微かな距離感
昼下がりの光は柔らかく、窓の外では街路樹がそよ風に揺れていた。
佐伯は仕事の手を休め、スマートフォンに目を落とす。普段はあまり通知が来ない端末が、今日は小さな通知音を鳴らした。
画面に表示されたのは、姫川からの短いメッセージだった。
『今暇ですか?』
佐伯は画面をじっと見つめ、短く息を吐く。返事はすぐに送った。
「少しだけ」
返信はすぐに返ってきた。
『じゃあ、ちょっと話しませんか』
そのやり取りは、緊張も焦りもない、知らず口元が緩んだ。お互いに、あの夜以来の距離感を確かめるように、短く軽いメッセージを交わす。
文字だけで会話しているのに、どこか相手の息づかいが伝わるような気がする。
佐伯は煙草に火を点け、椅子に腰かけたまま足を組む。左手のスマートフォンを親指でなぞり、姫川からの文字を読み返す。
──こういうのも悪くないな。と、心の中で小さく呟いた。
その日、午後の時間はほぼ静かに過ぎていった。佐伯は書類や筆に目を落とすが、時折スマホを確認しては、目元に薄っすらと笑みを感じる。姫川の言葉は短く、しかしどこか温かみがあった。
『この間、良い店見付けたので、今度どうですか?』
「お互い都合が合えば」
『楽しみです』
相思相愛を認めた後の、この自然なやり取り、些細な日常が、不思議に心を軽くする。以前のような緊張や焦りはもうない。肩の荷が下り、境界線という重さも、少しずつ薄れていく。
けれども、完全に消えたわけではない。ほのかに意識してしまう距離感は、まだ心のどこかに残っている。
夜になり、二人は約束もせず、居酒屋で再会した。店の明かりは穏やかで、カウンターには数組の客がいるだけだった。
佐伯は至って普段通りの表情で席につく。姫川は少し照れたように笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。
「来ると思わなかった」佐伯はそう言いながらも、表情にはあまり変化がない。
唯、目元や口元に僅かばかり緩みが見える程度だ。それだけで、姫川は十分に佐伯の気持ちを感じ取る事ができた。
注文を済ませ、二人は静かに食事を始める。会話は軽く、笑いも交えながら続くが、どこか自然で柔らかい。
佐伯は表情をあまり変えず、姫川は楽しそうに話す。その対比が、今の二人の関係を如実に表していた。
「…佐伯さん、覚えてますか?」
姫川の声は少し低く、しかし柔らかい。
「何を?」佐伯は無表情のまま答える。
「この間の…夜の事です」
一瞬、過去を思い返し返事をする。佐伯は小さく息をつき、目の端で姫川を見る。「…あぁ」
無表情だが、声には穏やかな響きが含まれていた。
「その…あの時、思わず言葉が出てしまって…」
姫川の声は少し赤みを帯び、微かに震えている。佐伯の表情は変わらない。唯、口元や目元の筋肉が微かに緩む。
姫川にしてみたら、それだけで微かに笑むに値した。
「──佐伯さん」
「な、なんだよ」
姫川にまじまじと顔を見つめられているのに耐えられなかったのか、言葉を詰まらせる。
「いや、そういう顔もするんだなと」
軽い冗談を交えた姫川の声に、佐伯は小さく息を吐く。
「年上をからかうな」左手で口元を隠しながらそう云うが、頬の紅さは隠しきれていなかった。
その一言だけで、場の空気は自然と和む。居酒屋の灯りが二人の顔を柔らかく照らす。
料理や酒の匂いが漂う中、会話は途切れ途切れになりながらも、確かに続いていく。
佐伯は基本的に無表情だが、姫川の言葉や仕草で時折緩む。姫川もまた、自然に振る舞うが、内心ではまだこの関係に慣れていない自分を感じている。
酒が進むにつれ、二人の距離感は少しずつ縮まる。
手を伸ばす事も、抱き寄せる事もない。それでも、互いの存在は確かに感じられる。境界線という重荷は無くなったが、どこかで意識する距離感はまだ残る。
その微妙な感覚が、日常を少しだけ特別なものにしていた。
「…今日はなんだか、変な感じですね」姫川がグラスを傾けながら言う。
「変な感じ?」佐伯は僅かに眉を上げる。
「はい。緊張も焦りもないのに、少しドキドキするというか…」
姫川の笑みは自然で、しかし少し照れている。
「そうか…まあ、こういうのも悪くない」
佐伯は短く答え、グラスに手を添える。
その姿勢は普段通りだが、視線だけが柔らかく姫川を追っていた。会話は途切れ、二人は静かに料理をつまむ。
外の夜風が店内の窓を控えめに揺らし、街灯の光が差し込む。その中で、二人は互いの存在を静かに感じるだけで十分だった。
肩の荷が軽くなった事で、緊張は消えはしたが、少しばかり残る距離感が、逆に心地よく感じられる。
佐伯はふと、グラスを置き目を細める。姫川もまた、微かに笑みを浮かべ、視線を合わせる。手を触れる事も、言葉で告げる事もまだない。
それでも、互いの心は静かに交わり始めていた。夜は更け、居酒屋の灯りが少しずつ落ち着きを取り戻す。
二人は席を立ち、外の夜風にあたりながら歩き出す。距離感は微妙に近く、しかしまだ完全には慣れていない。それでも、肩に感じる重さは確実に消え、軽やかに歩く事ができる。
佐伯は小さく息をつき、姫川の肩を意識しながらも、普段通りの無表情を保つ。姫川もまた、自然体で歩く。
二人の間にある程よい距離感は、今の関係性を示すものだ。焦りや緊張はない。互いに傍に居たいという気持ちはあるが、日常を楽しむ事を優先している。
その夜、街の灯りが二人の影を長く伸ばす中で、関係は静かに、しかし確実に深まっていく。互いの存在を確かめ合うだけで十分。
それだけで、今の二人には満たされた時間だった。




