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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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筆先の時間

 朝の光が、部屋の大きな窓から柔らかく差し込む。

 佐伯は机の前に座り、大きな半紙を広げていた。墨の匂いがほんのり鼻をくすぐる。筆を手に取り、静かに紙に向かう。

 半紙の上に文字が生まれるたび、佐伯の心は落ち着きと集中に満ちた時間に包まれた。幾度も筆を運び、線を引き、消えない跡を残す。どの文字も、思考の整理のように、そして感情の吐露のように紙の上に刻まれる。


 昼を過ぎ、部屋の静けさに時折街の喧騒が混ざる。

 その音を聞きながら、佐伯はふと手を止めた。手元の半紙に描かれた文字の意味と、そこに込めた気持ちを確かめるように、じっと眺める。


 心の片隅で、姫川の事がよぎる。

 あの夜から数週間、二人の関係は落ち着き、自然になった。距離は近く、笑いも言葉も交わる。唯、まだ完全に慣れたわけではない。肩の力は抜けたが、微妙な距離感がある。互いに傍に居たいという気持ちはある。それでも、焦る事なく、日常を少しずつ楽しむ――そんな時間が続いていた。


 先日、姫川から届いた一通のメッセージを思い出す。

「今日、少し外に出ようかと思うんですけど、どうですか?」


 軽い誘いに、佐伯は自然に返信した。

「じゃあ、昼にでも」


 そう返しただけで、心の中は少しだけ浮き立った。

 佐伯は再び筆を取り、線を引く。文字を紡ぎながら、姫川の今を思う。

 事務所を退所するか迷っていた姫川は、漸く自分の答えを見つけたようだ。フリーとして、新しい仕事を始める決意を固めた――文字にはしない、でも確かに感じ取れるその変化。


 筆を置き、机の上の半紙を見渡す。文字は整然としているが、心はまだ整理途中だ。


「…こんなもんか」


 佐伯は小さくつぶやき、墨の入った硯に筆を戻す。

 夕暮れが近付き、光は橙色に染まる。部屋の空気は静かで、まるで時間自体がゆっくりと呼吸しているかのようだ。

 窓の外を眺めると、街路樹の影が長く伸び、風に揺れる葉がやさしく光を反射する。

 その光景を見ながら、佐伯は思う。

 姫川も今、この街のどこかで同じように空を見上げ、考えているのかもしれない。距離は近いが、微妙に離れている――互いの自由を尊重しながら、心の距離を確かめ合う。


 筆を再び握り、文字を紡ぐ。墨の感触と筆先の微妙な重さが、静かな時間の中で佐伯を支える。

 線を引く事は、ただの作業ではない。思考を整理し、感情を受け止め、そして未来を少しだけ見通すための行為だ。


 夜が訪れる前、佐伯は机の上を片付け、筆や半紙を整える。


「今日はよく書けたな」


 独り言のように呟き、深く息をつく。心は穏やかで、軽い。肩の荷は減った。唯、まだ微かに残る違和感――それは、境界線が消えたわけではない事を思い知らせるものだった。

 窓の外で最後の光が消え、街に夜の静けさが訪れる。佐伯は深呼吸し、机に向かって座ったまま、静かに心を落ち着ける。

 遠くで、姫川が新しい一歩を踏み出した事を感じながら、佐伯は筆先の余韻とともに、今日の静かな時間を噛み締めた。





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