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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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完成稿と沈黙の間

 煙草の香りが柔らかく漂う仕事場に、姫川はそっと足を踏み入れる。

 机の上には半紙と硯、まだ湿った墨が置かれている。部屋の中には、いつものように煙草の香りが静かに漂っていた。

「…完成稿、持ってきました」 姫川は声を抑え、資料を机に置く。


 佐伯は半紙に向かい、筆を手にしたまま、視線を上げて短く言った。「……ああ」


 姫川は資料を机に置く。佐伯は軽く指先で押さえ、目を通す。

 短い沈黙の中で、二人の呼吸だけが静かに響く。


「線のバランス、書の配置……佐伯さんの書が生きるようにしました」姫川の声は落ち着いているが、胸の奥では微かに緊張していた。


 佐伯は資料を一枚ずつ指で押さえ、目を通す。 「……悪くない」短い言葉だが、評価と感情がぎゅっと詰まっている。


 沈黙が再び落ちる。姫川は机の端に少し寄り、資料を確認しながら佐伯の筆先を意識する。線が紙に落ちるたび、空気のリズムが微かに変わる。

 胸の奥に、静かなざわめきが生まれる。


「……この線、少し強すぎるな」そう小さく呟く。普段ならもう少し口数の多い男だが、筆に向かう今は最小限の言葉だけだ。


 姫川はそれに頷き、軽く修正案を示す。 全ての確認が終わると、佐伯は筆を置き、静かに息をつく。 「……これでいい」 短い言葉に、確かな決定と安心感が込められている。


 姫川は自然に笑みを返す。 沈黙の中で交わる感覚は、言葉以上に確かなものだった。

 筆と墨、紙と線、呼吸と呼吸。言葉にせずとも、二人の世界は少しずつ交わっている。




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