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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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静かな自覚

 案件が終わった後、佐伯の元に向かう事もなくなった姫川は、日常の中でふとその沈黙を意識するようになっていた。

 以前は、仕事や確認の為に交わされていた会話ややり取りが、今はすっかり消えている。

 だが、それは決して関係が壊れたわけではない。誰も拒絶していないし、誰も責めてはいない。唯、必要な会話がなくなっただけだ。


 姫川はデスクに向かいながら、ふと思った。「佐伯さんとの距離って、こんなに変わったのか……」


 案件の最中は、目の前の仕事に集中するあまり気付けなかった微妙な心理の揺れが、今になってじわじわと胸に広がる。沈黙が長くなる程、意識の中で佐伯の存在が重くなる。

 それは不安でもなければ焦りでもない。唯、距離を測る感覚だ。


 佐伯は何も失っていないのだろう。淡々と、いつも通りに日々を送っている。連絡の途切れも、佐伯にとってはごく自然な事でしかない。

 しかし姫川は違った。案件を通して生まれた微妙な距離感や、言葉にならなかったやり取りの余韻を抱え続けている。


「俺って、こんなにも、考えていたのか……」


 自覚する事で初めて、姫川は自分の心理的な隔たりの存在を認めた。誰も責めず、誰も拒絶しない。唯、距離ができた。それを受け入れながらも、姫川は少し複雑な心境になる。

 静かな自室で手元のノートを開き、姫川は何気なく佐伯を思う。


「佐伯さんは、今も変わらず仕事に没頭しているんだろうな」

 視界の片隅にあるペンや書類の山が、案件中の光景を呼び起こす。心の中で微かに響く沈黙は、安心感と孤独感を同時に含んでいた。


 姫川は心の中で決める。──次に会う時には、もっと堂々としていよう


 沈黙の重みを知ったからこそ、次の一歩を踏み出す準備が整っている事に気付く。その決意は静かだが、確かなものだった。

 佐伯との関係は、言葉にせずとも進んでいる。案件後の沈黙は、終わりではなく新たな距離感を生み、姫川自身の成長の場となった。


 外の夜風が窓から入り、部屋の空気を僅少に揺らす。姫川は背筋を伸ばし、次に訪れる日常に向けて心を落ち着けた。

 沈黙の中に生まれた自覚。それは、確かな自分の存在を確認する時間だった。





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