早めに準備を済ませて私を急かすくせに、なぜか今日は寝そべったまま、なかなか腰を上げようとしない。
「そろそろ行くよ」と声を掛けながら、私も出かける準備をしていた。
母が「お父さん、お父さん」と呼びかけている。そして、「返事もせん」とプリプリ怒っている。母の肩越しに見ると父の様子が変だ。意識朦朧のようだ。
「お父さん、どうした?」と呼びかけると必死に口を動かす。
「ど・う・も・な・い」と微かに聞き取れた。その口の中から分厚く巻きついた舌が覗いた。これは、完全にろれつが回っていない。起きようとしているのか、右手を上に突き上げ、空を掴むかのように妙に指を動かしているが、仰向けのまま身体は硬く動かない。目はうつろでかなたをさまよっている。
(これは大変だ、救急車を呼ばなきゃ)と震える手でダイヤルを回す。
(落ち着け!)と自分を励ましながら、電話で状況説明をした。
「救急車が到着するまでに呼吸が止まったら、また電話をしてください。人工呼吸のやり方を教えますから」と言われ、更に緊張してしまう。母はただ父の横に座り込んだまま、おろおろしているばかりだ。
そして、私も救急車に乗り込んで、父は日赤病院に救急搬送された。
救急の医師から、三時間以内に血栓を溶かす薬を用いたいが家族の許可がいると言われた。この薬を投与しないと、寝たきりか、良くても車椅子生活になるだろう。人により違いがあり、投与すれば歩けるようになる人も効果が全く出ない人もある。また強い薬で副作用のリスクもあると聞く。
母に電話をすると、「してもらって」と言う。兄への連絡を頼み、その到着を待った。
救急処置の間、既往症などを繰り返し聞かれ、数枚の書類を書かされる。四年前私が同居してから、思えば毎年のようにいろいろあった。
まず一昨々年、夕食後のこと、横になりテレビを見ていた父の組んだ足がドタンと畳みに落ちた。急に力が入らなくなったという。夜のことで、かかりつけ医に電話したが、あいにく留守。連絡は取れ相談したが、そうするうちに足に力も入るようになっていたので、翌日クリニックへ。検査をしたほうがいいとのことで、N病院を紹介され、母もともに車で連れて行く。
そこで、随分待たされた。散々待たされた挙句、診察室に呼ばれて、医師が言った。何ですぐに連れて来なかったのかと。私の前に母が呼ばれ、しつこく言われていたらしく、母は妙な顔をして医師の前で固まっていた。レントゲン写真を前に母と私に向かって長々と説明しながら、しかし、ここにはこれ以上詳しく検査をする装置がないので、これから日赤に救急搬送すると言った。ならば、説明なんかいいから、さっさとしてくれと内心腹が立つ思いをこらえて、更に救急車が来るまで待合室で待たされ日赤へ。そして、検査入院。一過性の虚血症とやらで一週間ほどの入院だった。
次に、一昨年はやはり月一の検診の日。父がきちんと外出着に着替え、持って行くものなどを用意していたときだった。ガチャンと音がして駆けつけると、鏡台が倒れいろいろなものが散乱し、その中に父は尻餅をついていた。しきりに腕時計を左手に止めようとするばかりで、話しかけても返事をしない。もう私も出かける準備が出来ていたので、このまま車で病院に連れて行こうと思って、散乱した保険証や診察券などをかき集めていると、父は立ち上がり、今度は引き出しを開けて何か探している様子だ。
「保険証ならここにあるよ」と言いつつ、やっとのことで車に乗せ、近所のかかりつけのクリニックへ。そこからすぐに日赤に救急搬送することになった。しかし、このときは日赤についた頃には意識もはっきりし、入院することもなく帰された。後になって思ったが、昔から飲み続けていたワーファリンをこのところ痔出血があり、その手術のために二週間ほど止めた。その影響が出たのだったろう。
そして、去年の夏。熱を出し、佐野病院に入院。ウイルスか細菌か、結局原因は分からなかったが、気管支炎から悪くすれば急変して肺炎になると命が危ないと言われた。ちょうど同じ位の年の男性が同じような症状で急変して亡くなったと。私は自分の『尊厳死の宣言書』を見せ、年齢的にも覚悟はしていると、のどを詰まらせながら医師に言った。
しかし、幸い熱は下がり、命は取り止めた。心臓がパンパンにはれ上がっていて、心臓内膜炎による熱か、癌による熱かもしれないとも言われた。しかし、もう高齢なのできつい検査はしないでほしいと私は言った。今更、癌と分かってどうなるものでもないではないか。父はそのときすでに満九十三歳。癌の治療や手術に耐えられる身体ではなかろう。丁度その頃、私の中学校時代の友達が五十歳半ばで癌にかかり、二年ほどの壮絶な闘病の末、亡くなっていた。手術、放射線治療、制癌剤投与等々を辛い顔も見せず耐え抜いた。彼女とは久しぶりの同窓会で再会して後、よく二人で植物園や公園に行き、一緒に花見をしたものだ。彼女は健脚で、何時間でも歩いた。必ず、私のほうが先に疲れ果てた。そんな元気だった彼女が癌に侵され一旦は治ったように見えたものの、結局再発し亡くなった。しばらくは気落ちして、立ち直れなかった。結果論かも知れないが、どうせ亡くなるものなら、あんな辛い闘病などせず、残りの人生をもっと楽しく大事に過ごしたほうが良かったのではないか。そう、思えてならない。
また、父は十年ほど前に心不全で一、二週間ほど入院した。それ以来、慢性心不全で毎日の服薬と月一回の通院は欠かせないものだった。去年の入院は三週間ほどすると、本人が早く帰りたいとリハビリを拒否するもので、仕方なく退院となった。
振り返ってみれば、脳梗塞はすでに三年前から始まっていたのかもしれない。
最大の発作に見舞われた今日、強い薬で父は危機を脱した様子。意識も戻ったというので面会したが、私と兄夫婦を認識したのやらどうなのやら、看護師のほうに顔を向けて、口をすぼめてキスをするような仕草をする。周りを取り囲む医師や看護師たちの手前、何やら恥ずかしく、わざと「何て顔をしてるの」と笑いで済ませたが、不安な思いがする。脳梗塞の後遺症がどこまでのものなのか……。果たして元の父に戻るものなのか。
救急の治療が終わり、ICUに移動するというので、その病棟の待合室で兄の京次とその嫁の厚子と三人で待たされる。そのときに八十五歳になる母の話になった。今のかかりつけのクリニックでは何かと不安なので、佐野病院に変わりたいと思っていること。佐野病院だと訪問看護に来てもらえ自宅で点滴が受けられるし、いざというときは入院も出来るのだけれど、なかなか母が承知しないこと。最近、物忘れが激しく世話が大変なことなどを話していると、兄嫁がこんなことを言う。
「いちいち言うことを聞かんでいいよ。さっさと思うようにすればいいったい。そうせんと、身体がもたんよ。」
(えっ)と思った。大変ではあるけれど、本人が納得することでないと私は実行に移したくない。どうしてもの時は何度も話して納得させる。それでも駄目なら、諦めるしかない。(でも、この人は違うんだ)と、私は兄嫁の内面を垣間見た気がした。
(六月二十四日)
下着やパジャマ、それと普段服用している薬などを持ってICUに。
父はベッドではなく、すでに車椅子に座っていた。私のことが分かっているのかどうか、一言も発しない。変に取り澄ました顔をして、看護師の手の上に自分の手を置いてさすっている。看護師は慣れているのか、黙ってされるがままになっている。
(まさか、性欲だけが甦ったのではあるまいか?)
不安な思いが心の底に忍び寄る。
(六月二十五日)
午前中に、昨日持って行っていなかった目薬など、不足していたものを届ける。OCUに移されていた。
午後には一般病棟に移るというので、再び、母を連れ日赤へ。
「お父さん、お母さんを連れてきたよ」と言っても分からないのか返事もしない。すると突然、顔をしかめ頭を抱えて「痛い、痛い」と言い出す。目を固く瞑って、開けようともしない。せっかく、母を連れてきたのに。何とも、これはひどい有様だ。担当の先生は回診中で、しばらくしたら廻ってこられるという。
母だけ椅子に掛けさせて、所在無くそんな父を見ていると、看護師がリハビリに連れていきますと入ってきた。こんなに頭が痛いと言っているのに大丈夫なのだろうか。看護師が三人がかりで、痛い痛いと身体を突っ張って嫌がる父をベッドから車椅子に移す。父は母のほうを見向きもせずに部屋から廊下に出ると、途端ににこやかな顔に変わって、車椅子から手を伸ばし看護師の胸をまさぐろうとしている。看護師が笑いながら「ハンカチか何かありませんか。手に持たせておきたいんですが」と私に言う。何なんだこれはと思う。幸い、母は見ていなかったからいいけど……。
空のベッドの横で母と二人ぼんやりしていると、小柄で年配のたぶん偉い先生を先頭に数人の医師や研修医が部屋に入ってきた。
「頭が痛いと言っていましたが、大丈夫でしょうか」と聞くと、その偉そうな先生が「たぶん、せん妄でしょうが、念のため、頭の検査をしてみましょう」と言って去っていった。四人部屋だが、三人はリハビリでベッドは空っぽ。そんな中、ぞろぞろ回診って何なのだろう?
看護師からおむつを売店から買ってきてほしいと頼まれた。日赤は大きく広い。いくつもの棟があり、玄関から父の病室までは相当の距離がある。時にふらつく母に手を貸しながら一階に降り、階段の手すりのそばに母を待たせておくことにした。売店で買い物を済ませ父の病室まで取って返すと、看護師からパッドも要るんだったと聞く。うら若い看護師が何の恥じらいも見せず「パッドはですね、何々をこうやってくるむんです」と、丁寧に要らない説明をする。再び、一階に降り、売店へ。途中で母に大丈夫かと声を掛け、パッドを買って病室に届ける。
母はぐったりした様子。早くも車椅子に座れるまでに回復した父を見せてやろうと思ったのに、あんな姿を見せてしまって、母には残酷なことをした。連れて来なければ良かったと後悔した。
(六月三十日)
佐野病院に父転院の面談に行く。
日赤に入院できるのは急性期の間のみ。それ以後は、回復期となり、リハビリを受けるために転院することになる。それで、昨年も入院した佐野病院に転院することにしたのだ。
(七月二日)
父は私を認めるようになった。
「おう、綾子か。母さんは元気か。京次は来んが、どうしとうとか。仕事をしようとか。ひ孫たちに小遣いをやろう。葉っぱをな」と、話が変になってくる。
「種類の違う葉っぱを集めてな。この葉っぱ一枚がいくらでな。こっちの葉っぱはいくらたいな。」
まるで、狐か狸の話みたいだと思いながら、「そうね、そうね」と相槌を打ちながら聞いている。
「今度、葉っぱを持ってきてな」
私が帰ろうとすると、慌てて車椅子から立ち上がろうとする。そして、必死の形相で言う。
「わしも帰る。連れて帰ってくれ」
そんな父を置き去りにして、私は逃げるように帰るのだ。
(ごめんね、お父さん)
(七月六日)
佐野病院入院手続きのため、入院誓約書の連帯保証人の署名が必要になり、兄に電話を入れた。
「仕事が忙しい。速達で送ってくれ」と言う。兄夫婦は二十数年前、親が住むT市から何十キロか離れたS市に家を建てた。三人の子どもたちはすでに結婚し、それぞれ別に暮らしている。
転院まで日にちもないし、兄はこちらのT市内で仕事をしているのだから、来られないはずないだろうにと不満に思う。結局、家までは行けないが、日赤でならというので、待ち合わせることにした。日赤から家まで車で二十分くらいしか掛からないのだが……。
日赤の待合室で署名、捺印を済ませて、「実は頼みがある」と改まって言い出したのが、何と、兄たちが夫婦で韓国に旅行するという話だった。
(えっ? 韓国? 旅行!)
驚いた。父が入院してまだ二週間にしかならない。左半側空間無視、左手足の麻痺、感覚障害、せん妄などなど、後遺症が色濃く残る状態なのに……。このところ私のことは分かるようになったが、変なつじつまの合わない話ばかりするし、夜は三十分おきに尿意を催し、手が掛かるというので昼も夜もナースステーション内で世話している様子なのだ。
「キャンセルしょうかと思うとったが、落ち着いたようやけん」と言う。
何が落ち着いているものかと言いたい思いを胸に閉まい、連絡はつくのかと聞くと、首を振り、更に思いがけないことを言う。
「もしものことを考えて、親父の預金は解約しとったほうがいいぞ。凍結すると困ることになるからな」
私は思いも付かなかった。そんなもしものことを考えていながら、それでも韓国旅行に行くというのか。連絡もつかないのに? 全く、理解ができない。