ずれる線
佐伯は書の納品を終え、肩に掛けた鞄の重さを軽く直した。今日も仕事は順調に進み、すべて終えた。達成感はある。
胸の奥に微かに残る違和感が、歩く足取りに僅かながらに影を落としていた。数日前の、あの偶然の邂逅が、思い出される。街角で、姫川とすれ違った瞬間、お互いに何も言わず、唯視線が交わっただけの、その静かな時間――。
佐伯は小さく息を吐いた。「俺は……正しく振る舞った筈だ」
線を引き、距離を守り、相手を守ったつもりだった。自分は正しかった――そう思っていたのだが、あの時の姫川の自然な仕草や、柔らかい表情を思い出すと、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
「守った……つもりだったのは、俺だけかもしれない」
歩くたびに、街路樹の影が長く伸びる。人通りの少ない通りを歩きながら、佐伯は心の中で自分の正しさを問い直す。
守るべきだったのは相手だけではなく、自分自身の感情も含まれていたのではないか――そんな考えが、微かに頭をもたげる。
肩に掛けた鞄をぎゅっと握り直し、佐伯は立ち止まった。目の前の道の向こうには、普段通りの街の風景が広がるだけだ。
だが、心の中の“正しさ”の線は、薄っすらとずれている。
「……ま、いいのか」
小さくつぶやき、佐伯は再び歩き出す。
まだ何も変わったわけではない。唯、心の奥に芽生えた揺らぎ――。それは次に起こる何かの前触れである事を、佐伯自身はまだ知らない。




