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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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見本誌のある午後

 昼過ぎ、外の光が通りの向こうから差し込む。

 佐伯の仕事場の窓は少し開いていて、街のざわめきが微かに混ざった空気が流れ込む。

  机には散らばった半紙や使い込まれた硯、まだ乾ききらない墨が並び、煙草の箱も、ライターも、すぐ手の届く位置に置かれている。


 インターホンが鳴る。 佐伯は軽く肩をすくめ、扉まで歩く。

 ドアを開けると、姫川が立っていた。


「見本誌、届きました」


 短く告げる姫川に、佐伯は無言で頷くだけだ。

 特別な笑顔も、驚きもない。

 だが、目をそらさずに立っている姿が妙に印象に残る。


 佐伯は机の上に見本誌を置く。 姫川は手を伸ばし、紙の束を軽く確認するように指先で触れる。


「確認、お願いします」 言葉はそれだけだ。


 佐伯は煙草を取り出し、火を点ける。煙がゆっくりと立ち上る。

 二人は短く視線を交わす。 何かを話す必要はない。


 仕事の確認の為に来たという事実だけで、互いに十分理解している。 姫川は机の端に少し寄り、資料や書籍と並んだ見本誌を軽く手で押さえながら、唯静かに立っている。


  佐伯は煙草の煙を深く吸い込み、窓の外に少しだけ吐き出す。

 その間に、姫川は視線を机の上の見本誌に落とす。 特別な事ではない。唯、そこにあるものを認めるだけ。


 沈黙が二人の間にゆっくりと流れる。


「それじゃ、失礼します」


 姫川の声が軽く響き、立ち上がる。佐伯は特に返事をせず、軽く頷く。

 ドアが閉まる音だけが、部屋に静かに残った。

 佐伯は煙草をもう一度取り出す。

 すでに火をつけていた分も含め、六本程吸う。


 紙の擦れる音、煙草の匂い、外のわずかな風の音。全てが深く静かな午後の空気を作る。

 机の上の見本誌に、佐伯は視線を落とす。

 まだ開かない。表紙は伏せたまま、そこに置かれている。ページをめくる事も、評価する事も、言葉にする事もない。


 唯、存在を認める。受け取る。それだけだ。

 やがて煙草の煙が室内に漂い、佐伯は深く息を吐く。半紙の束を整理し、筆を手に取る。

 見本誌の重さを意識しながらも、生活は静かに続く。墨を含ませ、紙に筆を落とすと、線はいつも通り呼吸する。


 机の上で、見本誌は静かに重さを主張していた。 佐伯はその存在を胸の片隅に留め、筆先に集中する。

 外の世界はまだ昼の光の中だが、部屋の中はすでに静かで、深い時間の気配を帯びていた。





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