1.
リーシャ=スプライント。
グレイロール王国の中でも大きな権力を有するスプライント侯爵家の長女。これが産まれた時から私に与えられた名前と立場。
実の母であるアドレアナ=スプライントは昔から厳しい女性だった。
母は私に貴族としての心得を幼い頃から叩き込んだ上、貴族としての教養やらテーブルマナー、淑女の嗜みとしてレース編みやピアノ、ヴァイオリン、オペラなど、まるで私の空っぽの中身を全てそれで埋め尽くしてやると言わんばかりにたくさんの知識を詰め込んで来た。
しかし、正直私は叩き込まれた知識のどれもに興味を持てなかった。なにかそれら全てに違和感を感じ続けていたのだ。確かに母の与えた知識はスポンジが水を吸い込むように私の中に吸収されていった。でも何かが違う、欲しいのはこれじゃないと違和感を感じるのだ。
自分では『違和感』だとしか言いようがないが、教え込まれたどんなものも並以上……何故か『天才』だと評されるくらいにはどれも習熟してきた。しかし、しっくりとこないのだ。それを続けている自分自身に気持ちの悪さと不快感を感じる。周囲に羨まれても何も感じない。恨まれてもその事実と出来ること自体に興味がなさ過ぎて、申し訳なさすら生まれる。けれどそれを母の前で言葉にできなかった。
既に亡くなっている父……前侯爵は私の事をどう思っていたか知らないが、少なくとも母は私の事を愛してくれていると思う。だからこそ、母の想いに、その愛情に応えてあげたかったのかもしれない。だって何もかもに興味がないとは思うが、私は母のためだと思えば昔から頑張ることができたから。
私のことを想ってくれている母に、父が亡くなってからは私が正統に侯爵家を継承できるまでと国から許可までもぎ取った上に、代わりに侯爵としての仕事をしながらも、女手一つで私を育て続けてくれていた母に報いるために。
何も渡してあげられない無力な私は、母からの愛を少しでも何かしらの形で返したかったのかもしれない。
だって母は全て私の将来を考えてくれた上で、そして私のこの違和感を知っている上で、私に対して色んな知識を与えてくれている。『一つでも貴女が好きだと思えることがあれば、それが私にとっての幸せよ』そう昔から言っていた。
大好きな人の期待に応えたいと思うのは人間として当然のことだろう。……今まで好きだと思える程に楽しいことには出会えたことがなかったが。
だからこそ、婚約者であるオーランド=レッドグルールとの婚約が決まった時も何も文句は言わなかった。
婚約というものは貴族として当然のことだと思ったから。義務だと分かっていたから。そして何よりも母が『幸せになって』と、とても喜んで祝ってくれたから、これは正しいことなのだと考えた。
人によっては押しつけに感じるかもしれない。けれど、私にとってはそうじゃなかった。私のような空っぽな人間では孤独を抜け出して、母を安心させてあげることが出来なかったから。
私の将来を心配する母を少しでも安心させてあげられるのならば、それだけで満足だった。
学院で与えられる知識のみを取り込み、何も楽しいことなどない無意味な日常。
そして『婚約者としての時間を大切に』という母の言葉に従って、オーランドを昼食やデートに誘う。彼を知って少しでも好きになれるように。母の望む姿になれるように――。
今回も母にオペラのチケットを貰ったから、一緒に行かないかという誘いのタイミングでのこの出来事だった。
だからオーランドにあんなことを言われて私は――とても《《腹が立った》》。
楽しいことを見つけられない私を嘲笑うかのように、隙などないほどに詰め込まれた知識。趣味を見つけろですって?今まで私はその好きな事、趣味を見つけるためにも色んな事に挑戦してきた。正直挑戦しすぎて死にかけたこともある。危ないことにも割と手を出した。
でも、それでも見つけられなかったのだ。母と会う度に、まだ好きなことを一つも見つけられていない、何をしても虚無感しか感じないことを何度悔しく思ったか。
しかしそんな自身の生き方を全て否定するような言葉を吐き捨てられて、産まれて初めて『強い怒り』という感情が湧いた。
何故なのかは分からない。彼に否定されたようで、私はとても傷付いたのだ。頑張って仲良くなろう……いや、仲良くなりたいと私は思っていたから、それを無碍にされて、私が必要としているであろうものを他の女の子に対して目を向けているであろう彼に対して、身から溢れ出すほどの怒りに震えた。
それに母の厚意が無駄になってしまったという事実にも心が痛んだ。とにかく感情がぐちゃぐちゃになってしまったのだ。言葉では言い表せない程にたくさんの感情が心に生まれた。
周囲からは感情がないのか?と言われる程に無表情かつ自分でも無感情な人間だと感じる程に起伏のない心。私も時々自分の心は凍てついていて、人間ではないのかと思う事もある。
そんな私が感じた最も激しい感情。それがオーランドの言葉に対する怒りだった。そこからどんどん知らない感情があふれ出して止まらない。
しかしながら、私にはその初めての感情をどこにぶつけることもできず、なんなら唐突なことすぎて驚いていたのもあるが、結局彼には一言答えただけだった。
「承知いたしました、オーランド様。お忙しい中、今まで私に時間を割いていただき、ありがとうございました」
その言葉に対して彼は目を見開いて驚く。
どうやら私の口からここまでいとも簡単に了承の言葉が出るとは思っていなかったらしい。
彼がおどおどしていようと、もう何をしようとも思えない。彼に対して何かしらのアクションをしようと動いていた思考が全て氷漬けにされたように動かない。
「さようなら」
まるで今までの自分に別れを告げるかのようにその言葉が出た。事実、オーランドに対する決別だったのかもしれない。
私はそのまま彼の前から歩き去った。




