線を越える衝動
佐伯は書類を閉じ、深く息をついた。夕暮れの光が、部屋の壁を柔らかく染める。 机の上に置かれたペン、散らばる紙の端、窓から差し込む光―― 全てが、今は静かで何も動かないけれど、心の奥は静かではなかった。
あの夜、姫川が何も用事はないのに家に来て、話したい事を話して、眠ってしまったあの夜の余韻が、日が経ってもまだ部屋に漂っている。
佐伯は椅子に深く腰を下ろし、机の上で両手を組み額を預け、思考を巡らせた。「衝動で踏み込むのは、一番、苦手だ」 あの言葉が、頭の中で反響する。
不良だった過去、友人達と喧嘩を繰り返したあの日々、勝つ事もあれば負ける事もあったあの衝動――されど、姫川に向けたその言葉は、衝動を避ける為の盾であり、同時に自分自身に対する言い訳でもあった。
思い返せば姫川はあの夜、理由もなく訪れた。その無防備さ、自然さ、そして確かな意思。 理由がないのに、そこに居る。
自分は何もしなかった。止めもしなかった。それを理性で抑えたつもりだった。でも、止めなかった事――それも衝動の一種なのだと、今、痛感する。
翌日、佐伯はいつものカフェに居た。 角の席に座ると、姫川もやって来た。 二人の間には、いつもの距離感があったが、あの夜の記憶がその距離を微かに縮めていた。
姫川は笑うでもなく、唯静かに座り、窓の外を眺める。
「──…佐伯さん」 声が柔らかく、そして少し震えていた。
佐伯は視線を上げ、姫川を見る。 昨日の言葉が、胸に引っかかる。 「衝動で踏み込むのは苦手だ」と言ったあの瞬間、 自分は姫川の意思を尊重したつもりだった。とはいえ 、それは本当に尊重だったのか? 唯、動けなかっただけではないか?
姫川は視線を佐伯に戻し、ゆっくりと口を開いた。
「俺……あの時から、ずっと佐伯さんの傍に居たいと思ってました」
佐伯の胸が跳ねた。 予想だにしていなかった言葉だった。
だが、目の前で言われると、心が跳ね、同時に息が詰まる。
「言葉にはしたのに……選ばなかったんですけど」姫川の声には、後悔も、覚悟も、そして少しの痛みも混ざっていた。「それでも……貴方の傍に居たかった」
佐伯は口をつぐむ。 それを聞きながら、あの時感じた、衝動と理性の綱引きを思い出す。 理性で線を引き、衝動を押さえつける。
然れども、結局、線を引かず、止めず、姫川をそこに置いていたのは、自分だった。
「……俺は」 声が出そうで出ない。
すると姫川は「あの、好きって言ったつもりだったんですけど、分かりづらかったですかね」苦笑交じりに云った。
「いや分かりづれぇよ」
姫川の目が見開かれ、そしてゆっくりと笑う。「…ですよね」
二人は頬を紅潮させていた。二人の間に漂うのは、緊張でもなく、焦りでもなく、唯静謐な確認の時間だった。
言葉は少ないが、全てが伝わっていた。 佐伯は目の前のカップを握り、窓の外の光を見つめる。 昨日までの自分は、理性で全てを守ったつもりだった。 なれど、本当は何も守れていなかった。
理性という名の衝動。止めなかった勇気。そして、姫川に許した自由。姫川はそっと手をテーブルに置く。
指先が触れる事はない。 けれど、確かに存在を感じる。二人の間には、線があり、距離がある。
それでも、その線は、もう動かせないものではない―― 心の中の線は、微細に揺れ、そして交差し始めていた。
佐伯は深く息をつき、カップを置く。心の中の揺らぎは、まだ完全には消えない。 でも、二人が互いを認めた瞬間、全ての線が、漸く交わる方向に向かい始めた事を感じていた。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈む。 光が二人の顔を柔らかく照らし、カフェの静寂は、まるで世界がこの瞬間を見守っているかのようだった。
佐伯は、心の奥底で初めて、自分の衝動が恐れではなく、確かな意思として働いたことを理解する。 姫川もまた、自分の覚悟が遅すぎた事に打ちのめされながらも、今ここに立つ自分を受け入れる。
そして二人は、互いに手を伸ばす事なく、達存在を確かめ合った。 それだけで十分だった。
線を越える衝動は、言葉と気持ちだけで成立する事もある。 よく見れば佐伯の口角が少しばかり上がっていた。対して姫川は微笑んでいた。 その瞬間、二人の世界は、少しだけだが確かに、変わった。




