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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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迷いの朝

 夜が更け、二人で過ごした時間はゆっくりと過ぎていった。

 窓の外はすでに淡い朝の光に染まり、部屋の中には昨日の酒と夕陽の余韻が、ほのかに残っていた。佐伯は台所で簡単な朝食を用意する。焼いたパン、目玉焼き、少しだけベーコンを添える。フライパンを軽く揺すりながら、手際よく皿に盛り付ける。

 姫川はリビングの椅子に腰かけ、静かに窓の外を眺めていた。


「朝の光、気持ちいいですね」


 姫川の声は小さく、だが柔らかさがあった。


「そうだな。静かで、落ち着く」佐伯はフライパンを片付けながら、軽く頷く。


 表情はいつも通りで、特別な色は付いていない。唯、時折微かに口元が緩むだけだった。

 朝食をテーブルに並べ、二人で簡単に箸を取り、静かに食べる。昨日までの張り詰めた心も、境界線ももうない。互いに傍にいるという事実が、淡く温かく感じられた。

 食事を終え、片付けを済ませた頃、姫川はふいに口を開いた。


「佐伯さん……俺、事務所退所しようか悩んでるんです」


 その言葉は、朝の光の中で柔らかくも、確かな重みを持って響いた。

 佐伯は箸を置き、姫川の顔をちらりと見る。

 だが表情は普段と変わらない。柔らかくもせず、眉をひそめる事もなく、唯、静かに姫川の声を受け止めるだけだった。


「……そうか」


 声は落ち着いていた。何も急かさず、否定も肯定もしない。

 姫川は少し間を置き、視線をテーブルに落とす。


「……まだ決められなくて……。仕事は楽しいんですけど、自分の方向性が……どうしたらいいのか、解らなくなって」


 佐伯はそれ以上、言葉を挟まない。唯、いつもの静かな空気のまま、姫川が自分の思考を整理するのを待つ。

 それは、かつてなら不安や焦りから、何か言葉をかけてしまったかもしれない瞬間だった。

 だが今は違う。姫川が迷う事を、隣で自然に受け止めるだけでいい――そんな感覚が、佐伯自身にもあった。

 姫川はそっと顔を上げ、佐伯を見る。


「……佐伯さんは、どう思いますか?」


 視線には、答えを求める焦りや期待はなく、唯静かな確認の色があった。

 佐伯は軽く肩をすくめ、微かに口元を緩める。


「俺は、お前の答えを待つ」


 姫川は少し微笑む。普段の冗談や笑いではなく、静かで、安心を含んだ微笑みだった。


「そうですか……」


 二人の間には、何も言葉を交わさなくても、確かな信頼があった。焦りも緊張もなく、互いに傍にいる事が自然になっていた。

 朝の光は差し込み、昨日までのほろ酔いの余韻とともに、部屋の空気を柔らかく満たす。


 佐伯はゆっくりとコーヒーカップを手に取り、一口含む。姫川もまた、カップを持ちながら、視線を佐伯に向ける。

 二人は何も急がず、この朝の時間を、自然に共有していた。外の世界はまだ目覚め始めたばかり。

 だが二人の心の中には、昨日までなかった余白ができていた。迷いも不安も、今は肩の力を抜いて、静かに置かれている――唯、それだけで十分だった。





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