エピローグ:偶然の続き
春の柔らかな光が街を包むある午後、姫川はデスクの前でスマートフォンを手に握りしめていた。フリーになって初めて、自分が担当する案件で、佐伯に書で依頼を出す時が来たのだ。
胸の奥が少し緊張し、手のひらに微かな汗を感じる。
「よし、電話しよう……」
小さく息を吐き、画面の向こうにある名前をタップする。呼び出し音が軽く響き、数回のコールの後、落ち着いた声が聞こえた。
『もしもし』
その声に、姫川は少しだけ肩の力を抜いた。「佐伯さん、こんにちは。」
『どうした?』
「実は……お願いしたい事があって」
少し言葉を選びながら、姫川は説明を始める。書道展以来、互いの距離感は自然に縮まっていたが、正式な依頼となるとやはり緊張する。
「新しい本の表紙用に、一点書いていただけませんか?題材は、俺が考えたコンセプトで」
佐伯は沈黙の後、問いかける。『なるほど…。どんな感じのイメージだ?』
姫川は言葉を続ける。デザインの意図や雰囲気を丁寧に伝え、佐伯は時折短く頷きながら聞いてくれる。その声には安心感があり、姫川は少しずつ緊張を解いていった。
『完成したら、また連絡する』
「ありがとうございます……!」
電話を切ると、姫川は軽く息を吐き、机に手を置く。電話越しの短いやり取りだったが、互いの信頼が自然に伝わった事を実感する。
それから二ヶ月余りが過ぎ、佐伯が書き上げた文字は無事にデザインに組み込まれ、書店に並ぶ事になった。姫川は偶然、仕事の帰りにその書店の新刊コーナーに立ち寄る。棚に並んだ本の中で、目に飛び込んできたのは、自分が依頼した書が表紙に使われた一冊だった。
「これ、佐伯さんの書…」
思わず声に出す。文字の線は生き生きとしていて、紙の上で息づくような感覚がある。
偶然にも二人は同じ棚の前で立ち止まり、互いに顔を見合わせた。
「!」
佐伯もその本を手に取る。横に姫川が居るからか少し照れを感じられた。「こうやって形になると、また違った迫力があるな」
姫川も照れくさそうに微笑み返す。「本当に、素敵です。依頼して良かった」
二人の間に、静かな沈黙が流れる。言葉は少なくとも、互いの目が伝える感覚は、電話で交わした信頼と同じ温かさだった。
佐伯は本を棚に戻し、肩越しに姫川を見る。「偶然の呼吸ってやつだな」
「え?」
「書道展での再会も、こうして本になったのも……全部、偶然に見えるけど、確かに意味がある。線も、人も、ちゃんと呼吸してるんだなって思う」
姫川は微かに笑い、目を細める。「そうですね…不思議ですけど、なんだか安心します」
店の外に出ると、夕陽が街を柔らかく染める。二人は肩を並べ、ゆっくりと歩きながら、今日の小さな奇跡を心の中で反芻する。
「次は、どんな書をお願いしようかな」
姫川の声に、佐伯は軽く笑いながら答える。「次も楽しみだな」
偶然と呼吸が重なった日々は、静かに、しかし確実に二人を近付けていた。展示会での再会も、電話での依頼も、本の表紙での偶然の出会いも、すべてが自然に繋がる時間の連なりだった。
そして二人は、互いの存在を確認し合いながら、街の柔らかな光の中に歩みを進める。偶然が紡いだ一瞬一瞬が、これからの日常にそっと色を添えていく——そんな確かな予感を胸に。




