表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
43/59

沈黙の重み

 姫川は小さな紙袋を手に、佐伯の仕事場兼自宅の前に立っていた。案件が終わってからほぼ一ヶ月。連絡は途絶えていたが、今回は表紙の完全完成稿を渡す為の訪問だ。

 胸の奥には、淡い緊張が混ざる。ノックの音が控えめに響き、ドアが静かに開いた。


「姫川か」 佐伯の声はいつも通りに淡々としているが、どこか観察的な響きがある。


「──佐伯さん」 姫川は軽く頭を下げ、紙袋を差し出す。


 中には本が一冊入っており、表紙は勿論、佐伯の書が使われたものだ。 佐伯は無言で紙袋を受け取り、部屋の中に招き入れる。墨、煙草、そして古い木の机の匂いが混ざった独特の空気、そして久しぶりの空間だからか姫川は一瞬、息を呑む。

 佐伯の視線は冷たくもなく、温かくもなく、唯落ち着いて本を見つめている。姫川は僅かに肩に力を入れ、静かに頷く。


 紙袋からそっと本を取り出し、机の上に置く。巻かれた本は、佐伯の書が映える表紙に包まれている。姫川は息を整え、目の前に置かれた作品をじっと見つめる。

 佐伯はゆっくりと手を伸ばし、表紙をなぞる。光の反射が微妙に変わるその瞬間を、佐伯は丁寧に見ている。姫川はその静かな動作を目で追い、胸の奥が少し熱くなる。


「……悪くないな」


 その短い一言に、姫川は自然に肩の力が抜けた。佐伯は笑わないが、その一言には十分な評価が含まれている事を、姫川は知っている。

 佐伯は表紙を指で撫で、ページをめくるように視線を落とす。小さな紙袋に入れた一冊の本は、二人にとって唯の仕事の成果物ではない。お互いの努力、考え、慎重な選択、そして沈黙の時間のすべてが、この巻かれた表紙に凝縮されている。


 午後の光が窓から差し込み、本の表紙に微かに反射する。

 姫川はその光を眺めながら、静かに心の中でつぶやく。──案件が終わっても、こうして確認できるだけで、十分意味がある。


 佐伯は本を机の上にそっと置き、何も言わずに視線を姫川に向ける。沈黙が部屋を満たすが、その静けさが二人の間に特別な信頼感を生む。言葉にしなくても、互いの気持ちは確かに伝わっている事が分かる。

 姫川はゆっくりと紙袋を抱え直し、深く頭を下げた。「ありがとうございました、佐伯さん」


 その声は控えめであるが、確かに佐伯に届く。佐伯は目を細め、姫川を一瞥した後、再び本に視線を戻す。微笑みはないが、評価の眼差しが静かに宿っていた。


「気に入ったなら、それでいい」


 外の空気は冷たく、窓から差し込む光は淡いが、姫川の胸の奥は温かい。案件は終わった。

 しかし、この一瞬で生まれた理解と距離感は、言葉以上に確かなものだった。 姫川は紙袋を抱えたまま立ち上がり、ゆっくりと部屋を後にする。

 廊下の床を踏む音、ドアの開閉の音、か細い風の揺れ……すべてが日常の中の静かな証人のように感じられる。


 外に出ると、冬の午後の光が柔らかく差し込み、姫川の影を長く伸ばす。冷たい風が頬を撫で、胸の奥に心地よい緊張感が残る。


「案件の終わり……でも、関係は終わらない」 言葉にせずとも、この一冊の本を介した静かなやり取りが、二人の間に確かな影響を与えた事を姫川は知っている。

 足取りは自然で、心は少し軽い。背中には、案件を経て得た新しい距離感と信頼の感覚が、静かに刻まれていた。


「佐伯さんとの距離感……これが、自分の居場所なのかもしれない」


 静謐な達成感と共に、姫川は街の人々のざわめきに紛れて歩き出す。案件は終わった。

 だが、その終わりが、新たな柔らかくな関係の始まりでもあった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ