となりの重力
ざわざわした教室に食事の匂いが充満する時間、なんとなくの空気でなんとなくいつもの人・場所へと散らばる生徒たち。中学校でのような、皆一斉に準備を始め皆で食べ始めなければいけない窮屈さはない。一人で音楽を聴いていたり漫画を読みながらの休息を許されている空間がありがたいと、凪は散らばるクラスメイト達を眺めながらほっと息をついた。
「お、凪くんのお弁当相変わらずおいしそーね」
前の席の前田がひょいとのぞき込む。前田は誰にでも気軽に声をかける、選民意識のないタイプの明るい人間だ。凪がクラス内で浮きすぎずにいられるのは、前田のなんてことない雑談のおかげかもしれない。毎日そう思って、毎日感謝を募らせている。それなのに、「あ、うん、そうだね。まぁいつも通り…」と気持ちとは裏腹に無機質な返答になってしまう。
弁当箱を見下ろす。変に飾り付けられているわけでもないが、つくねや人参、ひじきやインゲンが彩りよく盛られた完璧なお弁当。空腹ではない痛みで、きゅうと内臓が絞られるような感覚になる。母は応援してくれている。愛がある。
「そのいつも通りが愛なんだよ~な~あぁ~」
前田が突然歌い出し〈愛〉という音が頭の中の文字にぶつかって重なった。その重たさに首をもたげそうになる。前田は凪の知らない曲を鼻歌しながら上機嫌で教室のドアへ向かい、「なー霧島ー!」と食堂へ向かおうとしていた長身の男の背中をどつく。
なぜ、叩くんだ。仰天したが、周りの当たり前が凪のそれと一致しないことは、これまで17年の人生経験から心底理解しているので、困惑が顔に出る前に飲み込んだ。
霧島と呼ばれた生徒は、嫌そうにも嬉しそうにもせず、ただ「いくぞー」と大股で廊下へ消えた。何か特別なことをしているわけでもないのに、いつでも堂々として揺るがない。自己の輪郭がくっきりしていて、自分が何者であるかや存在意義を疑ったことなど一秒もなさそうな——そういう種類の人間だと凪は思っている。彼がいつもクラスの中心にいるのは、彼の持つ重力の話だ。霧島が笑えば周りも笑う。霧島が動けば場の空気が動く。本人にはおそらく自覚がない。
窓際の席でお弁当を咀嚼しながら、中庭を挟んだ反対側の廊下を見下ろす。ちょうど食堂へ向かう霧島一同が廊下を歩いていた。
げらげらと笑っている。いつも凪にはわからない面白さを、彼らは共有している。凪にはあんな風に笑った記憶が人生で一度もない。種類の違う人間、ただそれだけだ。——それだけで充分に、人生の絶望を説明できる気がする。
気を緩めると机に突っ伏してそのまま石になってしまいそうで、凪は努めてほんのり口角をあげながら美味しいおかずを口に運び続けた。なんで教室の喧騒に溺れそうになってしまうのだろう。霧島や前田が見ているような世界が、凪には見えない。未来がどんよりと灰色に塗りつぶされている恐怖は、どうしたら誰かに伝わるのか。伝えたところで困らせてしまうだけだ。わかっている。だから一人でこれに立ち向かわなくてはいけない。押しつぶされたときが凪の寿命なのか。死にたくはないなぁ、これ以上家族に迷惑をかけるわけにはいかないから。
もぐもぐ口を動かすたびに、ぽん、ぽん、ぽん、ぽんと浮かんでくる思考を聞き流しながら、凪は窓越しに四月末の麗らかな日差しをぼんやりと見つめた。
お弁当を食べ終わり、調子が良ければそのまま教室で本を読むのだが、今日は頭の中がうるさくて集中できそうにないのでトイレへ向かった。個室で便座に腰かけてうずくまる。その時間はとても惨めで、あまりにもわかりやすく悲劇の主人公だ。一周回って冷静に凪自身を外から眺めることができて落ち着く、凪なりのスクールライフハックである。今日も今日とてうずくまるぞ。悲劇に浸りきらない冷静さを、凪は大事にしている。
「次、数学ー!やば、小テストあるん!?えーー…!」
「りなちゃんに告ろうと思う…!おん、ありが…!」
「森田はないよ、あいつは誘わん!」
「…だって。——ねぇ!はははーーー」
あちこちの教室から、廊下を歩く生徒から、笑い声や話し声が溢れている。全部、凪には関係ない。人の放つ音の圧に眩暈を起こしそうになる。足元が今にも抜け落ちそうな感覚に追われるようにして、凪はトイレに駆け込み個室のドアをそっと閉めた。




