沈黙の重み
姫川は小さな紙袋を手に、佐伯の仕事場兼自宅の前に立っていた。案件が終わってからほぼ一ヶ月。連絡は途絶えていたが、今回は表紙の完全完成稿を渡す為の訪問だ。
胸の奥には、淡い緊張が混ざる。ノックの音が控えめに響き、ドアが静かに開いた。
「姫川か」 佐伯の声はいつも通りに淡々としているが、どこか観察的な響きがある。
「──佐伯さん」 姫川は軽く頭を下げ、紙袋を差し出す。
中には本が一冊入っており、表紙は勿論、佐伯の書が使われたものだ。 佐伯は無言で紙袋を受け取り、部屋の中に招き入れる。墨、煙草、そして古い木の机の匂いが混ざった独特の空気、そして久しぶりの空間だからか姫川は一瞬、息を呑む。
佐伯の視線は冷たくもなく、温かくもなく、唯落ち着いて本を見つめている。姫川は僅かに肩に力を入れ、静かに頷く。
紙袋からそっと本を取り出し、机の上に置く。巻かれた本は、佐伯の書が映える表紙に包まれている。姫川は息を整え、目の前に置かれた作品をじっと見つめる。
佐伯はゆっくりと手を伸ばし、表紙をなぞる。光の反射が微妙に変わるその瞬間を、佐伯は丁寧に見ている。姫川はその静かな動作を目で追い、胸の奥が少し熱くなる。
「……悪くないな」
その短い一言に、姫川は自然に肩の力が抜けた。佐伯は笑わないが、その一言には十分な評価が含まれている事を、姫川は知っている。
佐伯は表紙を指で撫で、ページをめくるように視線を落とす。小さな紙袋に入れた一冊の本は、二人にとって唯の仕事の成果物ではない。お互いの努力、考え、慎重な選択、そして沈黙の時間のすべてが、この巻かれた表紙に凝縮されている。
午後の光が窓から差し込み、本の表紙に微かに反射する。
姫川はその光を眺めながら、静かに心の中でつぶやく。──案件が終わっても、こうして確認できるだけで、十分意味がある。
佐伯は本を机の上にそっと置き、何も言わずに視線を姫川に向ける。沈黙が部屋を満たすが、その静けさが二人の間に特別な信頼感を生む。言葉にしなくても、互いの気持ちは確かに伝わっている事が分かる。
姫川はゆっくりと紙袋を抱え直し、深く頭を下げた。「ありがとうございました、佐伯さん」
その声は控えめであるが、確かに佐伯に届く。佐伯は目を細め、姫川を一瞥した後、再び本に視線を戻す。微笑みはないが、評価の眼差しが静かに宿っていた。
「気に入ったなら、それでいい」
外の空気は冷たく、窓から差し込む光は淡いが、姫川の胸の奥は温かい。案件は終わった。
しかし、この一瞬で生まれた理解と距離感は、言葉以上に確かなものだった。 姫川は紙袋を抱えたまま立ち上がり、ゆっくりと部屋を後にする。
廊下の床を踏む音、ドアの開閉の音、か細い風の揺れ……すべてが日常の中の静かな証人のように感じられる。
外に出ると、冬の午後の光が柔らかく差し込み、姫川の影を長く伸ばす。冷たい風が頬を撫で、胸の奥に心地よい緊張感が残る。
「案件の終わり……でも、関係は終わらない」 言葉にせずとも、この一冊の本を介した静かなやり取りが、二人の間に確かな影響を与えた事を姫川は知っている。
足取りは自然で、心は少し軽い。背中には、案件を経て得た新しい距離感と信頼の感覚が、静かに刻まれていた。
「佐伯さんとの距離感……これが、自分の居場所なのかもしれない」
静謐な達成感と共に、姫川は街の人々のざわめきに紛れて歩き出す。案件は終わった。
だが、その終わりが、新たな柔らかくな関係の始まりでもあった。




