墨と線の余韻
数十分前、姫川は仕事の相談の為に佐伯へ連絡を入れた。
インターホンが鳴ると、少し緊張しながらドアノブに手をかける。
開けると、室内には午後の光が柔らかく差し込み、墨の匂いと微かに漂う煙草の香りが混ざり合っていた。
自然に馴染む佐伯の姿に、姫川の足は一瞬だけ止まった。
「……相変わらず、いい匂いですね」
声をかけると、佐伯はぶっきらぼうに返す。
「褒めてるのか、それ」
紫煙がゆっくりと流れる中、姫川は無意識に一歩だけ距離を取る。
煙草が苦手なわけではない。唯、この部屋の匂いは、佐伯の生活そのものだった。
姫川は軽く笑い、仕事の顔に切り替えるように室内へ入る。
そっと机に歩み寄り、資料を置こうとした瞬間、視線がふと佐伯の左手首に落ちた。
シャツの袖口から覗く黒い線――刺青だ。
意味は解らない。唯、目に入った瞬間、心がざわついた。
強さ、孤独、そしてどこか守りたくなる柔らかさ。
言葉にはできない。けれど、姫川の感覚に確かに訴えかけてくる。
だが、すぐに視線を資料に戻す。
胸のざわめきを隠すように、そっと机に資料を置きながら、小さな声で告げた。
「この文字、使わせてもらえたらと思って」
差し出されたデザイン案には、佐伯の書が大胆に配置されていた。
余白の使い方、線の強弱。確かに、悪くない。
「……分かってるな」
思わず口から出たその言葉に、姫川は少しだけ得意げに笑う。
「書が主役になるように、邪魔しないようにしました」
佐伯は視線を逸らし、胸の奥が静かに熱を帯びるのを感じる。
沈黙が落ちるが、居心地は悪くない。
「この前の事」不意に姫川が口を開く。
佐伯の肩が僅かに強張る。
「あの夜、です」
続く言葉を待つ間、時間が妙に引き延ばされたように感じる。
「……嫌だったら、ちゃんと距離取ります」軽い口調だが、姫川の目は真剣だった。
佐伯は暫く黙り込み、それから小さく息を吐く。
「嫌なら、ここに呼ばない」
それだけ言うと、姫川は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく笑った。
「じゃあ、少しだけ、安心しました」
それ以上踏み込まない。追及もしない。
二人は再び資料に視線を落とし、仕事の話に戻る。
けれど、空気は確かに変わっていた。
言葉にしなくても伝わる何かが、そこにある。
佐伯は新しい半紙を取り、筆を構えた。
姫川が背後で黙って様子を見ている気配を感じながら、墨を含ませ、今度は迷わず紙に落とす。
線は、確かに呼吸していた。
姫川は、指先に力が入る佐伯の筆の動き、半紙に触れる瞬間の空気の揺れを注意深く観察する。
線が伸びるたびに空間のリズムが変わり、胸の奥が小さく反応する。
言葉にはならない、けれど確かな感覚――今この瞬間、二人の世界が僅かに交わるのを姫川は感じ取った。
まだ名前はない──。
だが、この関係が静かに形を持ち始めている事だけは、はっきりと分かる。
姫川は資料に目を落とす。
それでも、視界の片隅には佐伯の筆の動き、左手首の刺青、そして微かに漂う墨と煙草の匂いが、ゆっくりと胸に染み込んでいく。
「……仕事、進めますか」
小さな声に、自分でも驚く程自然に返事が出る。
佐伯は頷き、半紙に向かう手を止めず、静かに、しかし確かに、彼の世界へ姫川を迎え入れる。
墨と線、呼吸と呼吸。
言葉にしなくても、二人の間には、今この瞬間だけの小さな約束が生まれていた。




