最初の場所
本編、最終話。
午後の光が大きなガラス窓から差し込み、展示室の中は柔らかく、しかし確かな緊張感を帯びていた。壁一面に掛けられた書の作品は、大小さまざま、筆の勢いも多様で、観覧者の目を静かに惹きつける。
静寂の中、紙の端が僅かに揺れる音や、足音が柔らかく響く。佐伯は会場の中央付近を歩いていた。長居するつもりはなかったが、会場に入った瞬間、自分の胸に新しい空気が流れるのを感じる。
煙草が吸えない場所だという事もあり、深呼吸をして気持ちを落ち着けながら、壁一面に掛けられた作品を順に眺めていく。
評価は自然と厳しくなる。紙の質、墨の濃淡、筆の運び、余白の取り方……いずれも、作家として自分ならどうするかと無意識に採点する癖が身についていた。
それは鑑賞者としての目ではなく、作者としての目だった。そして、ある作品の前で佐伯は足を止める。それは、自分が今回の書道展で出品した作品の一つだった。これまでの中で最も納得のいく書。半紙の上で、筆の線がまるで生きているかのように躍動し、墨の匂いと紙の質感が互いに呼応していた。
息を詰めるように見つめながら、心の奥底で静かな達成感が広がる。
その時、背後から柔らかい声が聞こえた。
「線が呼吸していますね」
佐伯は微かに肩を動かし、振り返る。そこに立っていたのは姫川だった。初めて出会った書道展の会場と同じ声、同じ感想。
しかし、今は違うようにも聞こえる。初対面の時とは違い、自然で穏やかだ。
「──…姫川」
驚きよりも、心の奥に小さな期待が生まれる。姫川は軽く笑い、手に持ったバッグを肩に掛け直した。
「久しぶりです。会えるかも、とは思っていましたけど、偶然ですね」
佐伯は微かに眉を上げ、視線を作品から姫川に戻す。偶然の鉢合わせなのに、どこか運命めいた感覚がある。
「……俺もだ。来るって報せてないだろ?」
「はい。案内も何も……全く知りませんでした」
姫川の声には柔らかさがあり、しかし目は真剣だった。フリーのデザイナーとして活動を始めたばかりの姫川は、目の前の作品をただ鑑賞するだけでなく、デザインの視点も働かせている。
佐伯は僅かに頷き、再び半紙の前に目を戻す。背後に姫川の存在を意識しながらも、線に集中する。
姫川はゆっくりと佐伯の横に近付き、同じ作品を見つめる。視線が偶然交差する瞬間、二人の間に静かな空気が流れる。
以前なら、こんな至近距離に人が近付くだけで心臓が跳ねたものだ。
しかし今は、肩の力が抜け、緊張も焦りもなく、唯微かな違和感だけが残る。
「今回の書道展、すごく良いですね」
姫川の声は自然で、目は真剣だった。佐伯は軽く笑みを浮かべる。表情は普段通りだが、口元が僅かに緩む程度。これが、佐伯らしい落ち着いた反応だった。
「今回は、今までで一番納得してる作品だ」
姫川は静かに頷く。視線は紙に落ち、線の一つひとつを追う。初めて会った時の書道展の光景が微かに蘇る。あの時も、姫川は同じように真剣な目で作品を見つめ、初対面にも関わらず、何かを理解してくれているように感じられた。
「……佐伯さん、書く時って、呼吸とか考えますか?」
「呼吸……か」佐伯は視線を半紙から姫川に戻し、少し考え込む。「まぁ、自然に……というか。筆を動かす時は無意識だな。自分の体が勝手に動く」
姫川は微かに笑い、目を細める。「なるほど……やっぱり、線が生きているっていうのは、そういう事なんですね」
二人の間に、静かな時間が流れる。会場には他の観覧者の声も、足音も、遠くの光もある。
しかし、それらは二人を中心に柔らかく回っているように感じられた。
「佐伯さん、展示に来るの久しぶりですか?」
姫川は目の前の作品を見ながら訊ねる。
「いや、展示自体はよく来るが、自分の作品が出るわけじゃないからな。見るだけだ」
佐伯は視線を再び半紙に戻す。姫川もその横に静かに立ち、作品を見ながら佐伯の反応に意識を向ける。
展示室の静けさの中、微かな歩く足音と紙の香りだけが漂う。
「……偶然ですね、今日ここで会うなんて」
姫川の声は小さいが、柔らかさを含んでいた。佐伯は半紙の線に目を落とし、少しだけ頷く。確かに偶然だ。
しかし、その偶然が、以前とは違う意味を持っている事を、二人とも微かに感じていた。佐伯は改めて姫川の顔を見やる。初めて会った時の緊張も、焦る心ももうない。唯、微妙に慣れない感覚だけが残る。
「……そうだな」
「…でも、あの時より、少し自然に会えている気がします」
佐伯は軽く笑む。表情は普段通りだが、口元が僅かに緩む。張り詰めた心も、境界線ももう持ち歩く必要はない。
しかし、まだ互いに距離を測る微妙な感覚は残る。傍に居たい気持ちはある。焦る必要もない。日常の中で、少しずつ自然な距離感を確かめながら歩いていけばいい——そんな気持ちが静かに胸に広がる。
「折角ですし、他の作品も一緒に見ますか」姫川が提案する。
佐伯は軽く頷き、二人で会場をゆっくりと巡る。壁に掛けられた大小の作品、緩やかに伸びる線、墨の濃淡、余白。どれも佐伯の目には自分の成長と努力が映る。姫川もデザイナーとしての目で作品を評価しつつ、静かに佐伯の横顔を意識する。
「やっぱり、佐伯さんの書は見飽きませんね」姫川がぽつりと呟く。
そう云った姫川を、佐伯は一瞬驚きの表情で見やる。
だが、その目には微かに柔らかさが増していた。二人は言葉少なに、互いの存在を意識しながら展示室の中を歩く。
偶然の再会は、過去の緊張を思い出させるでもなく、唯静かに、確かに心を満たす。
「そろそろ外に出るか」
佐伯が提案するなり、姫川は静かに頷く。展示室の空気は心地よいが、長居には十分ではなかった。
出口に向かう二人の後ろ姿。展示室の静寂、紙の匂い、墨の余韻。すべてが、二人にとって特別な時間だった。
「久しぶりに佐伯さんの書が見れて良かったです」姫川が小さく笑う。
佐伯も僅かに笑みを返し、肩の力を抜く。線が呼吸するように、二人の関係もまた、自然に、確かに動き始めていた。
外に出ると、夕陽が街を柔らかく染める。風が紙の香りを運び、二人の心はそっと重なる。偶然の呼吸が、今日も二人を結んだ。




