静寂に息づく
姫川は、佐伯の仕事場で本を渡してから数日が経ったある午後。街をゆっくりと歩いていた。
冬の空気は冷たく、頬に触れる風は鋭いのに、どこか心地よい。舗道に差し込む日差しは淡く、通り過ぎる人々のざわめきが背後に残る。
胸の奥には、あの一冊の本を佐伯に渡した時の静かな余韻が、まだ柔らかく広がっていた。紙袋を抱えたあの瞬間、沈黙の中で伝わった感覚。言葉にされなくとも、互いの思いは通じ合ったのだという確信。それは、姫川にとってこれまでにない安定感と心地よさを与えていた。
──案件の終わり……でも、関係は終わらない
姫川は心の中で、再びあの言葉を繰り返す。足取りは自然で、肩の力はどこか抜けていた。胸の奥の小さな高揚と、静かな達成感が、街の冷たい光の中で微かに揺れる。
ふと、スマートフォンが震えた。新しい案件の連絡だ。件名を確認すると、普段関わる事のなかったジャンル――恋愛小説の表紙制作の依頼だった。
姫川は少し驚き、微小に笑みを浮かべる。これまでの自分なら躊躇したかもしれない。
しかし、佐伯に完成品を認めてもらったという体験が、静謐な自信と勇気を与えていた。
「よし……やってみよう」独り言のように呟き、姫川は深呼吸する。
新しい色彩、新しい挿絵、新しい文字――未知のジャンルは挑戦であり、また自分の幅を広げるチャンスだ。
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同じ頃、佐伯は仕事場の床に向かい、店の看板の文字を書いていた。墨を含んだ筆が紙を滑り、黒々とした文字が整然と並ぶ。
筆先に集中する一方で、ふと手を止め、先日の姫川の訪問を思い出す。あの時の沈黙の間に、互いの理解が確かにあった事。姫川の真剣な目、差し出された紙袋の感触、そして受け取った本。
佐伯は無意識に、口元の筋肉を緩める事もなく、唯目を細める。評価する言葉は口に出さずとも、心の中で確かに姫川の努力を認めていた。
床の上の墨の匂い、窓から差し込む午後の光。何気ない日常の中に、姫川の存在が静かに溶け込んでいる事を感じる。案件は終わったとはいえ、あの一冊を介した経験は、佐伯にとっても何か柔らかな影響を残していた。
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姫川はその日、次の案件に取りかかるために自室の机に向かった。机の上には、色鉛筆やデザインソフトを立ち上げたノートパソコン、メモ帳が整然と並ぶ。新しい表紙のアイデアを思案しながら、姫川は静かにペンを動かす。
「この色合い……もっと柔らかくして、挿絵は……」
独り言のように、自分の中でイメージを言葉に変え、紙に落とす。その間も、心の中では佐伯の存在が微量に影を落としていた。距離はあるが、確かな信頼がそこにある。
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佐伯は別の部屋で、書き上げた文字を見返しながら、姫川の作業を想像する。まだ直接的なやり取りはないが、心理的な距離感が以前とは異なり、互いの居場所が新たに定まった感覚がある事を、佐伯は淡々と受け止めていた。
──アイツの作業は、誠実で着実だ
声には出さず、心の中でそう呟く。表現の上手さや技術以上に、姫川の誠実さや慎重さ、そして静かな情熱が、仕事を進める姿勢に現れている事を、佐伯は知っていた。
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夜が近付き、窓の外の光が淡くなっても、姫川は机に向かい続ける。ページに描かれる色彩のひとつひとつが、新しい挑戦への意志と、自分の居場所を確かめる行為である事を感じながら。
──佐伯さんとの距離感……これが、自分の居場所なのかもしれない
再び心の中で呟き、静かに笑みを浮かべる。案件は終わったが、次の挑戦が始まる。そして、その中で、互いの関係もまた静かに形を変え、確かなものになっていくのだと感じていた。
夜の街に灯りがともり、静かに人々が行き交う中、姫川は机に向かい、佐伯は文字を書き続ける。直接の言葉はなくとも、互いの存在が日常にしっかり根付いている。静かな信頼と理解、そして未来への期待が、二人の間に優しく息づいていた。




