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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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選ばなかった自分

 朝の光は、窓辺のカーテンを淡く透かして部屋に差し込んでいた。姫川はいつも通り、机の前に座り、パソコンの画面と向き合っている。新しい案件の依頼メールが届き、スケジュール帳を開き、必要な資料を並べる。仕事は順調だった。納品も滞りなく、評価も上々。傍から見れば、すべてが整っている。安定している。成功している。


 それなのに、胸の奥のどこかが満たされない。

 姫川は眉間に皺を寄せ、視線を資料の上に落とす。文字は読めている筈なのに、頭の中で言葉が跳ねていく。目の前の成功、順調さ、確かな手応え。それらを前に、何も感じないわけではない。手に入れたものが多い程、心の中の穴が大きく見えてしまう――そんな感覚だった。


 机の横に置かれたスケッチブックに視線を移す。以前は表紙デザインのアイデアを書き殴ったページが、今は整然と並んでいる。どれも完成度は高いが、ページをめくる手が止まる。

 ふと、数日前の街角での偶然の出会いが頭をよぎる。佐伯の無造作に鞄を肩に掛ける仕草、軽く息を吐く時の背筋のライン、視線のほんの僅かな揺れ。

 あの瞬間、何も起こらなかった。だけど──それが、妙に記憶に残る。と、姫川は思う。

 俺は──慎重だっただけだ、選ばなかっただけだ、と。


 確かに、リスクを避け、関係を乱さないようにと線を引いてきた。でも、それは本当に「慎重」だったのか?本当に守ったのは、相手だったのか?

 机の上に置かれたコーヒーカップを手に取る。熱い筈の液体は、指先に僅少な温もりを残すだけで、胸まで届く事はない。


 姫川は視線を窓の外に向け、街路樹の影が揺れる様子を眺める。

 あの時、佐伯の前で何もできなかった自分――選ばなかった自分――が、今も胸に重くのしかかる。

 選ばなかった自分は安全だった。安心できたのに、その安全は、満たされる喜びとは別物だった。


 姫川は思わず手で顔を覆い、肩をすくめる。机に置かれたスケッチブックを見下ろすと、そこに並ぶ完成済みのデザインたちが、逆に自分の心を映し出しているように見えた。


 ──俺は、何を守ってきたんだろう。声に出す事はない。唯、閑寂に独白が部屋に落ちるだけだった。


 スケッチブックの白いページと、完成したデザインの整然さ。外の光と街の音。それらすべてが、揺らぐ自己認識を押し隠す事なく、淡々と存在していた。

 姫川は再びペンを握るも、描く手は以前のように迷いなく動く事はなかった。思考と手の動きが噛み合わず、線が震える。描きながら、心の奥では小さな違和感が膨らんでいく。


 ――俺は、選ばなかっただけだ。守る事で自分を守っていたんだ。


 その認識が、静謐に胸に広がる。重くはない。

 だが確かに、いつもとは違う振動を心に残す。仕事は順調だ。成功も安定も、目に見える形で手にしている。心の奥で揺れるこの感覚――選ばなかった自分への問いは消えない。


 姫川はページをめくる。まだ描きたい案はあるのに手が止まる。画面の端に小さく映る街の光景をぼんやりと眺める。あの偶然の出会いの後、何も起こらなかった筈なのに、心の奥では何かが動き始めている。

 誰にも見せない独白。誰にも話さない問い。それでも、姫川の中で確実に、自己認識の揺らぎは生まれていた。





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