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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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後日談:午後のカフェ

 街の喧騒を少し離れ、二人は小さな路地の先にあるカフェに入った。扉を押すと、心地よい珈琲の香りが漂い、柔らかい光が窓際の席を照らしていた。展示会以来の再会から数日。偶然の鉢合わせが生んだ余韻を、今こうして静かに味わっている。


「ここ、良さそうですね」


 姫川は窓際の席に座り、バッグを膝に置きながら周囲を見渡す。木の温かみが感じられる落ち着いた空間で、時折カップが触れる音や、コーヒーミルの微かな唸りが聞こえてくる。


「あぁ、静かでいい」


 佐伯は隣に座り、深く息をついた。肩の力が抜け、心地よい安堵感が胸に広がる。書道展の余韻と、姫川と一緒に居る自然な時間が、佐伯にとって穏やかな休息になっていた。

 二人はメニューを手に取り、互いに軽く目を向ける。特に注文に迷うでもなく、珈琲と軽いケーキを頼むと、自然な沈黙が流れた。誰かと一緒に居る時の沈黙は、最早気まずさではなく、心地よさの一部になっていた。


「展示会の作品、もう何度も見返しましたか?」と、何気なく尋ねる。


 佐伯は紙ナプキンに指先を軽く置き、考えるように視線を落とす。「いや、あの場で見るだけで十分だ。自分の納得している書は、展示の瞬間に完成していたからな。それ以上は求めなくていい」


 姫川は静かに頷いた。姫川もまた、デザイナーとして作品の質を判断しつつ、作家としての佐伯の感覚に共鳴している。


「なるほど……でも、やっぱり一位とか取ったんじゃないですか?」


 軽い冗談のつもりで、少し期待を含ませて聞く。


 佐伯は小さく息をつき、目を細める。「まだ知らない。審査結果は後日だからな」


 姫川の口元にちらりと笑みが浮かぶ。「そうですか。でも、どれも素晴らしい作品でしたから」


 佐伯は軽く目を合わせ、そして視線を窓の外へ移す。柔らかな光に照らされた街路樹が、ゆっくりと風に揺れていた。


「評価なんて正直、あまり気にしてねぇ。自分が納得してるかどうか、それが一番大事だからな」


 姫川は静かに手を組み、カップの縁に指先を添える。「それって……佐伯さんらしいですね」


 軽く笑みを返す非の目には、柔らかさが滲んでいた。あの日の書道展で見せた線の呼吸と同じように、今の姫川の表情も自然で、穏やかだった。


 少し間を置いて、姫川は口を開く。「でも……展示会に行って、佐伯さんの作品を見るたびに、やっぱり刺激になりますね。自分もフリーになって、デザインをするって決めたけど、こうやって実際に作品を見て、自分の考えを整理できる瞬間があります」


 佐伯は僅かに眉を寄せ、横顔で姫川を見た。「フリーになったんだな、やっと」


「はい……色々悩みましたけど、今はデザインの仕事を自由にできる方が、自分には合ってる気がします」


 沈黙が一瞬流れ、カフェの空気は静かに二人を包む。外の通りの音も、店内の軽やかなBGMも、すべてが遠くに感じられる程、心は静かだった。


「そうか」佐伯はゆっくりと頷き、再び目をカップに落とす。「自由になるってのは、悪くないな」


「えぇ、でも……時々、佐伯さんの書を思い出して、ちょっと焦るんです」姫川は笑いを含ませ、少し照れくさそうに目を伏せる。「こんな風に、誰かの作品を目の前にすると、自分も負けられないなって思います」


 佐伯は小さく笑った。「負けるとか、そういう話じゃない。比べるもんでもないしな。自分の線を信じて書くのと同じで、姫川も自分のデザインを信じればいいだけだ」


 姫川はその言葉に少し安心したように息を吐き、カップを手に取る。静かな時間の中で、互いの存在が自然に心を満たしている事に気付く。


「そういえば、書道展の結果はどうなるんでしょうね」姫川が小さく呟く。


 佐伯は肩をすくめ、微かに笑む。「結果なんて後からだ。大事なのは、今ここに居る事と、今日のこの時間だろ」


 意外な返しに姫川は一瞬目を丸くするも、静かに微笑み、佐伯の横顔を見つめる。その視線に気付いた佐伯は、軽く目を細め、何気ない仕草でカップを持ち上げる。

 カフェの時間は、ゆっくりと流れていった。外の光が少しずつ傾き、店内は午後の柔らかな陰影に染まる。互いに言葉を交わすだけで、十分に満たされる静かな午後だった。


 そして、カフェで共にした日から後日、姫川のスマートフォンに一通のメッセージが届く。


「報告だけ。今回の書道展、一位だった」


 姫川は思わず小さく笑う。軽く息を吐き、指先で画面を押さえたまま、佐伯の事を思い浮かべる。「やっぱり、佐伯さんの書は……すごいんだな」


 その瞬間、展示会の静かな空間、墨の匂い、そして偶然の再会の余韻が、ふわりと胸に広がる。日常の延長線上にある、ほんの小さな奇跡のような出来事。けれど、それが二人の関係に確かに色を添えていた。


 佐伯ふと思い出す。カフェの窓際で、姫川と交わした穏やかな会話、そして笑い。心の奥で、まだ少し慣れない感覚もあるが、日常の中で自然に隣に居る事の心地良さを、確かに感じていた。


 偶然の呼吸が紡いだ一日。一年前の展示会から始まった物語は、静かに、しかし確かに続いていく。結果や評価も大切だが、それ以上に、二人の間に流れる自然な時間と距離感が、何よりの財産だった。  

 偶然の再会とその余韻を胸に、ゆっくりと日常へと戻っていった。




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