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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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番外編:静かな火

 昼下がりの街は、休日特有の緩やかなざわめきに包まれていた。

 人の流れは途切れることなく続き、ガラス張りの店舗には春物の服や靴が整然と並んでいる。風はまだ少し冷たさを残しているが、陽射しは柔らかく、肩の力を抜かせるには十分だった。


「珍しいですね、佐伯さんが買い物だなんて」


 姫川はそう言いながら、店のショーウィンドウ越しに佐伯の横顔を覗き込む。佐伯はいつもの無表情のまま、ネクタイの並ぶ棚から視線を外さずに答えた。


「前から買おうとは思ってたが、タイミングがなかっただけだ」


「スーツですか?」


「あぁ。仕事用だ。ちゃんとしたのを一着な」言葉は短いが、その声には迷いがなかった。


 姫川は小さく頷き、何も言わず隣を歩く。以前なら、冗談を言ったり、必要以上に踏み込んだりしていたかもしれない。

 今は、佐伯が自分のペースで選ぶ時間を、自然に尊重できていた。


 店内は静かで、布の擦れる音と靴音だけが響く。佐伯はスリーピースのスーツを手に取り、生地を確かめるように指先でなぞる。色は深いグレー。派手さはなく、だが芯のある印象だった。


「似合いそうですね」姫川がぽつりと呟く。


 佐伯は一瞬だけ視線を向けるが、すぐにスーツに戻す。「そうか?」


「はい。佐伯さんらしい」


 多くを語らずとも伝わるものがあると、姫川はもう知っていた。

 一方、姫川は向かいの靴屋で、自分の靴を選んでいた。新しく歩き出すための靴。フリーとして動き始めてから、足元に意識が向くようになった。無意識に選んだのは、派手すぎず、しかし軽やかに動けそうな革靴だった。


 買い物を終え、二人は紙袋を手に店を出る。通りには人が多く、車の音や話し声が混ざり合う。


「喫煙所、あそこですね」


 姫川が指差す先に、小さな区画が見える。それに対して佐伯は軽く頷いた。


「一服していくか」


「はい」


 喫煙所は建物の脇にあり、通りから少しだけ外れている。完全に人目がないわけではないが、足を止める人は少ない。

 二人は自然に並び、壁際に立った。佐伯は煙草を取り出し、口に咥える。姫川も同じように一本咥えるが、ポケットを探ってもライターが見当たらない。


「あ……」姫川は小さく声を漏らし、困ったように佐伯を見る。「……火、ないですね」


 佐伯は煙草を咥えたまま、ちらりと姫川を見る。一瞬だけ考えるような間があったが、何も言わず、そのまま動かない。

 姫川は一拍置き、自然な動作で佐伯に一歩近付いた。

 無意識だったのか、考えた末の判断だったのか、自分でも判らない。唯、そうするのが一番自然に思えた。佐伯の咥えた煙草の先に、自分の煙草を近付ける。

 距離は、ほんの数センチ。二人の呼吸が、逃げ場のない距離で重なる。火が触れ、静かに赤く灯る。音もなく、煙草の先端がゆっくりと明るさを増す。


 その瞬間、時間が止まったように感じられた。キスではない。触れているのは煙草だけだ。互いの存在は確かにそこにあった。

 火が点いたのを確認すると、姫川はすっと身を引く。佐伯も何事もなかったように、煙を一度吐いた。どちらも、何も言わない。沈黙が流れるが、気まずさはない。煙がゆっくりと空に溶けていくだけだ。


「……風、弱いですね」

 姫川がぽつりと呟く。


「あぁ…」佐伯は短く答える。


 それだけで十分だった。二人は並んで煙草を吸い続ける。距離はさっきと同じ。近過ぎず、離れ過ぎず。

 佐伯は横目で姫川を見る。姫川は前を向いたまま、静かに煙を吐いている。その横顔は、以前よりも落ち着いて見えた。

 迷いはまだあるだろうに、それを抱えたまま立っている強さがあった。


「その靴、いいな」佐伯がふいに言う。


 姫川は少し驚いたように目を瞬かせ、それから微笑む。

「ありがとうございます。これから、沢山歩くつもりなので」


「そうか」佐伯は短く答え、再び前を向く。


 煙草が短くなり、火を消す。姫川もそれに続いた。喫煙所を出ると、街のざわめきが戻ってくる。人の流れに混じりながら、二人は歩き出す。

 紙袋がかすかに揺れる。新しいスーツ、新しい靴。どちらも、これからの日常の為のものだ。先程の出来事について、誰も触れない。

 だが、触れなくても分かっている。境界線は、壊れてはいない。唯、ほんの少し、呼吸が重なっただけだ。


 夕方の光が街を柔らかく染める。二人の影は並び、ゆっくりと前に伸びていく。煙草の残り香が、まだ微かに空気に残っていた。

 その火は、確かに静かに灯っていた。



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