自然な距離
午後の日差しはまだ優しく、街路樹の影を長く伸ばしていた。佐伯は鞄を肩に掛け直し、街角の書店前を歩いていた。店の看板に使う書を納品した帰りで、心の中には達成感と僅少な疲労感が混じっていた。
筆先の感触や墨の香りがまだ手の平に残っていて、歩くたびに少しだけ指先に微細な震えを覚える。
一方、姫川は片手にスケッチブックを抱え、もう一方の手でペンを握る姿は、柔らかい輪郭と少し無骨な手つきが同居していた。恋愛小説の表紙のデザイン案を少しでも前に進めたくて、家から離れ、街を歩きながらアイデアを練る事にしていた。
人通りの少ない通りを選び、路地を曲がるたびに思いつくままにラフを描き、またページをめくる――そんな静かな作業の繰り返しだった。
佐伯はふと、道沿いのカフェの前で立ち止まった。小さなカウンター席に座る客が楽しげに笑い、窓際に置かれた鉢植えが午後の光に揺れていた。
その光景に暫し目をやり、心の中で軽くため息をつく。納品の余韻と、これからの予定を思い巡らす。 そのとき、視界の端に人影が入った。目を細めて見ると、少し背を丸めてスケッチブックに向かう男の姿。瞬間、佐伯の胸に小さな違和感が走った――見覚えのある仕草、描き方。
姫川もまた、ふと視線を上げた所で彼に気付いた。思わず眉をひそめ、口元に微かな笑みを浮かべる。どこか不意打ちのような心の動きがあったが、姫川はすぐにスケッチブックを軽く抱え直し、歩き続ける――つもりだった。
足は少しだけ止まり、心臓の奥で小さな跳ね返りを感じていた。
「……あ」 佐伯は思わず声を漏らした。
低く、驚き半分の声で、しかしながら自然に出たものだった。姫川も立ち止まり、やや戸惑った様子で振り返る。互いに一瞬、視線が絡む。
「……佐伯さん」
「姫川……」
声のトーンにぎこちなさはあるが、どこか柔らかい響きがあった。互いに微妙に距離を取ったまま、暫く沈黙が続く。街のざわめきが背景に溶け込み、二人だけの時間が少しだけ膨らんだような錯覚に襲われる。
佐伯は無意識に鞄を肩に掛け直す。姫川はスケッチブックの角を指で触れ、落ち着こうとする。けれど、二人の目がたびたび交差するたびに、心の奥がくすぐられるように反応するのを止められなかった。
「…仕事か?」佐伯は頭の中で言葉を整理しようとしたが、思考はすぐに途切れた。
目の前に居る姫川の姿に、どう声をかけていいのか、どう振る舞うのが自然なのか――それだけが頭を占めた。
姫川は軽く笑みを作り、「ちょっと外に出てみただけなんです」と言った。
あくまで自然に振る舞おうとするが、その声の奥には少しばかり高揚が滲んでいた。
「そうか、偶然だな」と、佐伯は答えた。
声のトーンは平静を装っているが、頬の端に熱がこもる。偶然、とはいえない。いや、偶然でありながら、どこか必然的な、そんな気配を感じていた。
姫川はその言葉に小さく頷き、ふと目を逸らす。目の前の佐伯の姿が、唯そこにあるだけで、いつもよりずっと存在感を持って見えた。
「あの、書の納品ですか?」
「あぁ。今日、ちょうど終わったところだ」
短い会話だが、自然に紡がれる。互いの呼吸や動作に微妙な緊張が混じり、沈黙すらも意味を持っているようだった。街路樹の葉が風に揺れ、日差しが差し込む。その中で、二人は唯立ち止まり、互いを見つめていた。
佐伯は思わず、「姫川は……何してるんだ?」と心の声が漏れそうになる。だが言葉には出さず、唯自然に「スケッチか」と心の中で呟く。
姫川も同じく、何気なくペンを回しながら、「佐伯さん、書の仕事終わったんですね」と心に留める。その静かな時間の中で、二人はお互いの存在を確かめるだけで十分だった。言葉よりも、視線や仕草の方が、ずっと多くを伝えているように感じられた。
やがて、姫川が軽く笑いながら「そろそろ行きます」と言う。佐伯も頷き、歩き出す。距離を置きながらも、互いに何度も視線を交わす。 交差点を曲がり、視界から姫川が消えた後も、佐伯の胸の中には微かな温かさが残っていた。
姫川も同じく、スケッチブックを抱え直しながら、歩く足取りがほんの少し軽くなったのを感じる。 偶然ではなく、予定でもない、唯自然な時間の重なり。その一瞬の出会いが、二人の心に静かな波紋を広げていた。
午後の日差しはまだ優しく、街路樹の影は長く伸びている。誰も気付かない小さな瞬間が、二人にだけ特別な色を添えていた。




