静かな共鳴
沈みかけた午後の陽が、窓辺の半紙をそっと撫でる。
半紙と墨、そしてほのかに漂う煙草の香り。日常の光景でありながら、どこか特別な時間の匂いも帯びていた。佐伯は筆を手に取り、紙に向かう。
線を引く指先に迷いはない。
だが、無意識に心はふと浮遊し、あの夜のことを思い返す。
ソファで向かい合った時間、重なり合った視線、そして短いキス。意味はなかった筈なのに、胸の奥に小さな余韻を残していた。
窓の外を見やると、街のざわめきが微かに入り込む。目の端で揺れる影、通り過ぎる人々の動き、どれも日常の一部なのに、今の自分には、あの夜の感覚を呼び起こすきっかけに思えた。
筆先が半紙に触れ、墨が線を描く。その動きに合わせ、佐伯の胸の奥で小さな波紋が広がる。
無意識に、誰かを想う感覚。けれど、それはまだ名前のないものだった。
少しして、玄関のチャイムが鳴る。 佐伯は、立ち上がる事もなく、目線だけで誰かを待つ。
玄関の向こうから、姫川の声が微かに聞こえた。
「……唯、少し、会いたくなっただけです」
佐伯は一瞬だけ眉をひそめた。
仕事でも、用事でもない言葉が、思った以上に胸に引っかかる。そのまま数秒、動かなかった。
――今、開けていいのか。
自分でも理由の分からない迷いが、筆を持つ手に残っている。
だが、答えを出す前に、佐伯は立ち上がっていた。
部屋に入った姫川は、無意識に肩を少し引き、距離を取る。
佐伯はその距離に目を向ける事なく、唯筆を手に戻す。言葉は交わさない。沈黙の中で、互いの存在を確かめ合うだけで十分だった。
姫川が視線を机の上に落とす。
筆先に集中する佐伯の手元、左手首の刺青、紙に吸い込まれる墨の黒。すべてが、無言の共鳴のように感じられる。
時間がゆっくり流れる。 言葉を交わさずとも、互いの呼吸や存在が重なり合い、胸の奥で静かな振動を生む。
まだ名前はない。
しかし、次に会う時、きっと何かが変わる予感が、二人の心に小さく残った。




