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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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ほろ酔いの午後

 夕日が窓から差し込み、佐伯の仕事場兼自宅の机の上を暖かく染めていた。

 インターホンが鳴り、佐伯は筆を片付けかけて、手を止め、玄関に向かった。


「こんな時間に、誰だ?」


 ドアを開けると、姫川が立っていた。手には紙袋が二つ。端から酒瓶の首がちらりと見える。


「…酒です」

 姫川は少し照れたように微笑む。


「いや、飲む気か」


 紙袋が二つという事に、佐伯は眉を上げる。


「まあ、気分転換というか……なんというか」


 短い沈黙。佐伯は紙袋の中身を確認すると、ワインボトル数本と日本酒の小瓶が混ざっている事に気付いた。


「随分持ってきたな」


「ちょっと多めですかね」


 姫川の声は落ち着いていたが、微かに頬が赤い。


「いや、全く」佐伯は肩をすくめ、軽く笑った。


 台所で瓶を並べ、グラスを用意する。普段通りの手つきで準備しながら、心のどこかで姫川が自分の家に来た事を軽く緊張して見守る。

 姫川はグラスを手に取り、少し考えるように視線を上げた。


「……ここに来ると、落ち着くんです」


「そうか。俺もここは落ち着く」


 二人の声は小さく、柔らかい。空気が少しずつ和らぐ。最初の一口を飲む。ワインが舌の上で広がる。

 姫川はグラスをゆっくり回しながら、やわらかく笑う。


「……酔いそうですね」


「いや、最初の一杯はまだ序章だ」


 姫川は小さく吹き出す。空気は自然と柔らかくなり、互いに遠慮する必要もない距離ができる。言葉少なめだが、互いを意識する気配が漂う。

 佐伯が書類に目をやると、姫川は軽く口をつぐみ、視線だけで笑みを返した。


「佐伯さん、好きです──」


 若干酔いが回っているせいもあるのか、気付けばそう零れていた。


「ひめ、か…!」


 アルコールのせいか、姫川の発言のせいか、否、両方か。顔を真っ赤にさせ、佐伯が今まで見せた事のない表情をしていた。


「え、佐伯さんって、表情筋あったんですか」


 姫川は悪ぶるでもなく、自然に口にした。


「悪かったな、仏頂面で」


 佐伯は軽く頭を掻き、二人は小さく笑い合う。

 グラスが空になり、瓶から新たに注ぐ。静かに音が響く。姫川はグラスを軽く持ち上げ、佐伯に視線を合わせる。


「……こうして話してると、なんだか変な感じですね」


「変な感じ?」


「はい。今までの緊張が全部溶けちゃったみたいで」


 佐伯は小さく頷く。「……まあ、落ち着ける時間も必要だ」


 姫川は頷き、グラスを口元に運ぶ。酒が回り、視線が柔らかくなる。


「……あの時の事、覚えてますか」


「初めて会った日か?」


「はい……偶然じゃない、あの夜の事です」


 佐伯は言葉に詰まり、軽く笑うしかなかった。


「……あの夜、気付いたんです」

 姫川の声は小さいが、確かな意思がある。

「ずっと……傍に居たかったんだ、って」


 佐伯は深く息をつく。あの夜、自分は理性で線を引き、衝動を押さえたつもりだった。

 だが、結局、姫川を止めず、そこに置いたのは自分だった。


「……今となっては、俺も、そうだったのかもしれない」


 言葉に出さなくても、互いの気持ちは伝わる。視線だけで、存在だけで、確認できる。姫川はグラスを置き、机の端に軽く手を置く。佐伯に触れる事はない。それでも距離が縮まった事を感じる。


 二人は静かに互いを見つめる。笑い声も、冗談も、まだ少ない。張り詰めていた空気は、ほろ酔いの温度で柔らかくほぐれていく。

 佐伯は手元のグラスを見つめ、ゆっくり息をつく。


「……お前、改めて酒強いな」


 姫川は小さく微笑む。「まだ序盤です」


 二人の声が穏やかに交わり、時間がゆっくり流れる。言葉よりも、間の取り方、視線、そして微かな笑みが互いの存在を確かめている。

 酒の香りがほのかに漂い、空気は穏やかで、二人の心の中は確実に動いている。


 姫川はまたグラスを持ち上げる。「……これ、最後の一本にしますか」


「そうだな」


 佐伯は軽く頷き、二人で静かに乾杯する。グラスを置くと、互いにゆっくり息をつく。手は触れないが、距離感は明確に変わっていた。


「これで、少しは楽になりましたか」


 姫川の声は穏やかで、でもどこか嬉しそうだ。


「ああ、楽になった」


 佐伯は微かに笑みを浮かべ、視線を姫川に向ける。そのまま二人は、ほろ酔いのまま、互いの存在を静かに確かめ続けた。

 笑い声や冗談は少しずつ増え、張り詰めていた緊張は殆ど消えていた。


 けれども二人の心の中にある線は、まだ完全には消えず、僅少に揺らぎながら交差を始めていた。

 夕陽はゆっくりと沈み、部屋の光は柔らかくなる。酒と光の中で、二人の距離感は確かに変わった。それは決して劇的ではない。静かで、ささやかな、しかし確かな変化だった。


 佐伯は手元のグラスを置き、深く息をつく。姫川も微かに笑みを浮かべ、視線を合わせる。手を伸ばす事も、言葉で告げる事もまだない。それでも、互いの心は確かに交わったのだと、二人は感じていた。

 ほろ酔いの夕方の静けさの中、張り詰めていた空気は、漸く軽く、柔らかくなった。




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