夜の台所
午後の光が窓から差し込み、佐伯の部屋は穏やかな空気に包まれていた。仕事場兼自宅の机には筆や書類が整然と並び、いつも通りの静かな日常。
しかし、今夜は少しだけ特別な夜になる予感があった。姫川は小さな紙袋を手に、自然な笑みを浮かべながら部屋に上がり込む。
「お邪魔します」
「来たか」
佐伯は無表情のまま言葉を返すが、目の端では姫川を確認している。紙袋の中には、野菜や肉等の食材が入っていた。
佐伯はさっと台所に向かい、手際よく鍋やフライパンを取り出す。姫川はそれを眺めながら、少し驚いた表情を浮かべた。
「佐伯さんって料理出来たんですね。何だか皆無なイメージがありました」姫川の声には笑みが混じっている。
佐伯は小さく息を吐く。
野菜を切りながら「そうかよ。まぁ、食える味だと思うが、文句は云うなよ」と、返す言葉は淡々としているが、その口調にはどこか柔らかさが滲んでいた。
姫川は台所には入らず、椅子に腰かけて佐伯の手元を見つめる。以前なら、あれこれ手伝おうとしたり、手を出したりしたかもしれない。
だが、今は違う。自然に、唯見守るだけで十分だった。佐伯の手つきは静かで、確かに慣れている。鍋を火にかけ、野菜を炒め、味を確かめる。
小さな音、香り、湯気。すべてが日常の一部であり、同時に特別な時間でもあった。
「…結構手際いいんですね」
姫川は微かに笑みを浮かべ、静かに言葉を落とす。佐伯は答えず、手元に集中する。
その無表情の中にある真剣さが、姫川には心地よく感じられた。
料理がひと段落し、テーブルに皿を並べる。熱々の料理の香りが部屋を満たす。姫川はグラスに水を注ぎ、軽く手を合わせる。
「いただきます」
佐伯も同じように手を合わせ、静かに食べ始める。食事中も、会話は自然で軽やかだった。
言葉の節々には、以前のような焦りや緊張はない。唯、互いに存在を感じながら、穏やかに時間が流れる。グラスの水を口に含む仕草や、箸の運び方、ちょっとした笑い声。小さな日常の動きが、二人の間にゆっくりとしたリズムを作っていく。
「佐伯さん、とても美味しいです」
姫川が口に運びながら、自然な笑みを見せる。佐伯は微かに目を細め、いつもの仏頂面を少しだけ緩める。
食事を終え、皿を片付けた後も、姫川は帰ろうとはしない。以前なら、遅くまで居ると理由を探したり、何か言い訳をして帰らせようとしたかもしれない。けれども、今は違う。
何も言わず、自然に隣に居る事を受け入れている。佐伯もそれを当たり前のように受け止め、互いの距離感を乱さない。
夜が更け、部屋の明かりだけが静かに灯る。窓の外は月明かりに照らされ、街は穏やかに眠り始めていた。
二人はソファに座り、残ったグラスに酒を注ぐ。
静かな時間。互いに語る必要はない。存在を感じるだけで、満たされる。
姫川はふと、佐伯の左手首に視線を落とす。
「前々から気になってたんだけどよ、お前ちょいちょい左手首見てるよな。そんなに気になるか?」佐伯は僅かに肩をすくめ、手首をちらりと見せる。
刺青が彫られているが、別に隠すでもなく、唯自然にそこにあるだけだ。
「…そんな深い意味はないですよ」姫川は軽く笑い、手首から視線を戻す。
それも、以前なら気まずさや躊躇が伴ったかもしれない。今は唯、自然な観察の一部でしかない。
そのまま二人は夜を過ごす。テレビもラジオもつけず、唯互いの存在を感じながら、静かな時間が流れる。
今このひと時は、肩に感じていた重さ、境界線の重さは確実に消え、夜の柔らかい空気の中で、心は軽やかに満たされていた。
佐伯はグラスを置き、ゆっくりと息をつく。姫川も微かに笑みを浮かべ、視線を合わせる。
「…泊まります」
姫川の一言には、以前のような言い訳や理由探しはない。自然に、今ここに居たい気持ちだけが込められている。
佐伯は無表情で頷き、グラスを置く。「…そうか」
その短い言葉だけで、二人の夜は静かに続いていく。
夜の台所と居間、柔らかい光、香る料理、静かな空気。境界線は消えたわけではない。
ほのかに残る距離感を意識しながらも、肩の重さはなく、二人は自然に隣に居る。日常に溶け込むこの時間が、今の二人にとって最も大切な時間だった。




